逡巡として遅ざくら

 目の前に広がる海は、いつも変わらない。

 僕に無関心だ。

 僕がいてもいなくても、なんの変りもなく波を寄せて返す。

 潮の風も吹きたいままに吹く。

 人は死ぬと、次の生を受けるまで、この世界に溶け込むと聞いたことがある。

 そうして星の生命の質量は保たれると。

 地球の上では常に変わらない生命の質量があり続け、僕が見ている海にも満ちている。

 ただ溶け込んでいるのか、生まれでているのかの違いだけで。

 ならば僕の命も海の命も、ただここを満たす生命のひとつにすぎないのかもしれない。

 いや、生命というあらゆる隔たりのない世界から見たならば、僕は僕というものですらないのかもしれない。

 ふと目の前の景色のすべてが砂粒のように崩れた。

 海も、遠くを行く船も、僕自身も。

 柔らかな光の中で、それらは混ざり合い、ゆるやかに漂う。

 もうこのまま、僕はただ地上を揺蕩たゆたう生命の一欠ひとかけになれたらいいのに。

 海はいつも変わらない。

 命はただ、溶けている。

 僕は……この美しさを描きたいだけだ。

 それなのに。



『まるで必死に美しいものを見ようとしているようで。きみが何をそんなに恐れているのか、とても興味があるんですよ』




 ゴンっという音が直接頭の中に響くのと、衝撃が襲ってきたのは同時だった。

「……った!」

 はっと目を開けて、自分がそれまで目を閉じていたことに気付く。

 いや、これは……眠っていたのか?

