三話
夕暮れ時。
空が赤色に染まり、ゆっくりとした時間がただただ過ぎていくだけの時間。
倒壊して光り輝いたボロアパートに向かうのであろう、消防車と救急車のサイレンが響き渡り、その隣を、雨夜を担いでいる高坂は通り過ぎた。
それを呼び止めて、雨夜を乗せても良かったのだが、しかし、そこで敵に気づかれて襲撃されようものなら周りの被害が拡大するだけだ。
だから高坂はそんな事をせずに、脇目もふらず走った。
「しっかし、これからどうしようか」
あの場から危険だと判断して、咄嗟に逃げだしたのは、まあ正解だっただろう。
けど、これからどうする。
「……」
グチャリと、雨夜を支えている手になにやら生温かい液体が触れる。
確認するまでもなく、それは血だった。
真っ赤な血。
雨夜の脇腹に空いている風穴から流れる血。
それが高坂の手を、べっとりと染め上げていた。
高坂は肩越しに、背負っている雨夜の顔を見た。
一目で分かるぐらいに、異様なまでに疲弊していて、真っ青な顔面は脂汗でまみれている。
それもそのはず。
雨夜は現在、生死の狭間を歩いているのだから。
脇腹には深い風穴。
傷口を高坂が押さえているものの、出血は留まることを知らないし、その傷の深さは内蔵をゆうに越え、背中まで貫通していた。
本来ならすぐにでも病院に運ぶべきだろう重症なのだが、しかし今、雨夜は『異常』にその身を置いている。
おいそれと公共の施設に送って、周りを巻き込むわけにはいかない。
怪我人や病人だらけの病院なら、尚更だ。
しかし、だったらどうする。
このまま放置しておけば、雨夜は確実に死ぬ。
「せめて寝かせれる場所があればな……あと休める所」
さっきの爆発が思いの外、彼の体内から酸素を奪っていて、長時間は走っていられる余裕は既に残っていなかった。
そんな事を考えていた折だった。
彼の視界に、見知った顔が映ったのは。
艷やかな黒髪が特徴的な、凛とした雰囲気を漂わせる少女。
汐崎美咲である。
彼女はどうやら雨夜を探しているようで、辺りを心配そうな表情で見渡している。
「あ、高坂さん!」
汐崎は高坂を見つけると、駆け寄ってきた。
さっきまで走り回っていたのか、肩を少し上下に動かしている。
息を整えてから、汐崎は俯いていた顔をあげる。
「あの、高坂さん。雨夜を見てませんか?」
「維月なら、ほら。ここにいる」
高坂が背負っている疲弊している雨夜を汐崎に見せると、彼女は口を押さえて絶句する。
「は、はやく救急車を、病院に運ばないと……! ああ、でもまず止血をしないと! あれ!? 専門職の人に引き渡すまで勝手なことしていいんでしたっけ!?」
「お、落ち着けよ、美咲ちゃん」
「名前で呼ばないでくださいよ、駅のホームで背中を押したくなるじゃないですか」
「恐いっ!!」
身震いする高坂に、一応落ち着きを取り戻した汐崎は、コホンと咳払いをする。
「それで、どうして雨夜はそんな事に?」
「細かいことは分かんないんだが、ちょっと野暮用でこいつの家に行ってみたら、アパートは倒壊。その瓦礫の上でこいつは炎に串刺し。そして今は、その相手から逃げてる最中だ」
「あの時の頼むってそういう事か……。それじゃあ病院に運ぶのはなしですね」
「だな。けどどうする? このままずっと背負っている訳にもいかないぞ」
「だったら私についてきてください。いい場所を知ってます」
言って、彼女は踵を返して走りだした。
「お、おいっ。たく、おじさん今かなり疲れてるんだけどなぁ!」
高坂はそんな愚痴を吐きながら、汐崎の後を追いかけた。
汐崎の指示通りに走った高坂が辿りついたのは、汐崎のアルバイト先兼、下宿先である、しがないパン屋だった。
雨夜の家から走って十五分ほどの場所にあり、街の中心からはそんなに遠くなく、立地条件はそれほど悪くない。
玄関の看板を片付けようとしていた店の主人だろう恰幅のいい白髪のおじさんは、高坂が背負っている雨夜を見て驚々愕々とした後、二人に店の中に入るように指示してきた。
高坂は一瞬迷ったが、その好意に甘んじて店の中に入った。
