ハンバーガー・ドリーマー
地図から逸れてんじゃあないかと、薄々勘づいてはいたけれど、後ろは絶対ふり返らない持ち前の男気あふれる性格が仇になって、おれはまんまと遭難した。現在地は標高八〇〇〇メートル、チョモランマのどこか。推定気温はマイナス六〇度、非常食は家に忘れてきた。天候、豪雪。意識は朦朧。ひとことでまとめると、状況は絶望的である。
いや、いまにして思えばこの
未曾有の大不況で定職にも就けず、六帖一間のアパートで就職氷河期を震えながら生き抜いてきた。やっとの思いで掴んだ仕事は、かの有名なアメリカ資本のハンバーガー・ショップ最大手チェーン、パクロナルドの厨房で延々八時間ひたすら一個八〇円のハンバーガーを焼き続けるアルバイトである。時給七五〇円のその単純作業を十年続け、ふと鏡をみると、髪もまばらでビア樽みたいな腹を抱えた中年の惨めなおっさんが立っていた。おれは、エプロンを、投げ捨てた。
「やってられるか、こんな仕事!」
そこへ声をかけてきたのが、雨の日も風の日も共に数年来ハンバーガーを焼いてきた、
「飯場先輩。どんな仕事も、辛抱が肝心ですよ」
抑揚のない無機質な声でかれは言った。
「辛抱の果てに、なにがある」
「ぼく、いつか店を持ちたいんです。じぶんだけの、ハンバーガー・ショップをね」
幕戸くんは脇目もふらず、大量のハンバーガーをその細腕で焼き続けている。正確にして迅速、熟練の手並みである。無駄口もきかない寡黙なかれは、まさに牛馬のごとくよく働く。
しかし、かれが焼くハンバーガーのそのほとんどは、売れることもなく廃棄されてしまう運命なのだ。効率主義。成果主義。不要品として捨てられるハンバーガーたちが、惨めな自分と重なり合った。
「きみは、機械だ」
おれは苛立ちまぎれにそう吐き捨てた。
「資本主義社会の、ロボットなのだ。なにかおかしいとは思わないのか。パクロナルドの支店は世界じゅうあっちこちに次から次へとおっ建ちやがるし、株価も純利益も上がりっぱなしだ。なのに、おれたちの時給は、十円たりとも上がる気配すらないんだぜ。潤ってるのは、資本家だけなんだ。おれたちゃ、やつらの奴隷なんだ。カネ、カネ、カネ。カネがそんなにたいしたもんかよ。労働者より、カネが大事ってかよ。憤って、当然じゃないか。第一、なんだ、この仕事は。まいにちまいにち、おなじことのくり返し。機械みたいにハンバーガーを焼いて、自動販売機みたいに淡々と売る。夜、眠ると、夢のなかでまでハンバーガーを焼いてるんだ。悪夢だぜ。ひでえ仕事だ。創造性のかけらも、ありゃ、しないんだ。だれにでもできる。単純作業だ。機械労働なんだ。人間のやる仕事じゃあない。なにも思わんのか、幕戸くん、この退廃思想主義者め。きみには心がないんだよ。人間性が、ないんだよ。きみの魂はABSかPVC、発泡スチロールかなにかでできてやがるんだ!」
幕戸くんは、答えなかった。ただ無表情のまま黙々と、捨てられるためだけのハンバーガーを、命令どおりに愚直に焼き続けるだけだった。まるで資本家によって改造された、サイボーグのように。
おれは幕戸くんに背を向けた。おれたちは、長年、共に戦ってきた。だけど、決別は、いつだって一瞬なのである。
「なんでもいい。仕事をくれ。パクロナルド以外でな!」
ハローワークに乗りこむや、おれは職員にそう吐き捨てた。おれの惨憺たる履歴書を眺めながら、職員は渋い顔で答える。
「難題ですなあ」
「そこをなんとか」
「そうですね」職員はがばと顔を上げた。「登山家なんて如何です? 資格も職歴も要りません」
そういうわけで、おれはいま、裸一貫、標高八〇〇〇メートル地点にいる。
いざ登ったはいいが、いったい登山家ってのはなにをどうやってカネを稼ぐ仕事なのか、いまだに皆目、よくわからない。体よくあの職員に騙されただけ、という気もしなくはない。
だけど、もう、街にはいたくなかった。なんせ至るところ、あの忌々しいハンバーガー・ショップで埋め尽くされているのである。駅前のパクロナルドの隣りに建設中だった建物が、完成してみたらまたパクロナルドの店舗だったときのあの驚嘆。デ・ジャヴにちかいものがあった。駅向こうの商業ビルには不敵にも、一階置きにパクロナルドの店舗がサンドイッチされている。野郎、気の利いた冗談のつもりか。スーパーの食料品店がごっそり消えたと思ったら、そこにごっそりパクロナルドの店舗が入ったときは途方に暮れた。ハンバーガー以外、なに食えってんだ? そのうち街からは図書館も学校も消防署も消え失せた。もちろんその跡地にできたのは、パクロナルドである。ついにはアパートのおれの部屋以外ぜんぶ取り壊されて全室パクロナルドになったときは、さしものおれも、悲鳴を上げた。悪夢である。肩身が狭い。パクロナルドは資本主義を名目に、日本を占領しちまう気でいやがるのだ。自衛隊は、なにやってんだい。
有り金ぜんぶ注ぎ込んで、逃げるようにおれは街を出た。登山家になるってのも、悪くない。足で大地、頬に風、美しい夕陽を目で感じる。あの単調な日々のなかで失われた人間性を、いまこそ回復させるのだ。さいきん中年太りでね、ダイエットにも、ちょうどいいや。めざすはネパール。世界最高峰、チョモランマ。山なんて登ったことないからコンバースのジャック・パーセルで出撃したけど、これだけはいまでもほんとに後悔してる。雪水が染みこんで、足がちぎれそうなぐらい寒い。というか、痛い。いや、いまではすでになにも感じない。だいじょうぶかこれ。ちなみに貯金は、なんの啓示か嫌がらせか、八〇円だけ、手もとに余った。おれは投げ捨てるように、現地のホームレスのおっさんにくれてやった。なんか、死んだ母ちゃんに、似てたような気がしたから。ああ、せいせいした。それは、おれなりの、憎むべき資本主義社会への、決別の儀式であった。
思い出したら、忌々しいことに、なおさら腹が減る。ハンバーガー、食べたいなあ。アツアツのピクルスとケチャップとチーズが口のなかでとろけ合う、ジャンクでチープで高カロリー、だけどすこぶる旨い、あの憎らしくも愛らしいハンバーガーが!
