そのバカに愛はある
「おバカさんね」鼻を人差し指でつつく。
「ごめんね。」という彼に、「もう、ばかっ!」という彼女。
ちびまる子ちゃんに「おばか!」と怒るまるちゃんのお母さん。
そのバカには実は愛がある。
関西育ちの私は、社会人になりたてのころ、標準語がやけに冷たく、温度がないように感じ、とても苦手だった。
いつも、どことなくバカにされているような、そんな印象を受けていたけれど、社会人になって18年が過ぎ、関西の客を相手にも絶対関西弁が出なくなり、標準語で話すすることが殆どになった今は、若いころのように冷たさを感じることはなくなったように気がする。
「キミの『ばか』には愛がある。」
恋人にそう言われたことがある。
英語でバカはfool, stupid, idiotなどなどだけれど、どの単語も『ばか』のように親しみや愛を込めて使うことはあまり無いように感じる。
『バカ』と言われて愛を感じるというのは、言われる方と言う方の両者には言わずとも分かり合えているから、愛がある『バカ』と聞こえるのかもしれない。
愛してる。と口に出して確かめ合うよりも、強い絆があるからこそなし得る技なのかもしれない。
もちろん、言葉として気持ちを伝えることは大切なのだけれど、
地球上で命を授かった言葉を持たない全ての生き物はそれぞれの求愛の形があるように、言葉を持った人間のそれも例外でないように思う。
もしかすると、金銭やプレゼントを渡すことだけで愛を表現することができないかもしれない。
ある人は、毎日LINEを送ることがそれかもしれない。
ある人は、じっと待つことが、ある人は、彼女のカバンを持って気遣ってやることがそれなのかもしれない。
つい、2日ほど前に、10歳も年下の男性から、「愛の表現の仕方は人それぞれだよ」と言われたことが、気になって仕方ない。
10歳も年下の男性から諭されたことがやや衝撃で、なかなか良いこと言うじゃない!と感心したものの、考えてみれば、今から10年少し前、まだ19歳だった彼に、29歳の私が言った言葉だったことに改めて気づく。
「何だ!してやられたな。」私は自慢げにほくそ笑んだ。
「なんや!それ私が前に言うたことやんか!」と突っ込みそうになったけれど、誰が誰にそれを言ったとか、誰がどこでそれを聞いたなどと言うことは重要ではなく、腹に落ちたことは時間をかけて、自分の中で消化され、踏んだ経験や自分の視野で着色され、同じ言葉だっとしても、オリジナリティーが加味されるといえば良いのか、各々に定着していく。
何も自分が思いついたコトだけがオリジナルじゃない。
どの有名な画家も、他の画家やアーティストの影響を受け、それを自分の色に練り込んでいく。
そう、練り込んでいく。それもまたオリジナリティー。
とは言え、自分が言ったことに諭されるとは、なかなか面白い話だ。
腹の底の方がなんとなくクスグッタイ気分でもある。
「バッカ。生意気だな。
「空。バカだね~。年齢は単なる数字だからね。関係ないよ!」
ビデオチャットの画面の中で仁が大きく笑っている。
バカと言いあっても、お互いに傷つくことが全くない。
その「バカ」には愛がある。
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