入ると店のシャッターは閉じられ、汐崎は二階の自室に二人をあげた。
そこには広い部屋が一つあった。
雨夜の住む部屋の二倍ぐらいの大きさの部屋で、住んでいる人の性格なのか、家具はシンプルなものに統一され、無駄な物が排出された部屋だった。
部屋の中は基本的にゴミだらけか、整理整頓をしないで散らかっているかのどちらかである高坂は、その綺麗さを見て少し唖然とする。
そんな部屋には一人、先客がいた。
青色の髪の女の子。
小坂井せつなである。
彼女は雨夜を背負った高坂を見ると、怯える小動物のように部屋の端まで後ずさった。
「えー……」
「そりゃああなたみたいな大男がいきなり現れたら誰だって恐がっちゃいますよ」
「維月だってデカイだろ」
「雨夜は痩せてますし、少し猫背だからあんまり威圧感はないんですよ」
「そんなもんか? えっと、俺だよ。ほら、朝会っただろ」
「あ……」
高坂が優しく語りかけると、ようやく思いだしたようで、小坂井は警戒をといた。
「ほっ……前に紹介されたとは思うけど、一応、もう一度自己紹介しておくな。俺は高坂鋼屋。よろしく」
高坂は出来るだけ警戒させないように優しく笑いかけながら手を差しだしたが、しかし、小坂井はその手を握り返そうとはしなかった。
「血……」
それでまた、心が折れそうになった高坂だったが、彼女のその一言で、自分の手が雨夜の血でべっとりと染め上がっている事を思いだした。
「怪我……してるの?」
「いや、俺じゃない。こいつだよ」
「雨夜はそこに寝かせてください」
汐崎は布団を引いてからそう指示した。
高坂はそれに従って、布団の上に雨夜を優しくおろした。
出血の量はかなりのものになってきていて、高坂が歩いてきた道に血が点々と落ちていて、まるでヘンゼルとグレーテルの千切ったパンのようだった。
「どうします? このままだと雨夜、能力の有無関わらずに、確実に死んじゃいますよね。救急車を呼びます?」
「いや、それであの女子に感づかれたら厄介だしな……」
「どいて……」
「お、おい」
腕を組んで、悩むように唸る高坂を押しのけるようにして、小坂井は寝っ転がっている雨夜の前にぺたん、と膝をついた。
そして、両手を前に出したと思うと、傷だらけの雨夜の体にその小さな手を添えた。
その分圧迫されたせいか、服に血が滲み、雨夜は小さくうめき声をあげる。
「こ、小坂井さん。なにしてるの?」
「『
汐崎が止めに入ろうとしたその前に、小坂井はそう呟いた。
彼女の手が淡い光に包まれて、その光が触れた場所の血染みが消えて、その奥にある傷も塞がれ始めた。
否、戻り始めた。というべきか。
服を赤く染めていた血が体内に戻り、開いていた傷が出来る前に戻されている。
元通りになっている。という方が正しいか。
淡い光が消えて彼女が手を離した時には、血は血管の中を流れ、傷はまるではなから無かったかのように、綺麗さっぱり無くなっていた。脂汗が滲んでいた青ざめた顔も、元の血気溢れる顔に戻り、苦悶の表情も消え、穏やかな表情に戻っていた。
「せ、せつなの能力は、記憶を巻き戻す事が出来る……それで、雨夜の体を治(もど)した……」
「へー、便利な能力だね」
スヤスヤと眠っている雨夜を眺めながら汐崎がそう呟くと、どうしてか小坂井は、顔を真っ赤にしながらわたわたと手を前で振った。
「け、けど……能力を使って
段々と主張の声が小さくなって、顔はさながら林檎のように真っ赤になっていく。
どうやら彼女は、褒められることに馴れていないらしい。
お礼を言われることに馴れてない、というか否定的な雨夜を見ているような気分になって、汐崎は心中でくすり、と笑った。
「じゃあこれでひとまず、一安心って所かな」
「そうなる……あの」
「ん? どうしたの小坂井さん」
「迷惑かけて……ごめんなさい」
小坂井はいつも通り、少しおどおどした顔のまま、しかしどこか神妙な顔つきで、頭をさげた。
汐崎は一瞬なんの事か分からずに、しきりに瞬きを繰り返す。
そして、それが現状に対する謝罪だという事が分かると、優しく微笑んだ。
