第18話 ダイバーズナイフ

 四角い空間の中は濃いヴェールに遮られ、視界はもう1mも無くなっていた。

 矢倉はそれ以上海水を濁さないように、緩やかな動作で、垂直ラッタルを伝って下りて行った。


 艦の床に辿りついて前後を確認すると、海水の濁りは艦の後方がより顕著だった。それは玲子が後方に進んで行った証だった。

 矢倉は腰からダイビングリールのハーネスを引っ張って、垂直ラッタルに繋いだ。ダイビングリールとは、細いナイロンロープを巻取り式の筒に巻いたもので、視界の悪い閉鎖空間に侵入する際にガイドとして用いるものだ。

 ナイロンロープを伸ばしながら進み、戻りはそれを逆に辿ればよいのだ。

 矢倉は時折、そのナイロンロープに、ラインマーカーと呼ばれる小さな三角形の板を取りつけた。それは細いロープを見失わないようにするための工夫だった。


 細い通路を抜けて、開いたままの水密扉をくぐると、広めの部屋がそこにあった。手探りで一通りその中を探したが、そこに玲子の姿は無かった。部屋の奥にはもう一つ水密扉があり、その奥には濃い靄が立ち込めていた。それは玲子がそこを辿った痕跡だった。


 矢倉は更にその水密扉をくぐった。そこは突起物の多い通路のようで、その先にまた水密扉があり、そこを抜けるとまた部屋があった。

 艦の後方に進むにしたがい、沈没の衝撃で崩れた鉄骨類が床から突き出すようになり、闇雲に動き回るのは危険に思われた。矢倉は注意深く部屋を探したが、そこにも玲子はいなかった。


 その部屋の先には水密扉が二方向についていた。注意深くその2つを見較べると、一方から靄が這い出してきていた。

 矢倉はその靄の先に進もうとした。しかしコツという音がして、矢倉は体を中に入れることができなかった。開口部の先をへしまがった鉄鋼が遮っており、背中のダブルタンクに引っ掛かっているのだ。どう体の向きを変えてみてそこは通れそうになかった。


――タンクを一つ外すか?――

 しかし、矢倉のダブルタンクは、2本のタンクを繋ぎ合わせて1本分として扱う方式だ。マニフォールドと呼ばれる器具で固定されているために、容易に分離できるものではない。


――他に方法は?――

 一旦背中からタンクを下ろし、自分の体とタンクを、別々に隙間を通すしかない。


――出来るか?――

 隙間の先はどうなっているか分からない。狭い空間が続いているかもしれず、鋭利な金属部品が突出しているかもしれない。そこでもう一度タンクを背負う事ができるだろうか? 

 視界が効かない中で行う行為としては、恐ろしく分が悪い。


 矢倉が頭をフル回転させる中、矢倉の肩をたたく合図があった。新藤がナイロンロープを伝って矢倉のすぐ脇まで来ていたのだった。新藤は状況を察して、『自分が行く』という合図を寄越した。矢倉は『駄目だ』と伝えたが、新藤は『自分が行く』と言い張った。


――ここは新藤に任せるしかない――

 諸所の状況を勘案しながら、矢倉は腹をくくった。


 矢倉が新藤の瞳をまっすぐに見ると、アドレナリンの分泌からだろう、新藤の瞳孔は開いて見えた。

「新藤!」

 矢倉はフルフェイスのマスクの中で、大声で叫んだ。水中を伝わって新藤にはその声が聞こえたはずだ。新藤は矢倉の顔を見た。

「自分の名前を言って見ろ。言ったら首を縦に振れ」

 少し間を置いて新藤の口元が動き、レギュレーターから泡が噴き出した。同時に新藤は首を縦に振った。


「お前の年齢は?」

 新藤はもう一度泡を吹き出し、首を縦に振った。

「お前の利き腕はどっちだ?」

 矢倉は短い次々に質問を新藤にぶつけた。最後に「今朝の朝飯は美味かったか?」と訊くと、新藤は首を横に振った。

 矢倉は新藤の瞳が、落ち着きを取り戻したことをしっかりと確認した。


「新藤、お前に任せる。しかし、彼女を助ようとは絶対に思うな」

「……」

「彼女の様子を見に行って、無事に帰ってくる。それがお前の役割だ」

「……」

「もしも彼女が錯乱していたら、そのまま放置して帰って来い」

「……」

「ダイバーズナイフは持っているな?」


 最後の質問に、新藤は驚いたように目を見開き、やがてコクリと頷いた。

 矢倉は新藤にダイビングリールを手渡して、「頼むぞ」と言った。新藤はそれを受け取り、狭い隙間に体をねじ込むと、水密扉の奥に消えて行った。


 新藤はライトの明かりを頼りに、狭い通路を進んで行った。空間が開けると、そこはまた一段と視界が悪くなっていた。何かが沈殿物を掻き回した証拠だ。新藤にはそこに玲子がいるという予感があった。


