第2話 彼の部屋

凪月達が住んでいるのはいわゆるメゾネットタイプの賃貸で、1つの住戸内が2階層に分かれている。

3戸ある内の真ん中が青柳家の部屋で、その右隣が舟吾の部屋になる。残る左隣の部屋には3人家族が住んでおり、40代の夫婦と小学6年生の女の子だ。舟吾の部屋に以前住んでいたのも家族連れで、若い男の一人暮らしはなかなか珍しい。



「お邪魔しまーす……」



舟吾に続いて、凪月も部屋に入った。



成り行きで来ちゃったけど、男の子の部屋に入るの初めてだ……。



凪月は何故か忍び足で廊下を歩き、そわそわしながらリビングに入った。



――広い。



凪月は真っ先にそう思った。

自分の家と同じ間取りのはずなのに、やたら広く感じる。それもそのはずで、そこには全く家具らしい家具が置かれていなかったのだ。


それは引っ越したばかりだから、というだけでもなさそうだった。あるのは段ボール箱2、3個と、壁にかけられた制服くらいで、他には何もない。


「え、……これだけなの?」


「うん。僕あんまりもの持ってなくて。必要なものは後で買えばいいかなって」



「持ってない」のレベルが違う。凪月は出かかった言葉を飲込んだ。



「テーブルとか冷蔵庫も、これから買うの?」


「やっぱり普通はあるものなんだよね、そうゆうのって」


「う、うん。まあ……」



一体今までどうゆう生活をしていたんだろうか……

引っ越す前は母親と暮らしてたって言ってたけど……



凪月の好奇心は大いにくすぐられたが、下手に事情を追求して彼を傷つけるのも嫌だと思い、それ以上何も言わなかった。



「で、どれを片付ければいいのかな……」


そもそも片付ける荷物が無いような気がするけど……


そんな事を思いながら、凪月はとりあえず部屋を見回してみた。



「凪月」



いきなり呼び捨てにされて振り向くと、いつの間にか舟吾が目の前に立っていた。



「顔をよく見せて」



舟吾は凪月の髪に手を添えて彼女の耳にかけ、そのまま頬に触れた。

ぐっと顔が近づいて、彼の吐息が凪月の唇を撫でる。


「………っ!」



彼の思わぬ行動に、凪月は頭の中が真っ白になった。

心臓がどくんどくんと波打って、今にも飛び出しそうだ。

なのに、舟吾から目を離せない。彼の視線は完全に凪月を見えない縄で縛り上げている。



メガネの奧の、色素の薄い、茶色い瞳――



彼は全体的に色が薄い。髪は天然の栗毛色で、肌も白い。凪月も色白な方だが、それ以上だ。西日に赤く染められたその姿は、一段と幻想的に見えた。



二人は黙って見つめ合った。

時間にして数十秒だったが、凪月には時が止まったように長く感じた。



「……君は、お父さん似だね」



「え……?」




お父さん……?



リビングのお父さんの写真、見たのかな……





「ねえ、キスしていい?」




「……え、ええ!?」



凪月は思わず声が裏返った。無理もない。15年間生きてきて、そんな台詞を言われたのは初めてであった。


だが、舟吾のその言葉には変ないやらしさがなかった。


どちらかというと、小さい子供が母親にねだるような……

そんな無邪気さを含んでいた。



「キスって、嬉しい時にはしないの?」


「な、何言って……」



凪月はからかわれているのかと思ったが、舟吾の顔は至って真面目であった。

「素直に疑問に思った事を聞いている」。そういう風に見えた。


「えっと、キスってのは、恋人同士がするものじゃないかな……?」


「ふーん、そっか」



彼は残念そうに口を尖らせた。

そして凪月から離れると、床に置かれた段ボール箱のひとつを指差して言った。




「じゃあ、それ、開けてくれる?」




――え、えええ??




何事もなかったかのように、荷解きをし始める舟吾。


そんな彼を呆然と見つめながら、凪月は自分の左耳に手をやった。

さっき触れられた感触が消えないまま、そこはじんじんと熱を帯びているのだった。

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