 ズキズキと痛む頭をさすっていると、上から声が降ってきた。

「お目覚めですか、センセイ」

 怒気をはらんだ低い声だ。

 そしてとても聞き慣れた。

「……しば……た」

 出てきた声はひどくかすれていて、のどが引きつるように痛んだ。

 のろのろと顔を上げると、夕焼けの赤い空を背にしたシルエットがため息をつく。

 きっと画廊から連絡がいったに違いない。

 僕のスランプへの特効薬は「芝田和城」という男だと、そろそろ周囲は気付き始めてきているようだった。芝田にとっては迷惑この上ないことだろうけれど……。

 でもまさか本当に、ここに芝田が来るとは思わなかった。

 僕だけの秘密の場所のはずだったし、何よりも彼はほとほと嫌気がさしているはずだった。

 けれども、芝田はやってきた。

「どうしてここがわかったのかってツラだな。親友ナメてんのかお前は」

 ほら、と差し出された手を握って立ち上がりながら、まだ少しぼんやりしている視界と頭に目をこする。

「この場所を教えたこと、なかったから……」

「んなもん、教わらなくたってわかる。にしても、お前はいっつも海だな。何度目だ。わかりやすくていいけど、季節は選べ」

 この馬鹿と呟くように言われて、砂にまみれた服を払われる。肩からブランケットを掛けられた途端に、身体がぶるぶると震えだして寒さに気付いた。

「帰るぞ」

 有無を言わさぬ強い口調と、それと同じくらいに強く腕を掴まれて、僕は黙って車に乗せられる。

「……ごめん」

 芝田は答えない。

 僕はたったひとりの親友を、すっかり怒らせてしまったようだった。

「預かってきた。連絡しろ」

 ハンドルを握って前を見たまま、芝田が携帯を突き付けてくる。

 僕の携帯だった。

 携帯すら、置いてきてしまっていたのか。僕は。

「ごめん……」

 言う相手が違うだろという声にうなだれる。

 重い指で、登録してあるいくつかの番号を呼び出した。謝罪するために。

 誰も怒ってはいなかった。そういうふりをしてくれているのかもしれないけれど。

 みんな心配してくれていた。そういうふりをしてくれているのかもしれないけれど。

 芝田だけが、本気で怒っている。

 ぶるっと震えがきてブランケットを引き合わせると、ぬっと横から芝田の手が伸びて来てエアコンの温度を上げた。

「ごめん」

 やっぱり答えはなかった。

 車はそのまま僕の家に向かうのかと思っていたのだけれど、途中の駐車場で停まった。

 海に面したそこかしこに小さな駐車場があってトイレと自販機が置かれている。

 芝田はエンジンをかけたまま車を降り、やがて缶コーヒーを2本手に戻ってきた。

「ほらよ」

 渡された缶が火傷しそうなほどに熱く感じられて思わず落としそうになる。

「冷えきってるからだ。この馬鹿が」

 カコっとプルタブを引く音がして、芝田が缶をあおった。

 車内に苦いコーヒーの香りが広がる。

「ほんとに、ごめん。すぐに帰るつもりだったんだ」

「まるで子どもの言い訳だな」

「……ごめん」

「お前のごめんは聞き飽きた」

「うん……」

 缶の温度に慣れてきた手のひらが、まるで缶から温度を奪い取っているように感じる。

 僕は、どれくらい芝田から奪ってきたのだろう。

 何ひとつ、こちらから差し出したものなどないくせに。

 明確な救済を求めなくても手を差し伸べてくれる彼に、僕はただ親友という言葉を代価に免罪符を得ている。

 いまさらながら、そんなことを考えて嫌気がさす。

 そうして、そんなことを思うすぐそばで、僕はやっぱり芝田が来てくれたことを喜んでいて、そばにいてくれることに安堵している。

 どうしようもない。

 ふと、低いままの芝田の声が流れてきた。

「青松画廊の横山さんから連絡があった。あんま心配させんな」

 人のよさそうな風貌の画商が頭に浮かぶ。

「……海が見たくなって、バスで来たんだ。いつの間にか眠ってしまったらくて。本当に、少ししたら電話をするつもりだったんだ……携帯、忘れてるのに気付かなかったけど……」

 ちっと舌打ちの音がして、こちらを向く気配がした。

「お前はなんでそんなに……」

 言いかけた言葉を途中でやめて、芝田はため息をついて外していたシートベルトを掛け直す。

「動くぞ」

 あっという間に着いた家で、僕はいい歳をして両親に叱られた。

 お茶でも飲んでいってという母親の言葉を丁寧に断って、芝田は僕には一瞥もくれずに車に戻り、そのまま去ったきり電話もメールも来なかった。




 作品に取り掛かると寝食を忘れるようになったのは、初めての個展からだった。

 筆が止まらなくなるときは、その昂揚感で。筆が動かなくなるときは、その不安感で。

 どちらにしても、寝食が本能から切り離されてしまう。

 相変わらず両親と同居しているのがせめてもの救いだと、いつだったか芝田が呆れ顔で言ったことがある。そのいびつに眉尻を下げた顔を思い出して、手にしていた筆を置いた。

 個展がある。来年のはじめだ。

 東京にある青松画廊のオーナー、横山さんは僕のスポンサーになってくれている人だ。

 僕の絵をみてくれていた美術大学の尾佐先生とは遠縁にあたり、そのつてもあって僕にはもったいないくらいに順調に画家としてのスタートを切ることができた。

 前にいくつかの賞をとったとき、そのうちのひとつが最年少受賞だったのもあって、マスコミに追い回されたことがある。

 初めて芝田に助けてもらったのはその頃で、近しい人たちは僕が再起不能になるのではと思っていたらしいが、芝田が来てくれてから数日後に描き上げた新作を見て、青松画廊が僕のスポンサーになると言ってくれたのだ。

 何度かの個展を経験し、一定の顧客を持つこともできた。

 横山さんは本気で若手を育てようとするタイプの画商で、僕はまだまだ世間を知らないけれど、その幸運がどれほど大きなものかはすぐにわかった。

 尾佐先生と横山さんは僕の恩人だ。

 だから他の誰よりも迷惑はかけたくない。

 もっといい絵を。もっといい画家に。

 芝田に思い出させてもらった、僕の原点。見てよかったと思ってもらえる絵を描くこと。誰かの心に寄り添い続ける絵を描くこと。

 それだけでもって、がむしゃらに描いてきた。

 努力を怠ったことだけはない。

 若手の代表みたいな言われ方をしてマスコミに取り上げられるのも、他の人から見ればとても恵まれたことだったに違いない。僕自身も、自らの幸運に感謝をしていた。世の中には努力が報われないことなどありすぎるほどある。

 懸命に走り続けていた、そんなとき。

 突然、服の後ろを掴まれたみたいに立ち止まらされた。

 一人の男の一言で。

「笹川侑弥先生に依頼したい絵がある」

 横山さんに直接連絡があり、僕は東京まで呼び出された。

 個展での絵が売れるのがほとんどで、依頼を受けて描くことはあまりない。あっても何度か絵を買ってくれた人からばかりだったから、初対面で注文を受けるのははじめてだった。

