第5話 そこに居たもの
風が木々を揺らす音、遠くから聞こえる車の走行音、鈴虫の鳴き声…
耳に慣れた夏の夜に、突然かき鳴らされた不協和音。今のところ誰かが様子を見に来る気配もなく、まるで何事も起きていないかのように、元の静けさを取り戻している。
しかし、今ここには確かに、異質ななにかが存在している。
凪月は舟吾のシャツをぎゅっと握り、恐る恐る彼の背後から顔を覗かせた。
公園の、折れた木の周囲で、色濃く舞い上がっている土煙。
風に吹かれて段々と薄れていくその中に、ぼんやりと黒い影が浮かび上がった。
「なにか、いるよ…?」
それは人影にも見えるが、どうも様子がおかしい。
乱れた映像のように輪郭がブレて、形が安定しない。凪月は一瞬目の錯覚かと思ったが、そうではないようだ。確かにそこには何かがいる。しかし、いくら目を堪えても、そこに存在する確かな物体として、それを認識する事ができないのだ。
――普通じゃない。
膨れ上がる恐怖心に、凪月はいよいよ耐えられなくなった。
「ねえ、行こうよ。なんか、やばいよ」
「……走って」
「え?」
「家まで一気に走って。できるよね?」
「え、舟吾くんは?」
「大丈夫、行って」
「で、でも…」
「早く」
切り捨てるように言われ、凪月は渋々家に向かって走り出した。
あれ…あの黒いの、なんなの? わけ分かんない。怖い―――
凪月は全速力で走った。舟吾の事は気がかりだったが、とにかく今は、誰かに会って安心したい。その一心だった。
*****
「派手にぶつかったねえ」
「……ゔぅ…………」
横たわる幹の傍でうずくまっているそれに、舟吾は話し掛けた。
「可哀想に……誰か止めてあげれば良かったのに」
そう口にした彼の顔には、どんな感情も浮かんではいなかった。
身をよじりながら地べたを蠢くその姿を、道端でもがく虫けら同然に見下ろすだけだ。
「……あ……ゔ……」
それは弱々しく、舟吾に向かって手を伸ばした。
そうしている間にも、まるで残像のように身体が点滅して、どんどん輪郭があやふやになっていく。
「ごめんね。残念だけど、僕に出来る事はないよ。それにさ……」
「し…ゅ……」
「君は僕の敵でしょ?」
その瞬間、それは跡形もなく消えた。
今それが居たはずの場所には、何かを引き摺ったような跡が残っていた。
舟吾はその浅く抉れた地面を、靴で踏みつけた。
*****
一度も立ち止まる事なく走り抜き、ようやく家に辿り着いた時には、凪月はすっかり息があがり、全身が火照っていた。玄関の扉を開け、そのままだらりと寄りかかる。片手で横っ腹を抑え、顔をしかめた。夏休みの自堕落な生活にどっぷりと浸かりきった身体には、久々の運動がかなり堪えたようだ。
「凪月?」
何事かと玄関にやってきた双葉の顔を見て、ようやく緊張の糸が切れる。
走っている間、人とすれ違う事すらなく、不安がピークに達したところだったのだ。凪月は思わず泣きそうになった。
「どうしたの、そんなに慌てて……何かあったの?」
「……あ、あの…公園……に……」
「公園?」
「そう…そこで……黒いの……」
「……あれ? 舟吾くん?」
「!?」
凪月は即座に後ろを振り向いた。
そこには確かに、公園の前で別れたはずの彼が立っていた。
「こんばんは」
涼しい顔で微笑む舟吾は、汗一つかいていないし、呼吸が乱れた様子もない。
「なんで……っ!?」
「あの公園にいたの、ただの酔っぱらいだったよ」
「酔っぱらい?」
「ええ。絡まれそうだったから、逃げてきたんです」
「そうだったの!? 2人とも何もされてない?」
「大丈夫です。すぐに逃げたので」
……酔っぱらい? あの変な黒い影が?
じゃあ、あの音は何?
なんで木が倒れてたの??
「……で、でも、あそこに……」
凪月の言葉を制するように、舟吾は彼女の頭にそっと手を置いて、優しく撫でた。
「もう大丈夫だから。心配しないで、ね?」
落ち着き始めていた胸の鼓動が、また速度を上げて鳴り始める。
一体何が大丈夫なのかと全く納得できなかったが、それ以上は何も言えなくなってしまう。
「じゃあ僕帰るね。おやすみなさい」
「うん。凪月送ってくれてありがとね。おやすみー」
「おやすみ……」
「……よかったわね。頭なでなでしてもらって」
「……」
にやつく双葉を無視して、凪月はさっき見た光景を思い出そうとしてみた。
しかし、気が動転していたせいなのか、頭の中の映像はモヤがかかったようにぼやけていて、はっきりしない。つい先ほどのことなのに、ずっと前のように感じる。
舟吾の言うように、もう気を揉む必要のないことなのだろうか……。
「あ、ところでさ」
隣りの玄関前で鍵を出したところで、舟吾は思い出したように振り返った。
「凪月って、足遅いの?」
「……え?」
「ぷっ……」
吹き出した双葉の肩を、凪月が小突いた。彼はそんな姉妹の様子を、きょとんとした顔で見ていた。
シューゴくんは浮いている 小高つみき @koda_tsumi
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