そのときである。吹雪の果てに、巨大な影がそびえていた。
避難小屋――か? 朦朧とする意識のなか、両目をこする。助かった、缶詰かなにか、あるかもしれない!
だけどつぎの瞬間、おれは自分の目を疑った。こいつは夢か。幻か。ど派手というよりはもはやサイケデリックな色彩の看板に、見慣れたチープで幻想的な外装。
雪に埋もれ、岩間に佇むその建物は、まごうことなきパクロナルドのハンバーガー・ショップだったのである!
茫然と自動ドアをくぐると、有線のロック・ミュージックと抜かりなく効いた暖房がおれを出迎えた。店に充満する油の焼ける香りが桃源郷のようにおれをエクスタシーへといざなう。口のなかに、唾液がほとばしった。からっぽのすきっ腹が、欲情した野良犬のように咆哮する。
客席は満員御礼であった。客はもちろんヒマラヤの雪男たちである。さぞ珍しいのであろう、かれらは満面の笑みを浮かべてハンバーガーにかぶりついていた。奥の厨房で大量のポテトを揚げているのも、大量のハンバーガーを載せたトレイを運ぶのも、いうまでもなくみんな毛むくじゃらの雪男たちであった。
そんななかに、たったひとり、ふつうの人間の店員がいた。
「いらっしゃいませ! 摩天楼から共産圏まで、サバンナからツンドラまで、バチカンから戦場まで、いつもあなたのそばに、パクロナルド、チョモランマ標高八〇〇〇メートル支店でございます!」
にこやかに笑うその店員は、まぎれもなく、あの日別れた幕戸くん、その人であった。
え、えー!
「やり遂げたんです、飯場先輩」
幕戸くんは満面の笑みで語った。
「ついに、じぶんの店を持ちました。ずいぶん辺鄙な場所に飛ばされましたが、それでもここが、ぼくの城です。資本主義社会は、たしかに残酷かもしれない。だけど、がんばった者にはそれだけの報酬がある社会です。飯場先輩、あなた、ハンバーガーを焼く仕事なんてだれにでもできるとばかにした。だけど、あなたは、そのだれにでもできる仕事すら、まともにやり遂げられず投げ出しちまったじゃありませんか。あなたはハンバーガーの悪夢をみた。だけど、ぼくは、ハンバーガーの夢をみたんだ。でもね、過去のことは、水に流しましょう。気に、しちゃ、いませんよ。飯場先輩、なんせきょうのあなたは、お客さまなんですからね。さあ! ご注文は、なんになさいます、お客さま?」
一瞬、意識を失いかけた。嗚呼、いまならいえる。退廃思想主義者は、おれのほうだった。資本主義社会、万歳である。世界最高峰さえ征服し、UMAたちさえ金で従える。これを資本主義の勝利と呼ばずして、なんと呼ぼう。拝金、それはもはや現代社会において唯一、威力を持った信仰なのだ。おれたちゃ資本家の奴隷なんかじゃない。神のしもべだ。おれぁ、祈るぜ。すべての資本家の足に、香油を塗って、キスするぜ。なんせ、いつでもどこでもこんな旨いものがはしたカネでたらふく食えるんだもんなあ! 人間性じゃあ、腹は膨れねえ。ハンバーガー一個の、価値さえもねえ!
「ハンバーガー、ひと……」
いいかけておれはハッと息を呑んだ。
ポケットをさぐる。顔がみるみる蒼ざめていく。からっぽの胃袋に、戦慄が走り抜けた。
「八〇円、でございます、お客さま」
満面の笑みだった。だけど冷ややかな笑みだった。マニュアルどおりの、体温のない、自動販売機みたいな笑顔だった。
「ハン……バー……」
野良犬のような卑屈さで、おれはかつての後輩に、懇願するようにくり返した。
「80エン、デ、ゴザイマス、オキャクサマ」
とってつけたようなカタカナの声で、価格〇円のスマイルをふりまきながら、幕戸くんも、そうくり返した。
(了)
2010年、原稿用紙換算12枚
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