 そういう緊張はあったけれど、描くこと自体に不安はなかったのだ。

 僕は僕なりに自分のスタイルを積み上げてきたし、それを喜んでくれる人がいる。僕にしか描けない絵を、ちゃんと描いている自負があった。

「きみの絵は実に美しい。だからとても興味がありましてね」

 依頼主は微笑んだ。そうして言ったのだ。

「まるで必死に美しいものを見ようとしているようで。きみが何をそんなに恐れているのか、とても興味があるんですよ」

 一瞬、何を言われているのかわからなかった。

 どう返事をしていいのかさえもわからずに、男に目をあてたまま黙り込む。

「風間さん……」

 横山さんが男の名を呼んで何かを言ったけれど、僕の耳には言葉として入ってこなかった。ただぐるぐると男の声が渦を巻く。

 恐れている? 僕が? いったい、何を?

「わからないなら、それでも結構。私の依頼は人物画ですが、よろしいですか?」

 まるで試験官のような口ぶりだった。

 そのときにはさすがの僕でも気付いていた。この男は僕を試そうとしているのだ。

 こんな駆け出しのヒヨっこ画家の、何を試そうとしているのかはさっぱりだけれど……。

 そっと横山さんに目を向けると、相変わらずの優しげな表情の目が頷いた。

 いつも僕の成長のための道しるべを示してくれるひとだ。その彼が良いというのだから、きっと僕のためになるのだろう。

 そう思うしかない。

 僕には判断がつかなかった。

「お受けいたします」

 風間は大げさな仕草で僕の返事を喜んでみせた。

 後から思えばとても鼻につく仕草だったけれど、そのときの僕にはそんなことまで感じる余裕などまるでなかった。

 あとから横山さんが電話をくれて、きっと今のきみにはいい経験になるだろうと言ってくれたことだけが、不安を和らげてくれる唯一の支えだった。

 個展の絵はずいぶんと進んでいた。

 今回は小さい作品を多くしてみたので、ひとつにかける時間が格段に短くなったせいもある。これまでの写実的な大きな作品から、少し方向を変えて広げてみようと思ったからだ。見る人の心の奥をかき立てるような、それでいて気軽にそばに置けるようなもの。新しい仕事は楽しかった。風間という男からの依頼を受けようと思えたのは、少なからずそのおかげでもある。

