監視人の恋

 薄っぺらな板で仕切られた狭く薄暗いブースのなか、今日も単調な仕事が始まる。

 眼前に据えられるのは小型六インチ液晶ディスプレイ。そこに映るのは、ウッド・スタイルで統一された、洒脱な内装の喫茶店である。

 カウンター七席にテーブル八席。何処にでもあるような、たいして流行らない小さな店。真鍮製の巨大なエスプレッソ・マシンのすぐ傍で、好青年ふうのマスターが所在なさげにあくびをしている。高精細カメラが、マスターの形のよい目もとに浮かぶ、僅かな涙さえ映しだす。

 今日も店に変わりなし――読みかけの文庫本を広げ、ぼくは黒縁眼鏡を指でずり上げた。

 世は空前の監視社会である。教室、病院、電車内、繁華街から住宅街、公共住宅その全室、果ては公衆トイレの個室にいたるまで、街じゅう隈なく防犯カメラで埋め尽くされている。それら膨大な映像データはネット回線を通じ〈監視センター〉に送信され、総勢数十万ともいわれるぼくら〈監視人〉によってぬからずチェックされるのだ。

 あらゆる犯罪を未然に防ぐため――そんな耳障りのよい名目ではある。だけど実態は政治犯をいち早くみつけだして市民の思想を統制するためだとか、カメラメーカーの国際競争力低下を鑑みての内需拡大のための経済政策だとか、陰謀論を主張する論者も数多い。

 実情がどうあれ、いち〈監視人〉たるぼくにはまるで関係のない話だ。ぼくに割り振られた仕事は、三交代制で八時間、さる喫茶店内を監視すること――ただそれだけ。まったく無為で非生産的な仕事だが、金さえ貰えれば、文句はない。世間は相変わらずの不況で、ぼくみたいに人付き合いが苦手でさしたるスキルもない若者には選べるほど仕事なんてありはしないのだ。

 結果、街じゅうに目を光らせる監視カメラの影響で治安は劇的に――一種、不健全なほど向上した。万引きはおろか、ゴミのポイ捨てだってもうみられない。監視といっても、いまや時間を潰すだけの仕事なのである。

 持ちこんだ文庫本――規則違反だが――から、ふと、ぼくは気まぐれにモニタに視線を上げた。

「お……」

 思わず声が漏れる。知らない間にテーブル席に清楚な佇まいの少女が座っていた。前髪を切り揃えた艶やかな黒髪、知的な顔だちには眼鏡をかけている。店自慢のウェッジウッドのティーカップを手に紅茶を啜り、文庫本を読んでいた。

 退屈な仕事の、唯一の彩り。彼女の華奢な肢体に、モニタ越しに暫し見惚れる。

 彼女は店の常連客だ――名まえは知らない。住んでいる場所も、わからない。だけど、彼女はいま、モニタのなかにいる。水槽で飼われる熱帯魚のように、ぼくの小型六インチ液晶ディスプレイのなかにいる。

 彼女は指で眼鏡の位置をそっと直した。嗚呼、そのしぐさのなんと優美なこと。

 大学生だろうか。買い物袋を提げていることもあるから、独り暮らしかもしれない。いや――それはぼくの希望的観測だろうか? こんなに綺麗な女の子なのだ、恋人と同棲していると考えるほうが自然では? まさか、既婚ってことはないと思うけど。

 嗚呼、胸がかきむしられる。

 ぼくは、じつのところ、彼女のことを、なにも知らないのだ。

 モニタのなか、喫茶店のマスターが少女に声をかけた。話の内容はわからない。だけど、彼女は楽しげに笑っている。

 かれを目当てに店に通っているのか? マスターは好青年ふうの甘いマスクで、背だって高い。貧相な体躯のぼくなんかとは、まるでちがう。悔しいけど、彼女には、かれのような男のほうが、きっと、ずっと相応しい。

