幸せの定規
仕事に向かうためにタクシーを呼んだ。
朝はどことなくぼーっとして目覚めきれない。
手配したタクシーのドライバーさんが私の荷物をトランクに積むために運転席のドアが開き、
ドアからブラーんと放り出された片足に目が覚めた。
義足と右足を地面に降ろした後に松葉杖を持って車体後方にやってくる。
積荷しようとするオジさんに
「大丈夫ですか?」と声かけながら私も荷物を持ち上げた。
ハハハハとおじさんは言って運転席に戻り、私も後方席に乗り込んだ。
「are you okay?」って言っちゃったけど、これは果たして適切な言葉だったのか?
大丈夫だから、仕事してるんだろうから、普通に「how are you?」って声かけするべきだったんじゃないのか?
いつもならiPodをすぐに耳に入れる私は、自分の不適切さを後部座で考えずにはいられない。
途上国に行くのが嫌だっていうある人の言葉を
思い出す。
「不遇な子供を見ると辛いから」
そんなのとても偽善的だ。
不遇というのは誰の視点からの観測で
誰と比べての意見なの?
確かに日本で生まれ育った私たちは物も情報も飽和状態で
これらの国に生まれ育った子供達よりも恵まれているかもしれない。
誰かより、何かよりも恵まれてると言うのは、自分に優位性をもたせた偏ったものの見解。
そこに生まれ育った子供は止め処のない生命力で彼らなりの幸せを感じているかもしれない。
映画アポカリプトで主人公が自分の意思で森へ帰っていくように、私の思う幸せが他人の幸せのあり方とは限らない。
幸せは一人一人形が違って、私たちが思う幸せの尺度で他人の幸せを図ることなんてできない。
きっと神様でもしない。
オーランドの事件があってLGBT万歳と、まるでLGBTがファッションのように語るストレートの人間がいるけど、
彼らは一過性のファッションやトレンドじゃない。
目が小さい、口が大きい、同じように彼らの個性だ。
それを分かってか分からずかお祭りごとのように話す人間の心理がなんだか良く理解できない。
20年近く、ゲイが実に多い環境で仕事をしている。
おっしゃれーな芸能とかメイクアップ アーティストさんとか世間の日の目を浴びるようなステータスじゃなくて
生きるためにごくごく普通に生きているゲイ。だからこそ、強くそう感じる。
彼らのゲイ イズムは一過性のことでも
トレンドでもない、おしゃれな話でもない。
ごくごく普通、生活に根付いた話。
彼らのあり方はファッションでもトレンドでもない。
そういう彼らの象徴レインボーをファッションみたいに言う人間に違和感を感じる。
自分たちの商戦に使おうとしているの?
レインボーは彼らのあり方を象徴している色で、おしゃれ目的や話題、商戦の為にあるのじゃない。
私間違ってるな。
いろいろと...。
片足のタクシーのおじさんは、足を失い、不運な人生を歩んだのだろう。
でも、きっと片足になった彼は彼の幸せを見つけ、その幸せはかれの幸せの形。
タクシーが止まり、ドライバーさんが運転席から出ようとドアに手をかけた。
「おじさん。大丈夫よ。私荷物出せるから。トランクだけ開けてちょうだい」
「ありがとう」
幸せの物差しは自分の幸せを測るもので
他人のそれを測るものではない。
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