 人物画と言われたとき、僕の頭に浮かんだのは不思議なことにひとりの老婆の顔だった。

 遠い遠い記憶の中、けれどもまったく色あせることなく、そのひとはいつづける。

「侑弥ちゃんは、いい子だなぁ」

 そう言っていつも頭をなでてくれた、しわだらけの節の太い手。

 なぜだろう。

 あのひとを描いたなら、風間の言った呪縛のような言葉の意味も、それを乗り越える手段もわかるような気がした。

 理由のわからない漠然とした期待が、むくむくと僕の中で大きく育つ。

 けれど。

 いまはもういないあのひとを、絵にすることには大きな躊躇いがある。

 あのひとが、親友の最も大切な人であるだろうからだ。

 僕などが描くことを、彼は許してくれるだろうか。

 白いままのカンバスをイーゼルに乗せた部屋の一角。

 僕はひとり見つめたまま、立ち尽くす。

 あのひとは、芝田のおばあちゃんだ。




『馬鹿ヤロウ、さっさと電話よこせ!』

 うわっと携帯を耳から離す。数十センチ離しても声はうるさかった。

 芝田から電話が来たのは、あれから一週間後だった。

「え……いや、でも……」

『でも、じゃねぇ』

「……ええと」

『あぁ、もう。……大丈夫なのか』

 そうか。個展が近いから。

 いつもそうだった。僕が手一杯のときは、まるで全部わかっているように芝田は連絡をよこさない。

 なんでどうしてと、周りの人間はいつも僕を質問攻めにするけれど、芝田は聞かない。ただ黙って、僕が何か言い出すのを待っている。

 出会ったときからこんな感じだった。

 ふっと脳裏に、口をへの字にした生意気そうな小学生が浮かぶ。

「もしかして、横山さんから、なにか聞いた?」

 やや間を置いて、まぁなと低い声がした。

『先週、海でくたばってたのと関係あんのか』

「……」

『また、描けなくなったわけじゃなさそうだな』

「……うん」

『そうか』

 ならいい。

 やっぱり、芝田は聞かない。

 風間のことを、どうしても言えなかった。

 そしてなぜだか、心がざわざわと波立って、芝田のおばあちゃんを描かせてほしいと言えない。

 おかしいと思う。別にひどいことを頼むわけじゃないはずだ。たとえ芝田の子ども時代が暗い影をまとっていたとしても、少なくともおばあちゃんは芝田にとっての明るい救いだったはずで……。なのに。

『まぁ、聞いてもすぐには行ってやれそうにないしな』

「仕事忙しいの?」

『おいこら、俺が仕事暇なときなんかあったか』

「……ないような気がする」

『お前なぁ。俺が暇つぶしにお前の相手してるとか思ってたらぶっ飛ばすぞ』

「感謝、してるよ。すごく。ほんとうに」

 吐息が笑った。

『冗談だよ。せいぜい足掻いて、いい絵を描けよ。センセイ。個展には絶対に時間つくって行くから』

「うん」

 じゃぁなと声がして少し遠くから、あぁそれから、と続いた。

『海に行っちまう前に、俺に電話しろ』

「……わかった」

 今度こそ、電話は切れた。

 僕は小学生のときにここへ引っ越してきた。

 父さんの仕事の都合だった。

 都会の生活に慣れた母さんは、田舎の暮らしにはなかなか馴染めなかったし、僕はそもそも友達をつくるのがとても下手な子どもだった。

 父さんは僕が起きている時間には家にいなかった。

 母さんはリビングでひとり沈むばかり。

 帰りたくなくて時間をつぶしたくてもつぶすところもなく、放課後のグラウンドの片隅でぼんやりと、遠く連なる青い山を眺めている日が続いた。

「よお」

 芝田が僕に声をかけてくれたのはそんなときで、最初の言葉がそれだった。

 言ったきり、隣に立って一緒に山を向いて黙っている。

 ただ黙ってそばにいる彼に、最初はどうしていいのかわからなかったけれど、すぐに僕は芝田といることに慣れた。いや、僕は気付いたんだ。彼が僕の寂しさにじっと寄り添ってくれていることに。

 人は励ましが辛くなることもある。

 芝田という人間は他人との距離感が絶妙だった。

 他人が求めることを本能的に察するところがあって、彼のまわりにはいつも友達がたくさんいた。僕にはまるで、芝田が魚群の中をぬって自由に泳ぎ回る一匹の不思議な魚のように見えていた。いつもいきいきと輝いていて、そのきらめきに憧れた。

