占い先に立たず

「後悔先に立たず。」とは先人は良く言ったもので、この言葉は私が生まれる前よりもずっと昔から使われていたにも関わらず、私の人生は後悔で祭り状態だ。

後悔が多すぎて、祭りと言ってないと当の本人はやり過ごせない。

自分に学習能力がないから、繰り返されるのか、もしかすると人間として学習能力が乏しいからそうなるのか、頭を抱え込んで寝込んでしまいたいくらいだけれど、貧乏休みなしと言う事で、仕事に出かけるほか、選択の余地はない。

それに、家でぽつねんといると、自業自得とはいえ、自己嫌悪で喰われてしてまいそうだから、なるべく仕事に出ていた方が良く、

日頃、給料が悪いだとか、ブラック企業だとか、不平しか出てこない仕事場でも、こんな時だけは仕事があることに有難みを感じずにはいられない。

ありがとうございます!



私は、口が良く滑る。

秘密ごとを厳守できないと言う意味ではなく、やけに弁がたつことがあって、スイッチがかかると、身の毛がよだつように悪魔が私の体をのっとり、止まらなくなってしまうのである。

ほんの先日も、「貴方の仕事には温度を感じられない。温度のない人間がするのだから無理はない。」と相手の立場を分かりもしないくせに、分かった風に罵ってしまった。

そんなことを言ってしまっては、日頃、相手をどれだけ尊敬しているだのなんのと褒め言葉を貯金していたとしても、不渡りを出した銀行のように、何一つ回収は不可能で、むしろ赤がついてしまったのだ。

言ってしまって、清清した、胸がすっとしたと思えるようならば良いのだが、何分、中途半端な私は、言おうと思って言ったことを口にしたわけではないので、翌日には傷つけてしまった相手を想い、猛烈に反省することになる。

そういう状況が、次の状況を呼ぶのか、どういうわけか、反省から猛省へ誘う要因が次々と私を襲い掛かる。

今回も、自分がした事を顧みてはため息をつく毎日を過ごしていると、

偶然観ていたテレビドラマに自分との共通性を見出しては、相手のことを理解できていない自分と、分かったつもりでエラそうなことを言ってしまった自分に目まいを起こしそうになった。目まいを起こして、いっそのこと頭を打って記憶喪失になってしまえば良いのに。

こういう連鎖が起こるたびに、偶然なのか、必然なのか、「お前のようのアホはこうでもしないと気が付かないのか?」試されているというか、天より高き場所から叱られているようにも感じなくもない。

これが、偶然ならば、どうして、このドラマは前クールの時に放送されていなかったのか?

目まいで倒れて記憶喪失になることが無理なら、いっそのこと、全く関係ない周りのせいにしてしまおうという作戦にでたくなる。


私は占いなる物はあまり信じない。

雑誌の占いのページや、情報番組の占いカウントダウンなるものは見るけれど、いわゆる、足を運んで占いをしてもらうと言う事がほとんどない。

殆どない。と、言ったのは全くないわけではないので、これまた、突っ込みどころ慢性な緩い自分を笑うしかない。

学生時代に、女子大生でありながら、堅気でないオッサンと不倫をしていた友人が占いに行くから付いてきて欲しいというので、大阪の下町の某所にある占いの扉を叩いた。

実際は、商業施設の一角にある開けっ放しの場所だったので、扉など無く、いくらこそこそというか、すすり泣くように話している二人の会話も筒抜けで、聞きたくもない不倫の相談を私は聞くことにり、

すすり泣くように小声で話していたと思った友人は、実際すすり泣く域を越して、号泣していた。

占いとか、将来を教えてくれるなら人生を生きていると、楽しみが半減してしまうのではないか?起きることが分からないから、俯瞰的範疇でthat is life!と言うんだぞ。

占い師とは言え、見知らぬ人間に、大泣きしている友人を冷めた目というか、むしろ呆れかえって傍観していたものの、占いが終わるまで肩を落とした友人を待ち、良い友達を演じてみた。