 別の客がやってきて、マスターが少女の傍を離れた。

 ほっと胸をなで下ろす。

「ぼくのほうが、きみのこと、ずっと大事にできるんだ――」

 搾りだした声も、届かない。

 モニタのなか――少女はふたたび眼鏡の位置をそっと直す。

 そのとき、彼女の手もとに、文庫本の表紙が、ちらりと覗きみえた。

 黒縁眼鏡越し、思わず目を瞠る。じぶんの手もとの文庫本を見やる。

 信じられない。オーウェルの『一九八四年』――彼女とぼくは、奇しくも同じ本を読んでいた。いまどきこんな古典をぼく以外で読む若者がいるなんて――。

 胸が高鳴った。もしかしたら、彼女はぼくと同じ種類の人間なのかも。周りと話が合わなくて、いつも世界に対して居づらい想いを抱えてきた人間かも。生まれ育った街にいるのに、遠い異郷に独りでいるような、淋しさを抱えてきた人間なのかも。

 彼女と会って話せたら、どんなにいいだろう。でも、ぼくにそんな勇気はない。ブースのなかで淀む空気に、ぼくの溜息は溶けていく。

「お金を積んでどうにかなるなら、そうしたい。これでも貯金ぐらい、すこしはあるんだ。でも、世の中ってのは悲しいことに、お金じゃどうにもならないことばっかりだ……」


        

 ヘッドマウント型のウェアラブル・ディスプレイを指で操作しながら、わたしは紅茶をひとくち啜る。

 ピピピ――かすかな電子音とともに、左側フレーム内レンズモニタに、ブースのなかでなにやら肩を落とす、黒縁眼鏡の青年の姿が拡大された。

 世は空前の監視社会である。教室、病院、電車内、繁華街から住宅街、公共住宅その全室、果ては公衆トイレの個室にいたるまで、街じゅう隈なく防犯カメラで埋め尽くされている。〈監視センター〉内部だって、当然ながら、例外ではない。〈監視人〉の〈監視人〉、それがわたしの仕事――退屈な仕事だけど、この不況だ、人付き合いの苦手な自分には、ほかにアルバイトの当てもない。

 しかしこの手の眼鏡型ディスプレイも進化したもの――光学系システムと電子回路を搭載しながら傍目にはただの眼鏡にしかみえないときている。

 眼鏡型ディスプレイに映るこの青年――かれは〈監視人〉としては不適格だ。仕事中なのに本は読む、注意力は散漫で、ひとつのことに想い囚われるとほかに気がいかなくなるタイプ。本来なら、早々に解雇すべき人材。

 多機能携帯電話が鳴った。

〈報告が遅れているぞ〉――受話器の向こうで、上司が凄む。

「申し訳ありません、チーフ。かれは問題ありません――なにも」

 眼鏡型ディスプレイのなかの青年をみつめながら、終話ボタンを押す。〈監視人〉としては不適格――だけど、かれ、わりと可愛い顔をしている。ディスプレイのなかで、ちいさな男の子を飼っているような気分だ。おなじ本を図書館で借りて、驚いた。こんなに面白い本があるなんて――以前に読んだハクスリーの「すばらしい新世界」とおなじぐらい。眼鏡のなかのちいさなかれは、ハクスリーなんて読んだこと、あるだろうか?

 かれは多分、じぶんとおなじ種類の人間。人付き合いが苦手で、友人がすくなくて――いや、ぜんぶじぶんの、思いこみかも。むこうはわたしみたいな女は、嫌いかも。男の子はみんな、華やかで朗らかな女の子と仲よくなりたがる。わたしはとてもそんなふうには振る舞えない――男の子のまえでは、なおさら。



 ディスプレイに隔てられたふたりは、同時にせつない溜息を吐く。

 いつかこのちいさな街で、出会うことがあるだろうか。声をかけて、変に思われないだろうか。話したこともないけれど、よく知っているような気さえする。何処に行けば、会えるだろう。

 つぎの日曜日――さしあたって、図書館にでも、出かけてみようか。(了)





2013年、原稿用紙換算10枚

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