「いいよいいよ気にしなくて、人間助け合いの精神が大事なんだから」
「でも雨夜が……」
「ああー、大丈夫だよ。彼はその……むしろ率先して、こんな事態に巻き込まれようとする癖があるから」
「え……?」
「まあ罪滅ぼしみたいなものだよ。彼は昔、一度大きな失敗をしてるんだ。途方もなくて、やり直しのきかない、そんな失敗」
「失敗……」
「気になる?」
倒れている雨夜に掛け布団を被せながら、汐崎はそう聞き返すと、小坂井は少し慌てて、わたわたと両手を顔の前で振りながら、取り繕うように言う。
「そこまでじゃない……けど」
少し煮えきれない態度の小坂井を見て、汐崎は「うーん」と唸る。
「聞いて面白い話じゃないよ」
汐崎は優しく笑いかけながら、そう忠告すると。
「えっと、どこから話せば分かりやすいかな」
と言ってから、話し始めた。
「十年前のあの日、雨夜は例によって例の如く、欠陥能力を手に入れて、当たり前のように、家族に捨てられた」
そりゃ当然だよね。と、汐崎は言う。
一生動く訳がないと言われていた子供がいきなり動き出して、しかもそれが今話題の謎の現象のせいなのだから。
歓喜よりも先に、恐怖が滲みでる。
「その後、
「雨夜……?」
「うん、元植物人間で、動けるようになってからすぐに捨てられた雨夜は自分の名前を知らなかったらしいから、お爺ちゃんから貰ったんだって。名前は一緒に暮らしていた子の名前の漢字を貰ったらしいよ」
「……」
「それでどれぐらい経ったんだっけ。二年、三年ぐらいかな? 孤児院の子ともすごく仲良くなった頃、事件が起きた」
「事件……?」
「まあ、ちょっとした交通事故だよ」
言っていいのかな。と汐崎は少し躊躇するに言ったが、しかし、結局話すことにしたようで、さらりと言った。
「ただ、トラックに轢かれそうになっている孤児院の子供を助けようとしたけど、結局助けれずに、その子供を殺してしまっただけ」
「……」
「そして、彼はトラックの運転手を恨みのあまり、殺してしまった。そのせいでその孤児院は色んなところから誹謗中傷をうけて、崩壊してしまいましたとさ」
小坂井はしきりに瞬きを繰り返す。
そんな彼女を見て、汐崎はあははと少し悲しそうに笑う。
「ね、聞いて楽しい話じゃあないでしょ? それからというもの、彼は心を塞いでしまった。失敗を恐れるようになった。去年の冬までは、誰かと関わろうとさえ、彼はしなかった」
だから。と汐崎は続ける。
なんだかちょっと、気軽な風に。
「助けて貰うのが気に病むというのなら、気にしなくていいよ。むしろ、どんどん頼ってあげて。助けて貰ってあげて」
雨夜を楽にしてあげて。
小坂井はどう反応したらいいのか分からずにおろおろしていたが、小さく頷いた。
汐崎は嬉しそうに笑い、「よろしくね」と言うと。
「それじゃ、小坂井さん。一緒にお風呂はいろうよ」
と、言った。
唐突なその提案に、小坂井は目をまんまるにする。
「お風呂……?」
「そう、お風呂」
「……朝はいった」
「朝はシャワー浴びただけでしょ? それに今日は結構走り回って、汗もかいたし」
汐崎はタオルとか寝間着とかを用意しながら言う。
どうやら彼女はし○ かちゃんなみのお風呂好きらしい。
対して小坂井は猫みたいにお風呂嫌いのようだ。
うきうきでお風呂に入ろうとする汐崎に、小坂井は必死に抵抗を試みようとしているが、非力な小坂井ではそれは無意味で、まあ結局お風呂にはいることにしたようだった。
「……高坂さん」
しぶしぶといった感じに、準備を進める小坂井を背に、汐崎は高坂に話しかけた。
高坂は「ん?」と唸る。
「なんだ、なんか用か? 悪いけどおっちゃんには女の子と一緒にお風呂にはいる度胸はないぞ」
「知ってます」
「美咲ちゃんには胸がないぞ」
「ぶっ殺しますよ?」
「うそうそ、冗談だってば。それで、なんの用だ? 声からして、真面目な話っぽいけど」
分かってるなら最初にふざけないでください。と、汐崎は高坂に言ってから。
「少し気になることがあります」
と、言った。
「気になること?」
「彼女、言ってたんですよ。超能力者は正義の味方だって」