 不思議な魚が、実は孤独な魚だと知ったのは、僕が芝田のおばあちゃんとも知り合いになったころで、僕たち母子が少しずつ村に慣れてきたころだった。

 そのころには僕と芝田は一番仲のいい友達だとまわりに思われていた。

 だからだろう。僕が巻き込まれたのは。

「こいつと一緒にいると、母ちゃんが死ぬぜ」

 隣のクラスのやつにひどいからかいを受けた僕を、芝田がかばってくれたとき。

 激高したそいつが言った。

 とっておきのものを見せるときの顔をして。

 言われた言葉の意味がわからなくて芝田を向いたときの衝撃を、僕は今でも覚えている。

 芝田は真っ青だった。

 わなわなと震える唇も、まるでプールで体が冷え切ったときのようにみるみる色を失っていった。返す言葉もなく、呼吸は激しい。

 常にどこか飄々としている芝田の、そんな姿を見たのはあれが最初で最後だった。

「……行こう」

 そう言って、ぴくりとも動かない腕を引っ張るのがやっとだった。

「俺の母さんは死んだんだ」

 その日の帰り道、隣を歩いていた芝田が突然話し出した。

「病気で、俺が生まれたときに。俺がお腹にいるときに病気が見付かって、母さんは俺を生む代わりに死んだんだ」

 だから、俺が母さんを殺したんだよ。

 感情のない声が淡々と言う。

「だから父さんは家を出ていった。毎月金が送られてくるけど、顔も知らない」

 下手な音読を聞いているみたいに、僕は心が気持ち悪かった。

 むかむかと落ち着かなくなって、それが怒りだとわかったのはふたりの分かれ道に来たころだった。

「ち……ちがうよ」

「……え」

「殺してなんか、ない」

「……」

「びょ……病気の、せいだ」

 喉に詰まった言葉を、一生懸命出した。苦しかったけれど、今出さなかったら絶対に後悔すると思ったからだ。

 芝田がじっと僕を見た。

 僕は目をそらさなかった。そうしなければ伝わらない気がしたから、必死に目をぐっと見つめ返した。

 やがて芝田の顔が、みるみる色を取り戻していくさまを、僕はオレンジの夕日の中でもはっきり知ることができた。

 どうしたんだろう。

 でも、うれしい。すごく、うれしい。

「なんでお前が泣くんだよ」

「え?」

 言われて初めて、頬が濡れているのに気付いた。

 とっさにごしごしと服の袖で拭ったけれど、涙はあとからあとから流れ出る。

「ご、ごめん」

 なんのごめんだか、よくわからない。

 関係ない僕が泣いてごめん。今まで何も知らなくてごめん。泣き止まなくてごめん……。

「なんで謝るんだよ。やっぱり変なヤツだな。お前」

 今度はぐしゃりと芝田の顔が歪んで。

 流れた涙は、びっくりするほどきれいだった。

 オレンジに染まった世界の中で、芝田の涙だけが透き通っていて、僕は宝石のことはわからなかったけれど、テレビに出ていた有名なティアラのダイヤモンドよりもずっときれいに見えた。

「くそっ……止まんねぇ」

 乱暴に涙を拭いながら、芝田がつぶやく。

「うん」

 答えた僕に、やっぱり変なヤツだと、歯を食いしばったような笑顔を見せた。

 翌日には、彼はすっかりいつもどおりの彼で、あのひとことを言った隣のクラスのやつに朝イチで飛び蹴りをしていた。

 一生分の涙を流し出したみたいに、その日からどんなときも、芝田の涙を見たことはない。

 おばあちゃんが死んだ日も、泣かなかった。

 高校3年の冬の終わり、しんしんと雪の降る日に、芝田のおばあちゃんは、芝田のお母さんと同じ病気で亡くなった。

 そのあたりのときのことを、実は僕はよく覚えていない。

 まるでぽっかりと穴が開いたように記憶がないのだ。

 これまで特に思い出そうとしたこともなかったから深く考えたことがなかったけれど、おばあちゃんを描きたいと思っているからだろうか、あのころのことがとても気になっていた。

