ゴキブリフォビア
いまにして思えば、パパがおかしくなる兆候は、初夏にはもう、顕れていたと思うの。
もともとパパは潔癖症で、掃除には口うるさかった。それが五月に入ったあたりから、なんというか、病的に激しくなってきたの。
朝も晩も家じゅうアルコール消毒して。シンクに食材が散乱してるだけで悲鳴を上げたわ。ルーペ片手に床掃除をして、髪の毛一本でも落ちていれば犯罪だ、といわんばかり。一緒に暮らすあたしやママにとっては、たまったもんじゃなかったわ。
原因は明快――ゴキブリよ。あの黒くてすばしこい不潔な虫が、台所の残飯を餌にしていたの。その光景が気持ち悪くて、それからよ、パパが掃除に躍起になりはじめたのは。
だけどいくら気をつけても、虫ってどこからでも入ってくるの。パパはいつも髪をふり乱して、ゴキブリを親の仇みたいに追いまわしてた。そのうちゴキブリ根絶のために寝る間も惜しんで侵入経路や生態の研究を始めたわ。家じゅう粘着シートで埋め尽くすぐらい、涙ぐましい努力に明け暮れていたのよ。
そんなパパの苦労を嘲笑うように、ゴキブリは何度も家に現れた。パパはそのたびに絶望で失神しそうになりながら、次から次へと殲滅作戦を練ってたわ。オリジナルのホウ酸団子を調合しはじめたときなんか、パパの眼はまるで、マッド・サイエンティストみたいに真っ赤に血走っていたものよ。
「パパ、もう仕事を辞めるよ」
憔悴しきった顔で、パパはぽつりとそういったわ。「家をゴキブリから守らずしてなにが一家の主だ!」とか「愛する街も、守ってみせる!」とかむちゃくちゃいいだして。右手には狙撃用のピレスロイド系殺虫スプレー、左手には白兵戦用のスリッパで武装して、ご近所じゅう駈けずりまわって鬼の形相でゴキブリ退治。街の子供たちはパパのこと「ゴキブリキラー」とか呼んでたけど、あれはあきらかに馬鹿にしてたわね。
恥ずかしいからやめてって、何度もいったの。だけどパパはまるで耳を貸さない。なにかに憑かれたようにブツブツ呟きながら、ゴキブリの黒い影を捜しまわってたわ。しまいには黒ければなんでもゴキブリと勘違いして追い回す始末。お葬式に乗りこんで喪服の人たちに線香代わりに燻煙式の殺虫剤を撒き散らしたときなんか、何人もの無実の人が尊い犠牲になったものだわ。
ひどいのは、パパの独り言よ。「街がゴキブリだらけなのは政治が腐ってるからだ……」「人類の罪への神の罰……あれは悪魔の黒い翼……」とか、真顔でくり返してるの。
あたし、ゾッとしちゃったわ。そう、パパは完全にノイローゼだった。ゴキブリへの過度の恐怖心が、パパをおかしくさせてしまったの。もちろん、あたしだってゴキブリは嫌い。でも噛みつくわけでなく毒もない、たかが虫けらをそこまで怖がらなくてもいいじゃない。大の男の人が、みっともないわ。だけど、あたしがそういっても、パパは顔を蒼くして、膝を抱えて震えるだけだった。
だから、病院の人たちがパパを迎えに来たときも、あたしもママもちっとも驚かなかったの。強制入院も、しかたないって思えたわ。
屈強な看護師さんたちがパパの貧相な両腕を掴んで、車に引きずりこもうとした。
そのときよ。パパ、それを払いのけてあたしに迫ってきたの。パパの顔、まるで雪山で遭難したみたいに目が落ち窪んで、髭もじゃで、別人みたいだった。
パパは叫んだわ。あたしを抱きしめながら、悲痛な、訴えるような声で。
「愛する娘、よくおきき。世界は危機に瀕している。パパの子供の頃、ゴキブリはこんなに大きくなかった。こんなにたくさんいなかった。この数十年、みんなが地球を汚して、温暖化が進んで、日本は熱帯と化した。それでゴキブリは巨大化を遂げ、爆発的に増殖したんだ。こんなの異常事態だよ、だのに社会問題にならないのは、格差社会が進んだせいで、貧乏人と金持ちの住む地区がはっきり分断されてしまったからさ。ゴキブリは劣悪な環境のスラムには異常発生するけど、金持ちどもは安全な街に住んでいる。罪深いことだ。政治が悪いんだ。だけど、それを口に出すと、パパみたいに収容所送りにされてしまう。娘よ、お願いだ。パパを信じてくれ。だれかが正しいことを、子供たちに伝えなきゃならないんだ!」
看護師が振るうブラック・ジャックの雨のなか、パパは血みどろになりながらそう訴えたわ。むりやり車に乗せられる、最後の瞬間まで。
鉄格子つきの後部
辺りを覆うおぞましい羽音に、ふと見上げると、あたしの背丈ほどもあるゴキブリの大群が、スモッグまみれの大空を、きょうも真っ黒に塗り潰していた。
いまでも、あたしにはわからないの。
ねえ、パパは狂人なの? それとも、パパが最後にいっていたことは、
2011年、原稿用紙換算6枚
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