なるこレプシー

キムラヤスヒロ

第一回 事実は小説より奇なり

 わたしは他人の目を見ることができない。


 いまのわたしの台詞を聞いて、あなたはわたしがいわゆるコミュ障だと思っただろうか。

 その思考の流れはきわめて普通だし、べつに否定するつもりはないけれど、わたしが言いたかったのはそういうことではない。そういうことを言いたいのであれば、それはあまりに普通すぎてきっとお話にならない。

 もう少し具体的に説明してもいい。もっとも、それを具体的に説明したところで理解してもらえるものなのかはわからないし、そもそも具体的に説明していいものなのかもわからない。そうはいっても、説明しないとお話が進まないから、わたしは結局その説明をすることになる。


 んにゃあ。


 ここでいかにもご都合主義的に、実にちょうどいいタイミングで、それこそ猫の手も借りたいほど忙しい平日の朝だというのに、お構いなしにベランダで優雅な気分に浸っている、もう春なのにまだまだ冬毛の抜けきらない一匹の猫が現れる。

 この彼(もしくは彼女)に被験者になってもらう。体毛が三色なので、おそらく彼女だと思うけれど。この猫は我が家のベランダ及びその周辺に居座ってもう長い。色褪せたサイズの合わない赤い首輪が首に食い込んでいるので、逃げ出した飼い猫が野生化したものだろう。首輪を外してやろうと思ったこともあるけれど、近寄れば逃げるのだからどうしようもない。


 さて、これからわたしが彼(もしくは彼女)に悪魔の実験をしたところで、我が家の敷地を不法に占有している彼(もしくは彼女)に反論の余地はないだろう。

 ちなみに、他人様にお見せする最初の具体例が動物、それもよりによって四六時中一箇所にとどまって動かない個体というのはたいへん恐縮なことで、お見せしたところで、「人間相手にはどうなのだ」と言われてしまえばそこまでなのだけれど、今後登場するであろうわたしの一部の友だちを除いては、これはおいそれと人間相手に試すことのできるものではないので、ご容赦いただくほかない。きっとそれは、これからのわたしの説明を見てもらえればわかるはずだ。


 わたしは顔に掛けた桜色のセルフレームの眼鏡を外して裸眼になり、ベランダの方向に直って中腰になる。目線の高さをベランダの彼(もしくは彼女)に合わせながら、喉をコロコロと鳴らして彼(もしくは彼女)ににじり寄っていく。彼(もしくは彼女)は、「何事か」と言わんばかりにこっちを見てくる。人間慣れした猫は、こうすればたいてい逃げずにこっちを見てくる。

 そして、わたしは、そのまま裸眼で彼(もしくは彼女)の目をじっと見つめる。ものの数秒。


 んにゃあ? んにゃ―――


 断末魔にしては少し間の抜けた声をあげて、彼(もしくは彼女)はそのままベランダで目を閉じた。ご協力ありがとう。


 …安心してほしいのだけれど、彼(もしくは彼女)は眠っているだけだ。


 そう、わたしは他人(と言っておきながらその被験者が動物なのは重ね重ね恐縮だ)の目を見ると、その他人を眠らせることができる。というより、他人の目を見ると、その他人は眠ってしまう。


 だから、わたしは他人の目を見ることができない。この眼鏡がなければ。


 事実は小説より奇なり。


 これはそのまま、「小説よりも現実の世の中で起こることのほうがよほど奇妙である」ということなのだろうけれど、いろいろな意味でよくできた言葉だ。


 わたしにこの能力(というと気恥ずかしいけれど)、要するに先ほどお見せした、「目を合わせた他人を眠らせる」力が発現したのは、わたしが小学生のときだった。

「他人と目を合わせる」というコミュニケーションに欠かせない行為をそれまでにしてこなかったはずがないし、それまでなにも大きな事件がなかったのだから、常識的に考えれば、そのとき初めてこの能力がわたしに芽生えたということになる。でも、そのきっかけに心当たりはなくて、それは本当に突然の出来事だった。


「こんな恐ろしい力を持っている子供は悪魔の子だ」と家族からは見放されて、国家に管理された特殊な施設に、なかば幽閉のようなかたちで入所させられて、友だちもいなくなったわたしは、そっと歴史から抹消される。


 わたしは子供心にそんな心配をしてみたけれど、どうやらそれは、先ほどのことわざで言うと「小説」の方であるらしい。

 「事実」、すなわち現実の方では、わたしの両親は始めこそさすがに少し驚いたけれど、意外すぎるほどあっさりとわたしのこの能力を受け入れた。

 大学に務める父さんのつてで紹介を受け、わたしの目を調べてくれた先生も、両親と同じような反応を見せただけで、その後は、この不思議な眼鏡(そもそも、こんな眼鏡のレンズ一枚で、わたしの力を無効化できるというのも、まるで小説のようでだけれど)をわたしに与えてくれただけだった。拍子抜けしてしまうけれど、それが現実だ。

