ひねもすのたりのたりかな

新樫 樹

ひねもすのたりのたりかな

「お前、いい加減にしろ。ちょっとコンテストで入賞したくらいで、一端の画家気取りで周りの目ぇ気にしてんじゃねぇよ」

 おらおらとスケッチブックを僕に押し付けながら、十年来の親友はドスの利いた声で言う。

 こういう励まし方は出会ったばかりの小学生のときから変わらない。

 彼はいつも、ぐいっと踏み込んでくるか黙って隣にいるかのどちらかだ。

 今日は扉をこじ開けにかかるつもりらしい。

 たしかに、今の僕にはそれが必要だった。

「スランプだぁ? 百年早ぇわ。黙って描きまくれ」

 わかってる。

 そんなのは、僕だってよくわかってるんだよ。頭では。

 でも、一度怖くなってしまったものはどうしようもなくて、描きたいものはたくさんあるのに線一本も引けなくなった。

 そうして今は、ベッドの上で体育座りのまま身動きさえもできない。

 ふうっと息をつく音がした。

 まだ就職したばかりの身分で、突然の休みを取るのは大変だったろうに、芝田は僕のことを人づてに知ってすぐに来てくれた。

「……たく、ここんとこ全然連絡来ねぇから、てっきり次のステージクリア目指して怒涛の勢いかと思ってたら」

 がしがしと後ろ頭をかきながら、そういやお前は昔からメンタル弱かったなぁとつぶやいて、閉めたままだったカーテンをジャッと開ける。

「誰かになんか、言われたのかよ」

「……木村から、聞いた?」

「いんや。あいつはお前がヤバいとしか言わなかった」

「そっか……」

 芝田は窓の外を向いたまま、黙って立っていた。

 僕の部屋からは一面の田んぼが見える。

 その向こうには小さな山。そしてそのまた向こうには海がある。

「変わんねぇな。ここは」

 ほっとしたような、あきらめたような、そんな声だった。

 友達はみんな就職のために街に出た。芝田も。

 僕だけがずっとここにいる。

「なんか、描いたのか? 最近」

「ううん。何にも」

「そうか」

「……怖くなって、さ」

 何がとも、どうしてとも、芝田は聞かなかった。

「海でも行くか」

「え?」

「どうせ時間は腐るほどあるんだろ? ずいぶん見てねぇから見たくなった。付き合え」

「でも、今日のバスはもう夕方まで来ない」

「あのなぁ……」

 車にきまってんだろ。こんな田舎に丸腰で来るかよ。いいからさっさと支度しろ。ほら、40秒で支度しろ。

 懐かしいアニメのセリフを真似ながら、芝田は先に部屋を出て行った。



 きみには絵の才能がある。

 中学校の文化祭で展示してあった僕の絵を見て、校長の友人で東京から招かれていたどこかの美術の先生が絵の勉強をしてみないかと言ってきた。

 田舎の子供にしておくのはもったいないようなインドア派の僕は、部屋に閉じこもる格好の言い訳だと飛びついた。

 もともと描くのは好きだったし、興味もあった。

 月に一度、先生が僕の絵を見てくれることになり、それがいつしか週に一度になり、三度になって、高校最後の年にはとうとう東京へ来ないかと言われた。本格的にコンクールに挑戦してみないかと。

 うちの両親は、芸術家なんてものは自分で食えない人並み以下の人種だなんて、すごい暴言をさらりと言ってしまうような人たちだったから、当然のように大反対されて僕の東京行きは立ち消えたのだけれど、取り憑かれたように絵を描いてきた僕をかわいそうに思ったのか、コンクールだけはやってみろと言った。

 小学生のときから毎日眺めてきた田舎の風景を描きたいだけ描いて描きためて、東京へ送ったそのうちの一枚が大賞をとったと連絡があったのは、卒業式を終えた春のことだった。

 その年は桜が遅くて、まだ固いつぼみに冷たい風が吹いていた。



「免許、いつとったの?」

「大学で。こっちは教習通うのも大変だからな。……っと、道変わってねぇ?」

「そこ、右。つい最近、抜け道なくなったんだ」

「へぇ、それでも道路は開発されてんだな」

 できたばかりのきれいな大通りを眺めながら芝田はのんびり言った。

 仕事はどう? とか聞くべきなんだろうけど、僕にはそういう言葉もうまく出てこない。言っていいのか、聞いていいのか、言われて嫌じゃないか……。ぐるぐる考えているうちに言葉は僕の中にどんどん沈んでしまう。