超能力者は、欠陥能力者という『失敗』の後に誕生した『不都合』とか『不便』とか、そういうものが排除された異能力者である。
そして『失敗』の二の舞いにならないよう、最初期から社会との迎合を考えていた異能力者だ。
その方法が正義の味方。
つまり、ヒーローになることである。
「つまり、俺たちが今庇っている彼女は、もしかしたら悪者かもしれないって事か?」
高坂がそう言うと、汐崎は頷く。
それを見て、しかし高坂は警戒しておこうとかそう言った事を言うのではなく、どうしてか少し呆れたような苦笑いを浮かべる。
それは、人を疑うとかなに考えてんだ。とか、そういう意味ではない。
そもそも人を信じることを知っている彼女が、他人を疑る訳がない。
じゃあ一体、どうして高坂は苦笑いを浮かべたのかと言えば。
「じゃあ美咲ちゃん。お前は彼女のことを悪者だと思ってるのか?」
「いいえ? 全く」
高坂の質問に、汐崎はそれが当たり前であるかのように答えた。
つまり、高坂の苦笑いの意味は『自分の中で解決していることを一々人に話すな』と言う事だ。
「いいじゃないですか、話したほうが、考えが纏めやすいんですよ」
そんな高坂の心中を読んだように、汐崎は続けて。
「一宿一飯を共にしただけの浅い関係ですけど、彼女が悪者だとは思えないんですよね。ちょっと内気ですけど、良い子ですよ?」
「じゃあなんだ? 美咲ちゃん。もしも彼女が超能力者に襲われたらどうするんだ?」
「助けますよ。もちろん」
汐崎は――偽善者はにっこりと笑いながら、こともなげに答えた。
お人好し、雨夜維月。
偽善者、汐崎美咲。
どちらも人を助けることに躊躇はしないタイプではあるが、その動機は、少しだけ違っている。
雨夜は自分の為に人を助ける。
汐崎は他人の為に人を助ける。
二人の良い人は違う理由で、同じことをする。
汐崎美咲の善行はそれこそ本当に『ヒーロー』のようなもので。
だけど雨夜の
身勝手で自分勝手な、他人の不幸を利用する善行。
だからこそ、雨夜は汐崎のことを『ヒーロー』だと言う。
他人のために頑張れる人のことを『ヒーロー』と言う。
過去から目を背けて、背けているから結果的に前を向いているだけの、逃げて逃げて、それを相手にぶつけているだけの、自分のために人を助けるお人好しは言う。
なるほど確かに。
彼には『ヒーロー』になる資格は、ない。
「……準備できた」
「はいはーい、じゃあお風呂にいこっか」
小坂井の背中を押しながら、汐崎は部屋から出ていく。
「あ、そうだそうだ」
戸を閉じる前に、汐崎は肩越しに高坂を下衆を見るような目で見下した。心無しか、声色も冷淡だ。
「覗かないでくださいよ」
「安心しろよ、お前らは俺のストライクゾーン以下だから、三十以下は皆赤子だから」
「斬新なセリフですね」
呆れた表情を浮かべながら汐崎は後ろ手でドアを閉じた。
階段を降りる足音がしっかり二人分ある事を高坂は確認する。
「さてと……」
高坂はゆっくりと腰をあげた。
音が鳴らないようにゆっくりと戸を開く。
そこには汐崎美咲がにっこりと微笑んで、立っていた。
「……ハロー」
「高坂さん。熟女好きに加えて、ペドフィリアでもあるんですか?」
汐崎のそのセリフには、全くをもって抑揚というものが無かった。
まるで機械アナウンスのような口調。
高坂はとっさに、汐崎から階段の方に視線を逃がした。
そこには小坂井がいて、どうしてか、四つん這いになって階段を降りていた。
つまり、高坂が二人分の足音だと思って聞いていたのは、小坂井が四つん這いになって降りていたから聞こえた音のようだった。
「え、えーっと……」
高坂は視線を元に戻す。
汐崎は変わらずニッコリと微笑んでいた。
真っ黒な殺意の波動に満ちた笑みだった。
「さらばっ!」
高坂は急いで戸を閉じようとしたが、汐崎は聞き込みに来ている警官よろしく、半身を戸と壁の間に挟み込んだ。
どうやら逃がす気は更々ないらしい。
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