 恋人はいなくても友だちはいるし、この眼鏡を日常生活において手放すことができない以外は、これといって何の不自由もない。

 ワイドショーのリポーターがわたしをしつこく追いかけてくることもないし、この能力を重用されて、どこかの名探偵みたいに高校生の身で捜査の第一線に駆り出されることもなければ、「頼む! 殺さないでくれ!」と、わたしを見た大の大人がなりふり構わず逃走するようなこともない。


 こんな事実は、間違いなく「奇」だ。だって、普通なら、わたしのさっきの妄想はともかくとして、もう少しは騒いでいい。


 幸か不幸か、せっかくこのSF小説のような奇妙な力を手に入れたわたしを、現実はいとも簡単にあしらっている。案外、こんなものなんだろうか。

 確かに、この力を積極的に周りに知らせることはこれまでしてこなかったけれど、そんなことをしなくても騒がれるものだと思っていたし、騒がれたい気持ちが少しもなかったかと言われると、正直、嘘になる。それによって起こる嫌な出来事もあるだろうけれど、それはまた別の話だ。


 そんなことをぼんやり考えていると、部屋の掛け時計はもう出発しなくてはいけない時刻を示している。朝食も食べていないのに。

 今日から新学期が始まり、わたしは無事に高校二年生になる。

 これがもし「小説」であれば、わたしはトーストをくわえて慌てて出発し、そのあと、曲がり角の向こうから走ってきた少年か少女と衝突する。そして、学校で新しい担任の先生が、その彼だか彼女だかを、転校生として紹介するのだろう。

 …そんな使い古されたあまりにもありがちなプロットしか思い浮かばない時点で、わたしのその方面の能力の底が見えている気がするけれど、とにかく、何かが起こるということだ。


 春休みの間にきれいに磨いておいたローファーを履いて、両親がひと足先に出勤した玄関の鍵を閉めて、出発する。

 新学期に合わせて、眼鏡のフレームを新調した。

 この不思議なレンズを変えるわけにはいかないから、なるべくレンズを削らずにすむフレームを選ばなければいけないのが辛いところだけれど、うまく条件を満たしてくれる、春らしい桜色のクリアのセルフレームが見つかった。

 学校では目立つほうのポジションではないわたしでも、少しは友だちの反応が気になる。そもそも、去年同じクラスだった友だちが一緒でなければ、フレームを替えたことに気付いてもらえないかもしれないけれど。

 そんなことを考えながら、家を出てすぐの曲がり角に差しかかる。こっちを曲がるのは学校に行くときだけだから、数週間ぶりだ。


 ドン。


 鈍い衝突音とともに、わたしは体勢を崩して、アスファルトに尻餅をつく。


「いたた… し、失礼したわね」


 その声にわたしは顔を上げる。

 目の前で、わたしと同じ制服を着た少女が、わたしと相対するように尻餅をついている。どうやら、わたしは彼女と正面衝突したらしい。

 彼女はすぐに立ち上がると、スカートの尻の部分を手で払った。きょうは晴れているからあまり汚れずにすむのが不幸中の幸いだ。

 まるでよくできたコスプレ用のウィッグのような発色で、それでいて艶のある美しい緑色の髪。そこに光沢のある黒いカチューシャをつけた、わたしよりも頭一つほど背の低いロングヘアの美少女は、わたしの目をじっと見つめている。ネクタイの色はわたしと同じ緑だから、同じ学年だ。でも、こんな目立つ髪をした美少女が、同級生にいただろうか。


 あまりに彼女がわたしの目をまじまじと見てくるので、わたしは気恥ずかしくなって地面に目を逸らした。


 すると、わたしの眼鏡が、アスファルトの上に落ちていた。

 

 まずい。わたしはいま裸眼だ。ぶつかった衝撃で眼鏡が落ちてしまったらしい。

 わたしが裸眼で他人の目を見たら、その人はたちまち眠ってしまう。


  …あれ。いや、いま。


 

 わたしは動揺して、反射的に彼女の顔を裸眼のまま再び見てしまう。

「おはよう、千明ちぎらなるこ」

 美少女は眠る様子がないどころか、どう考えてもわたしのフルネームを知っていなければできない挨拶を微笑みとともに放ち、学校のほうへと足早に立ち去った。


 わたしは呆然として、そのままアスファルトから立ち上がれずにいた。


 事実は小説より奇なり。


 これは、いろいろな意味で、よくできた言葉だ。

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