神様と仏心

水面まで15メートル。

透明度抜群の水は空のブルーに呼応してブルーなのか分からないほどのトランスパレント ブルー。

岩場に近いスポットを目指し青い海を飛行する。


スキューバを始めて、かれこれ10年以上経つが、ウミガメやマンタと遭遇するたびに私には彼らが海を飛行しているようにしか見えない。

マンタやウミガメの魚と異なる形からそう思うのかもしれないけれど、青く透明な背景の中で、彼らは確かにふわりふわり、或はヒラリヒラリ、時にピューッと飛んで行くように、どうしても私には見えるから。


人間が人生に行き詰ると故郷を懐かしむ回帰願望があるように

私は毎日の生活に少しずつ埋もれ息苦しくなると、どういうわけか海中に自分を沈めたくなる。

誕生日がちょうど境目で本や雑誌によって異なる2つの星座を指し、どちらに転んでも水にまつわるものだ。憑りつかれるように海や水に戻りたくなるのはそのせいかも?などと無理やりな理由を考えるほどだ海に帰りたくなる。


海中で体を時計回りに回転させ、海面を見上げる。

青白く見える太陽に向かって私は息を吐く。

様々な大きさの気泡が散り散りと海面に上がり、私から離れて行く。

もう一度、レギュレーターから酸素を吸い込み、吐き出す。

「呼吸」が見える瞬間、私は生きていることを再確認する。

身体の中にため込まれ、不要になったものが二酸化炭素となって大きな自然へ回帰していく。

「生きている」を感じる。「生きよう。」を誓う。

海に潜るたびに必ずする儀式だ。ダイビングをしている自分に酔っているただのナルシストなのかもしれない。

ゴツンという鈍い音で自己陶酔していた私は我に帰る。

自分に酔っていたあまり背中に背負うタンクが岩場に当たることを回避できなかった。かっこよくなり切れない自分、そんな失態を周りに見られていないことを誰も居ない海中で周りを見渡す自分が滑稽で、歳を重ねれば重ねるほど愛おしく思うのは不思議だ。

若いころは、自分のかっこ悪さやダサい点を情けないと思うことが多かった。きっと「できるだろう」と思う過剰な自信がそうさせるのだろうけれど、人生経験を積むと、自分の力ではどうしようもないことを沢山経験する。それをどう受け入れるかで徳は変わっていく。できないことを謙虚に受け入れ、そんな自分を笑い飛ばす力を備えることで徳は得ともなりえる。


ゴツンという鈍い音で我に返った私は、体制を整え直そうと上体を少し立てた。視界の上の方で、もう一人のダイバーが浮力を失い、浮上していく。それはたまたま一緒に潜っていたインド人の若い女の子だった。コントロールを失った浮力に逆らうように必死でもがく様子は犬かきにしか見えない。レスキューダイバーの資格を持つ私が助けてもよかったのだけれど、前回のダイビングから1年半のブランクを開けていたので人を助けられる自信があまりなく、このダイビングを引率するDMダイブマスターにタンクをポインターというステンレス製の指し棒で叩いて音を出し注意を促す。このDMとはダイビングを始めた頃からの付き合いだ。

カンカンカンカン。

海にはない音が広がる。

彼が異変に気づいたころには彼女は水面まで上がってしまっていて、結局ボートに彼女だけを戻すことになった。

DMが戻るまでの間、私は冬眠するかの如く、自分の呼吸だけが聞こえる海底で白い砂地から生える海藻のように呼吸をするたびにゆらり、ふわりしながら自らを潜めていた。

潜り慣れているので、このまま彼が戻ってこなかったとしても安全に浮上する術は心得ているし、その為の補助機材も万全に備えている。

安全とは言えど、1人きりで待つ海底は少し心寂しいもので、しきりにダイブコンピューターという時計の進化版を見ていると、不安が少しずつ心に流れ込む。

そんなときは、息をできる限り深く吐く。吐けば高揚した気持ちが鎮まる。そして体も沈み安定する。過剰に酸素を取り込むと余計に焦り、浮力がかかった体は制御困難となる。

自分をコントロールするために、一番に制さなければいけないこと、それはきっと呼吸なのだろう。私は私の呼吸に耳を傾けながら息を吐く。

チリリリン。チリリリン。

どこかから聞こえる呼び鈴を私は誰もいない海中を見渡し探す。DMが知らない間に海底に戻っていた。

「こっちだ」という合図に応答の合図を送り、フィンを蹴り始めた。

その絶景スポットは岩場に近い。海面から5メートルということもあり、岩に打ち寄せ、打ち返される波の影響で流れがある。

流れが強くなったせいもあり、海を飛行するなどと悠長なことは言っておられず、必死に漕いでいる。強い向かい風の中、登りの急な坂道を、ギアチェンジなど当然のごとく付いていないママチャリで立ち漕ぎしているような状態だ。

「これ、どこまで続くの?」レギュレータ―から吐き出す息も荒くなる。

水温が少し温かく感じた次の瞬間、私は項垂れるように声を発した。

DMが指さす先はカラフルなサンゴが広がっている。

海面から5メートル。透明度抜群んもトランスパレント ブルー。

真青な青い空が水中からもはっきり見える。

色鉛筆の箱をひっくり返したように広がる色とりどりのサンゴ、そのサンゴに岩に打ち返す波と泡が力強い太陽の光りを砕き、光の雨がキラキラと降り注ぐ。

ここは天国なの?