あれから20年近くが経つ。

その20年という時間の中で、占いは信じない。と公言していた私は、実は6度ほど見てもらったことがあるというのだから、矛盾だらけの自分に笑いが止まらない。

言い訳をするわけではないが、ほとんどがノリで、真剣に見てもらおうとお金を出して占ってもらったのは2度だけ。

そして、見てもらって良かったと思うのは一度だけ。

1度目は、仕事で出会った有名な方で、なんでもどこかの国の王様に招かれて、その国に向かう道中でに遭遇したもんだから、ついでも縁といわんばかりに診て頂いた。

2度目は、6年付き合っていた恋人とお別れし、毎日悲しみでどんどん小さくなって行くある日の昼間に、チェーン店のコーヒー屋さん(昭和の人間だからか、なぜかカフェということに抵抗がある)で、おもしろい遭遇をしたので、お願いせざるを得なかった。


頭の先から足の先まで真っ白、白装束のような恰好に、白い草履を履いた男性が紀伊国屋の紙袋を携えて店に入ってきた。

私と友人が座るテーブルの横を行ったり来たり。

誰かと待ち合わせなのか、私と向かい合わせになるような形に向こう側のテーブルに陣取るまで、とにかく行ったり来たりするので、その男が白装束でなくても関心を持っていかれるて当たり前だけれど、私の関心を一気に掴んだのは、それに加えて、その男が履いていた両方の草履にはゴルフボールがすっぽり入るほどの穴が開いていたという事だった。

その穴は、貧乏や無頓着とかそういう理由で開いたものではなく、何らかの理由があって開けたらしい感じがした。

そして、そこまで白にこだわっているのに、紀伊国屋書店の紙袋を持つこのアンバランスな感じが、私には「ただ者でない」人物に思えて仕方なく、目を放すことができなり、友達の話など上の空でその男の動向を観察した。

暫くして、ビジネススーツに身を埋めた、いかにも「成功してます。」と言うような男がその白い男のテーブルに座り、私にしてみれば、待ってましたと言うように、とうとう、紀伊国屋書店の紙袋の中身をテーブルに取り出した。並べ出したのだ。

並べ出したと言えば、察しがつくかと思うけれど、それは何の変哲もないタロットカードだった。

でも、考えてみて欲しい、お世辞にも普通とは言えない出で立ちの男が金持ち風の男と待ち合わせて、こんなコーヒー屋さんでタロットをするなんて、尋常でないように感じる。

紀伊国屋の紙袋の中身を確認できたものの満足できないどころか、ますます興味津々になった私は、たまらず、一緒にいた友人に私を占ってくれるようにお願いしてもらった。

ここで、自分が行かないというところが、本気なのか、関西的に言うとおちょくっているのか、自分でも分かり辛く、ずるい。

とにもかくにも、その男は私を占ってやると言い、私たちは向かい合わせに座ることになった。

「カードをめくって頂戴。」

私が何を占ってほしいかとオネエな口調の男は聞かない。

「ここに、割れた花瓶の絵札が出てるわ。貴方の思うことは既に壊れていて、元には戻らない。」

私は笑うことしかできなかった。

「何を知りたかったの?」

男が私に優しく尋ねる。

「実は、先月恋人とお別れすることになってしまって、その方と復縁があるか、占ってほしかったんです。」

「それは、悲しいことだったわね。でも、残念だけれど、彼は帰ってこないわ」

「絶対ですか?」

「絶対よ。」

タロットを趣味でしていれば、当たり前の解釈だろうけれど、そんな風にも見えず、謝礼を払いたいと申し出たが、一銭も取らなかったよ。また、それが本物の占い師だったように今になっても思うし、彼の言う事は当たっていた。


3度目は、ほろ酔いで帰る夜に、寂しく机を出していた女性の手相占いだった。

私は、かなり酔っぱらっていたようで、その女性易者がいう事がいちいちおかしくて仕方なく、手相を見てもらうどころか、説教されることになる。

「うける!!??]

酔っ払いの私が言ったことに過剰に占い師が過剰に反応した。

「あなた、年の割には女子高生みたいな口の利き方するのね。その大きな口には気を付けなさい。」

「私、口はおちょぼ口だといわれるんですけれど」

「あなた酔ってるの?」

どこから見ても、シラフにはみえないはず。

「あっちへ行ってちょうだい。あなたのお友達見てあげるわ。」

「はい。」素直に、女の易者の正面を友人に譲るため、やや左に寄って友人の手のひらを覗き込む。

「あなた邪魔よ。」

「はい...」もう少し離れてみる。

「あなたが視界に入ると気が散るのよ。もっと向こうへ行ってちょうだい。」

人通りのない日曜の裏路地の夜、向こうへ行けと言われても、あまり選択がない。私は閉店した洋服屋の軒先で体育座りで友人の占いが終わるのを待った。占い師にそんな言われ方をしたことがある人はあまり居ないだろうけれど、大きな口に気をつけろという忠告は、占い師じゃなかったとしても、聞くべきだったと思う事が、その後の日々の生活で何度もある。