 ずいぶんとお世話になったはずなのだ。どうしてその最期を覚えていないのか、自分でも妙な感覚だった。

 父さんと母さんに聞いてみたこともあるけれど、父さんは仕事ずくめで葬式にさえ行けなかったし、母さんは詳しいことは何も知らなかった。

 他に聞けるのは芝田本人くらいなものだ……。

「……これ以上は、ほうっておけないか」

 部屋の隅のカンバスに向かう。

 僕は写真を使わない。

 画風のせいでスーパーリアリズムと思われがちだけれど、そうじゃない。

 描くのはほとんどが心の中の風景。

 僕が育ったこの田舎町の風景であって、そうでない。

 そこにあるリアルな風景の組み合わせで、描きたい空気をつくりだす。

 この町でいつも目にしているようで、実際には存在しない風景ができあがる。

 その、どこでもあってどこでもないような誰かの心の中の原風景というのが、僕の絵のスタイルだと思っている。

 だから、本当は、芝田のおばあちゃんも、芝田のおばあちゃんでなくていい。僕の心の中のおばあちゃんでいい。

 なのに、どうもそれがうまくいかない。

 なにかが足りない。

 見つからない。

 それが記憶の欠落と関係がないとは、思えなかった。

 必死に美しいものを見ようとしている、風間はそう言っていた。

 彼は、僕の絵の中に何を見たのだろう。

 僕の絵の描き方に問題があるのだろうか……。それとも……。

 芝田のおばあちゃんを思うとき、一緒に出てくるイメージがある。

 桜だ。

 満開の桜の花。

 白にも近い淡いピンクが、僕の心を埋め尽くす。

 冬に亡くなったおばあちゃんの最期に桜はなかったはずだし、一緒に桜を見た覚えもない。ただ、おばあちゃんは桜が大好きだった。

 えいっと、僕は携帯の着信履歴を開いた。

 芝田の番号は一番上にある。




「時間つくるから……。お前んちでいいな。あとでメールする」

 おばあちゃんのことをつっかえつっかえ話すと、芝田はそう言って電話を切った。その声がやけに硬くて、不安になった。

 けれどもメールはすぐに来て、約束の週末の夜遅く、こんな時間にすみませんと僕の両親に頭を下げながら手土産を渡し、僕には「よぉ」と微笑んで見せて部屋に来てくれた。

「遅くなって悪かったな」

 忙しいのをわかってて時間をつくらせた僕の方が悪いのに。迷惑かけてばかりなのに。自分の都合ばかりなのに……。

「ごめん」

 あ? なにが。

 そう言って、ふっと笑った。

「お前、俺には……ごめんばっかりだな」

 しょうがねぇなぁって、声が聞こえそうな笑みだった。 

「ばあちゃんが死んだときのこと……覚えてないのは意外だったけど、お前らしいっちゃぁお前らしいな」

 部屋が見渡せる位置の壁に寄りかかって、芝田はふうっと息を吐いた。

 ゆっくりと並べてある絵を順に見ているのがわかって、少し緊張する。

 芝田に絵を見られるのは、画廊で横山さんから見てもらうよりも緊張することがある。たぶん、僕の心のすべてを芝田なら絵を見ただけでわかるからだろう。

「いい絵だな。ほんとに描けてたのか。安心した」

 小さく呟いて、もう一度息を吐く。

 しばしの沈黙の後、芝田は言った。

「俺が夜中に病院から連絡をもらって行ったときには、もうばあちゃんは心肺停止の状態だった。間に合わなかったのが……ひとりきりで逝かせたのが、俺は悔しくてさ。無理言ってでも病室に泊まればよかったって、のたうち回るくらいに後悔した。そのとき初めて気付いたんだ。病室いっぱいにさ……桜の絵が貼ってあったんだよ。ばあちゃんから見える場所に……いっぱい」

「……桜の、絵?」

「すげぇ綺麗だった。本当に満開の桜の中にいるいみたいだった。締め切った、狭くて古くて、うすら寒い部屋の中なのに……春の風が吹いているような気がした。俺はさ、死んだばあちゃんの顔に、雪みたいに花びらが降りかかっているように見えて、その顔が笑って見えて……そのとき、ばあちゃんの最期は寂しくなかったって思えた。大好きだった満開の桜の中で、幸せに死ねたんだって……思えたんだ」


 桜は、その日の夜に、お前が描いて貼ってくれたんだよ。


 ぽかんと芝田を見つめたけれど、真面目な顔が僕を見返すばかりだった。

 ふと、右手が鈍く痛んだ。

 ああ……。そうだった……。あのときも、手が痛んだ。

 出来る限りたくさんの桜を描きたくて、必死で。描き続けて手を痛めた。

 それでも描いた。

 おばあちゃんが死んだら、芝田はどんなに心が痛いだろうと思ったら、僕の手の痛みなんてどうでもいいような気がした。

 きっと尾佐先生に叱られると思ったけれど、それでもかまわないと……高校生の僕は思った。おばあちゃんの大好きな桜で、病室を埋めたかった……。

「お前はきっと、俺に迷惑ばっかりかけてるとか、世話にばっかりなってるとか思ってんだろうけど……俺がなんでそばにいるのかわからねぇって思ってんだろうけど……」

 芝田が、体ごと僕を向いた。

 少し僕より高いところから見下ろされて、視線を上げて見た顔がちょっとだけためらってから、静かに口を開いた。

「俺が助けられてたんだよ。出会ってから、ずっと。俺が一番苦しかったとき、お前が現れて、それからのもっと苦しいときを一緒に過ごしてくれた。お前だけが俺から逃げなかった」

 だから、今度は俺がそばにいる。

 絶対に、逃げねぇよ。

「……んなこと、もう二度と言わねぇからな。最初で、最後だ。センセイ」

 にっと笑った顔が、あの夕日の中で見た、綺麗な涙をのせて歯を食いしばったみたいに笑った少年の顔と重なる。

 不意に、本当に不意に、僕はそうかと思った。

 強い強い芝田の目を見つめながら、僕はわかった。

「強さだよ」

「ん?」

「強さなんだ。美しさは、強さなんだ。逃げてるんじゃないんだよ。僕は。絶対に。強さは、美しさになるんだよ」

 今度は芝田がぽかんと首を傾げた。

 僕は見つめながら、微笑んだ。

 うれしくて、なんだかとってもうれしくて。

「おばあちゃんを、僕が……描いてもいいかな」

「ああ、もちろん」

 描けそうか?