自然美は自然美とだけ呼応し、融合し、絶対美を作り上げる。

人間はそれを前に天を仰ぐか項垂れるしかない。

息が切れているのは全力で漕いだせいか、それとも興奮しているせいなのか、私にも分からないけれど、確かに私は天国の入り口を見た、或は天国に居た。

DMが上昇の合図にOKサインで答えると、何かに足止めされたように前に進まない。非常時用の予備のレギュレーターがいつの間にか固定ケースから外れてサンゴの間に絡まっている。

次の瞬間、波に押されてレギュレーターとサンゴが外れた。

「うわーーーー」水中で使える瞬間接着剤があればとこれほどに願ったことはないが、折れてしまったものは仕方がない。

このサンゴを持ち帰って処分するか、置き去って知らなかったことにするか・・・。どちらが良いのかは分からないし、仕方ないと割り切れない私はサンゴに「ごめん」と合掌して水面を目指してゆっくり浮上した。

天国を破壊した罪の重さがどれほどなのかは今後の人生に請求がくるとして、今は私だけしか知らない失態は誰にも言えない。


ボートに戻ると、先に戻っていたインド人の女の子が私がサンゴを壊してしまった事を見ていたのか?と言わんばかりに残念そうというよりも不貞腐れた顔をして座っていた。水中の景色は天国だった。天国には神様がいる。だとすれば、彼女は天国の上に浮かぶボートから私の失態を見ていたのかもしれない。

「貴方が壊したのは黄色のサンゴですか?それともピンクのサンゴですか?」とすら言いそうに悲しそうに海を見つめている。

「サンゴは残念だったけど、悲しい顔しないで!次のダイビングはきっと楽しいわよ」

「は?悲しくなんてないわ。私の顔は生まれつきこういう顔なの。」

サンゴを折ってしまった罪悪感が不意に口先をついて出たものの、今年15歳の女の子にこんな生意気口をきかされるとは...。彼女が神様でない事は間違いないようだ。待てよ、これはある種の試練なのかもしれない。私は返す言葉が見つからず笑い返す。

「私、水泳の選手なのよ。でも、スキューバの講習を受けたとき、潮に流れがあるなんて誰も教えてくれなかったのよ!」

人間の不平や文句が聞こえない海中の素晴らしさをひとしお身に感じる瞬間は現実の生活に戻らずとも付き物のようだ。

寡黙に機材を整理していたDMが彼女の前に立ったかと思うと、ヒョイと細い彼女の体を救い上げ、次の瞬間、彼女の体はトランスパレントブルーの海に放たれ、白い水しぶきを上げた。

「海には波もある、潮もある。水泳の選手が聞いてあきれるぞ。」

DMが放った浮き輪を投げ返して、彼女は船に泳ぎ始めた。神様は天国で彼女を助けもするし、試練も与える。

「拝んでもサンゴは元にもどらないぞ」用無しになった浮き輪を回収すべく、ロープを巻きながらDMは私に笑いかけた。

やっぱり神様は何でもお見通しと言うわけか。

「ワザとじゃないの、予備のレギュレーターが外れて、引っかかったの..。」

「分かってる。これは二人だけの秘密だ。」

神様は秘密を共有し、仏心で私の罪悪感を半分持ってくれた。

仕方なく起こってしまった事には、仏心を持って寛容なのかもしれない。

仕方なく起こってしまった事に対して、罪悪感を感じたり、良心の呵責を感じる者には、神様も片目を瞑ってくれるのかもしれない。

そうでない場合、神様は容赦なく試練を与えるのかもしれない。

神様や仏様はトランスパレントブルーの海や教会でも寺でもなく、人間一人一人に同居してるのかもしれないと私は思う。


海に投げ出された女の子がボートに戻り、船べりにかけられた梯子をつかもうとする彼女に手を差し出した。

「海には波も潮の流れもあるということ、分かっただろう?」

彼女は無言で彼の手をガッチリと掴む。

ボートのエンジンがかかり、トランスパレトブルーの海には波音とエンジン音以外は何も聞こえない。







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