4度目は、同僚の間で流行っていたので、お付き合いで同行した。

台湾人の女性が占ってくれると言うので、何となく信ぴょう性があるように感じたが、あまりに英語が通じなくて、最終的に私は笑いを堪えるのが大変だった。

「貴方は腰からHELLにかけて気を付けた方が良いわ。」

「HELL(地獄)ですか?」

「そう、HELLよ。」

まだ死んでも居ないのに、地獄での生活を心配する必要がある。しかも死後の行先は地獄と断定された。

地獄での生活を心配するなと言う方が惨いリクエストだ。

「HELLですか?天国と地獄の?」

台湾女性が人体の絵を紙に書き、「ここよ!」と言わんばかりにペン先で踵を点、点、点。と突いた。

「HEELですか?」

「あ~。そうねHEEL(かかと)よ」

占いとは、大概そんな感じに、なんだかオチのあるネタ的な話になってしまうのが定着しつつある。

でも、5度目は、なぜか、急に占って欲しいと、朝起きぬけに思い、成田山で界隈ではちょいと有名な易者に会うべく、支度をすすめた。


成田山には何度も来ているけれど、こんなところに占いが軒を連ねていることは今日まで知らなかった。

おそらく10軒ほど、お寺だけに数珠つなぎのように並んでいるものの、目当てに来た軒はシャッターが下りている。

そのお目当ての易者を探すにあたり、横並びになった占い屋の前を往復してみる。店の中から、悪く言えば、あちらの世界へ手招くようにそれぞれの易者が私を招く。

「なんだか、私らしくない場所に来ちゃったな。」

占いと言うよりも、私は縁、偶然が呼ぶ縁を私は信じている。

今、この最も私らしくない場所に立って、目当ての物がないのであれば、これは縁がない。

ここに来る前に、店が開いていなかったり、並ぶ必要があるならばご縁がないものだと自分の中で心に決めていたこともあって、私は、仏さんに手を合わせて帰ろうと、いったん、本堂へと向かった。

そして、帰り際に、どうせ通り道だと思い、もう一度占い屋の前を通ってみる。

すると、お目当てだった易者さんがちょうど軒を上げているところで、開店準備をしているのだから、私が一番の客。

多少無理やり感は否めないけれど、ご縁があってみて頂けることになった。

「私は貴方の将来のことは教えてあげられません。貴方が今悩んでいることは、どうしてそうなる運命にあったのかを教えてあげます。」

占いなのに、将来みてくれないの?

将来に不安をもって、訪れた者にはがっかりするような、人によっては怒って帰ってしまうかもしれない事をこの易者のあっさり言い、逆に私はそこに誠実さを感じ共感した。

神様ではあるまいし、誰かの将来なんてわかるわけがない。

もしかすると、神様だって将来に起こることは、「己で探求すべき」とおっしゃるかもしれない。

それに、お寺さんの敷地にある易者が神仏を差し置いて未来を教えて進ぜようなんて言える肝の座った人間はそういたものではない。

「お願いします。」

占いなんて所詮統計学で何の根拠もないけれど、全く知らない人に話をすると言うのはセラピーと言う意味で、とても良いことに気付き始める。

四柱推命を基盤に一通り診た後、「何があったの?」優しく聞く易者に不覚にも涙が零れる。

占いに行くと言う時点で尋常な精神状態ではないのだろうけれど、

想い他、占いと言うよりも、人生相談のようなあり方に、気持ちを整理しながら、感情をコントロールしながら話している自分に、どちらとも取れそうな易者のあいまいというか、無難な言葉を、

客観的に何が今の自分にベストなのかを考え始める自分に気づく。

自分で気づく、自分で答えを出す。

後悔も占いも先に立たず。

先に立たせるべきは、自分で答えを出すこと。それしかないんだから、と思うのです。

「またお話きかせてくださいね。ごめんくださいませ。」

店を後にする私の背中を易者が優しい声が押す。

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