 うん。

 芝田の強い目の中に優しい光が浮かんで、頷いて。

 よし、って言って。

 お茶でもと誘う両親を丁寧に断って、デジャブだななんて思ったら、ひょいっと僕に手を挙げてニッと笑って車に乗り込んだ。




 世界は醜いからこそ美しく描くのか、醜いままに描くことで美を引き出そうとするのか。

 どちらも正しいしどちらも正しくないような気がする。

 世界は、美と醜との戦いの場ではないと思うし、美醜を善悪と置き換えることは間違っていると僕は思う。

 風間はたぶん、僕の絵の中に……こういう言い方が合っているかはわからないけれど……偽善を見たのかもしれない。

 汚いものや不幸なものから目をそらし、美しく幸せな光景だけを描く薄っぺらさを感じたのかもしれない。

 でも、でも……違うんだ。

 命の溶け込んだ世界は、美しいんだ。

 生まれ出ていてもいなくても、生命は美しい。

 世界がどうにもならない汚いものであふれかえっていたとしても、どうにもならない苦しみの涙が絶えなくても。

 深い泥の中で純白の花を咲かせる蓮の花のように、生命には世界の汚濁でさえも幸福の糧にできる強い種がある。

 その種を必死に持ち続け、育て開こうともがく姿は、それだけで、どんな風に描いたって美しい。

 僕にはそれが見えるから、僕はそれを知っているから……芝田や、芝田のおばあちゃんが教えてくれたから……だから、僕の絵は美しくなる。

 僕は。

 苦い苦いものを抱えてなお、美しくある生命を描き続けたい。

 風景も人物も動物も物も。

 美しい生命はこの世界に溶けてあふれている。

 強く……強く。

 そうして、たとえ今はその美しさに気付かなかったとしても、いつか自分の命の奥底の逞しさや負けない力に気が付いて、もがき続ける自分自身こそ美しいと……幸せだと感じることができたなら。

 僕の絵が、そのきっかけになれたなら……。

 だから僕は描き続ける。

 美しい世界を、描き続ける。

 

 


 絵を見た風間が、低く口笛を吹いた。

 本当にいちいち感じが悪い。

 でも、ほとんど口の中で呟くようにAmazingと言ったのだけは心地よかった。

「……なるほど、これがきみの答えですか。気に入りました」

 それだけ言って、もちろん気障な握手もついてきたけれど、風間は大事にそうにおばあちゃんの絵を持って帰った。

「リビングに飾るそうだよ」

 横山さんが風間を見送った後で言った。

 そうですかと答えながら、僕は早く絵を描きたくてしかたがなかった。

「人物画も、いいじゃないか。どうだい? もう少し描いてみたら」

 横山さんが言った。

「そう……ですね……」

 頭に芝田の顔が浮かぶ。

 は? モデル? ふざけんな。

 頭の中で仏頂面になってしまった芝田の顔に、だろうなぁと苦笑する。

「……モデルが、OKしてくれたら」

 おやもうモデルが決まっていたのかい。

 浮かべた僕の苦笑をどう受け取ったのか、横山さんはっはっはと楽しそうに笑って、なかなかやるなぁと背中を叩いてきた。

 すごく喜んでもらったよ。

 そう芝田に送ったメールの返事は。

 当然だな。

 だった。

 ちょっと考えて、今度は芝田の絵を描かせてよ、と送ってみる。

 返事は夜になってから、やっと来た。

 画面を見ながら僕はくすっと笑って、再び筆をとる。

 いつでも呼べ。

 短い言葉。

 光るメールの画面を残したまま、僕は仏頂面の親友を思い、胸の中に広がるぬくもりを味わいながら、絵を描き続けた。

 煌とした月の光に抱かれる音のない夜に、ただ僕の筆の音だけがする。

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