 社交的で誰ともうまくやる芝田とはまるで正反対なのだけれど、なぜか芝田はいつも一番近くにいてくれた。そしてときどき、僕の中に沈んだ言葉を覗き込んではすくい上げる。

「お、着いた着いた。相変わらず汚ねぇ色だな」

 あははと笑って適当にとめると、芝田は何も言わずに車を降りた。

 薄墨色の砂浜に鈍色の海。曇天。

 灰色ばっかりの、僕らの海だ。

「いいもん持ってきた」

 コンクリートブロックに腰かけると、いつの間にか手にしていた小ぶりの水筒を僕に見せた。コップ代わりの蓋に琥珀色が注がれる。

「ほれ」

 コーヒーのいい匂いが鼻をくすぐる。

「ありがとう」

 熱い苦みがものすごくうまい。途端に空腹を感じて、そういえばここのところ、ろくに食べていなかったと思い出す。

「いいからゆっくり飲め」

 蓋はひとつしかないから早く飲まないと芝田が飲めないな。そう思ったとたんに言われてびっくりする。

「……うん」

 僕はわかりにくいとよく言われる。

 言葉が少ないせいだとわかってる。

 伝えたい気持ちがないわけではないけれど、それをちゃんと伝えられる自信がない。くるくると変わる人の気持ちのスピードにも、付いていけない。だから出せずに沈んだ言葉たちを、僕はいつでも絵に込めた。

 絵筆に乗せた色たちが、僕の声の代わりだった。

 絵を描くことは、僕にとっては話すことだった。自由に。

「怖いって、言ってたろ」

「うん……」

「原因、気付いてんのか?」

「……うん」

「そうか」

 季節外れの海には誰もいない。

 蓋を返そうと差し出すと、芝田はそこにもう一度コーヒーを注いだ。

 飲めと顎をしゃくる。

 きゅっと水筒の口を閉める音がした。

「……大賞、とったとき、すごく騒がれて……大変だった。取材とか、いっぱい来たし」

「ああ」

「そのあと、いくつかのコンクールに入賞して……。そしたら、僕の絵を見た人からたくさん感想が送られてきて…。ネットがほとんどだったけど。……みんないい絵だって言ってくれて、でもそれが30人くらいになったら急に怖くなった」

「……」

「僕はただ、自分の中のものをそのまま描いてるだけだから……。そんなにたくさんの人たちに納得してもらったり、いいって言ってもらえるようなもの、これからどう描いていけばいいのかわからない」

「……お前……」

「描いて、期待外れだって言われたらどうしようって。思ってたような奴じゃなかったって…誰も僕の絵を見てくれなくなったらどうしようって……」

 泣いていないのが不思議なほど心が震えていた。

 バカみたいだろう。

 でも、これが僕なんだ。

 小さい子供がお菓子を全部欲しがるみたいに、僕はみんなの甘い言葉が欲しい。

 僕の紡ぐ言葉を、良いって受け止めてほしい。

「あまったれ」

 コンと、頭を柔く小突かれた。

「……わかってる」

「わかってねぇよ。なんも」

 そっと隣を見たけれど、芝田はまっすぐ海を見ていた。

「お前が絵を描きだして、俺はやっとお前がわかってきてうれしかった」

 首を傾げたのがわかったんだろう。ふっと横顔が笑う。

「なんも言わねぇからさ、お前。なんかほっとけなくてそばにいてみたけど、どこかやっぱわかんねぇヤツだなって思ってた。けど、中学入って描き散らしてた絵を見たら、お前ってヤツがよくわかった。だから親友になれた」

 何を言おうとしているのかわからなくて、でも芝田なら怖くはないような気がした。たとえそれが苦い言葉であったとしても。

 どんよりした僕らの海には、さわやかさの欠片もないのだけれど、余計なものを吸い取ってくれる豊かな深さはやっぱり海で。

 こんなときにまで眠くなるようなまろい気持ちにさせられてくる。

 芝田の低い声が潮の匂いのゆるい風に乗る。

「お前の絵は、お前なんだよ。ごちゃごちゃ考えたって結局は、お前はお前の絵しか描けねぇんだから。……いや、そうじゃねぇな。ごちゃごちゃ考えてドン詰まりになっちまうのも込みで、お前の絵だろ」

「えっと……」

「だいたい、お前はどんな絵が描きたいんだよ」

 思えば初めて問われたことだった。こんなに単純な質問なのに。

 誰にも聞かれたことのない、僕の本当に描きたいもの。

 つつつと、言葉は自然に出てきた。

「僕は……本当は……たった一人でいいんだ。僕の絵を見て、見てよかったって心底思ってもらえたら。この絵をずっとそばに置きたいって思ってもらえたら……」

 そうだった。

 なんで忘れてたんだろう。

 言葉は、思いを心に届けるためにある。

 だから僕は絵を描いてきたのに。

 うまいと言われるために描いてきたわけじゃないのに。

「いいんじゃねぇの。それで」

「……うん」

 のそりのそりと波がうねる。

 灰色ばっかの演歌の海もたまにはいいもんだなと、芝田がひとつ伸びをした。

 僕はそうだねと答えながら、心の中でそっと水平線をなぞった。

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