 あまりの視界の悪さに、その空間は広さの見当さえまったくつかない。新藤はまずは壁伝いに移動し、そして部屋の端まで行き当ると、直角に折れて進んだ。そこは9m×5m程、高さが2.5m程の狭い部屋のようだった。何も見えない中での体感だ。もしかするともっと大きいかもしれないし、小さいかもしれない。


 何も音は聞こえず、何かが動いているという気配もなかった。視界さえ開けていれば、容易に見渡す事ができるその部屋も、深い靄の中とあっては、玲子の姿を探すのに、無限の時間がかかりそうに新藤には思えた。


 新藤は玲子の姿を追いながら、心には言い知れぬ不安が頭をもたげ始めた。その深い靄の中から、錯乱した玲子が急に手を伸ばして来たらどうしよう。そう新藤は思った。

 自分は玲子を見捨てて逃げる事はできるのだろうか? 

 或いは自分が助かるために、玲子のエアーホースを切ることができるだろうか?


 新藤は腰に固定したダイバーズナイフの感触を確かめた。

 その途端、新藤は自分でも驚くほどに動悸が高まった。


――まずい、パニックだ!――

 新藤が自身の変調を自覚したその瞬間だった。『冷静さを取り戻すことに全力を尽くせ』という矢倉の言葉が、新藤の脳裏にフラッシュバックした。


「俺の名は?――新藤洋平」

「俺は男か?――もちろん男だ」

「利き腕は?――右だ」

「今日の日付は?――1月6日で土曜日」

「今日の朝飯は?――最高にまずかった、特に味噌汁。あれは昨日の残りを温め直したに違いない。煮詰まっていやがった……」


 新藤は矢倉の言いつけを必死に実行した。他には何も考えなかった。そうすることで自然と気持ちが落ち着いて行った。

 ようやく動機がおさまってきた。そう思った時だった。新藤の目の前を、小さな泡が上に向かって通り過ぎて行った。泡の現れてきた方を新藤が向くと、そこからは、もう一つ泡が浮かび上がってきた。


――下だ!―― 

 新藤は直感した。


 四角い部屋の床近くまで潜ると、そこには人の姿が浮かび上がった。

 マスクに顔を近づけると、それは明らかに玲子だった。目を瞑り、気を失ってはいるものの、レギュレーターから時折噴き出す泡は、玲子に息が有る事を示している。フルフェイスのマスクをしていたことが幸いだった。

 通常のレギュレーターを咥えていたら、今ごろ玲子はどうなっていたか分からない。


 新藤は矢倉に聞こえるように、ダイビングベルを2度鳴らした。

 水中では玲子の体は軽く、運ぶのは簡単だった。新藤はナイロンロープとラインマーカーを頼りに、元来た道を逆に辿った。そして時折、矢倉への合図としてダイビングベルを鳴らした。


 侵入してきた水密扉まで行きついて、隙間に玲子の体を差し込むと、その先で矢倉が玲子の体を引き出した。新藤もその後に続いた。



――2018年1月6日、21時30分、ホワイトハウス外――


「あれで良かったのだろうか?」

 ホワイトハウスの通用口を出たバクスターは、タクシーを拾うために通りに立ちながら、先程の閣僚たちへのレクチャーを反芻していた。

 プレゼンシートの最後の1ページを説明しなかった事が、彼の心に妙に引っ掛かっていた。


 急遽の思いつきで付け足した1ページだったため、グラハム長官に伝えていなかったが、その内容とは、もしもアメリカ南部にザビアが着弾した場合に、何が起こり得るかと言う被害予測だった。

 荒唐無稽とも思えるその被害のシミュレーションの結果が出た時、バクスターは背筋が凍りついたのをはっきりと覚えている。バクスターはそれを発表すべきかどうか、レクチャーの直前まで迷っていた。自分の考えそのものに確信が持てなかったからだ。


 それはザビアの前駆体であるA液が、有機リン系の農薬とほぼ同じ組成。B液が化学肥料と似た成分という事から得た発想だった。

 もしも南部の農業地帯に化学弾頭が落下し、そこでザビアの合成反応が始まった場合、農薬と化学肥料をふんだんに吸い込んだその土壌にまで、合成反応の連鎖が飛び火して、広範囲に波及してまうのではないかというのが、バクスターに閃いたアイデアだった。

 もちろんC液の現物が無い以上、それは確かめようのない事だったのだが。


「多分、杞憂だろう」

 バクスターはそう考えることにした。それは、確たる根拠のないままで想定した最悪の被害に過ぎない。期待されない問題を提起しても、歓迎されないばかりか、悪くすれば自分の研究者としての能力まで疑われてしまうだろう。


 ようやく捕まえたタクシーが歩道に寄ってきた。

「その内、もしも機会が有れば、グラハム長官にだけは耳打ちをしておこう……」

 バクスターはそう考えながら、タクシーのドアを勢いよく閉めた。



――2018年1月6日、19時15分、小笠原――


 矢倉と新藤は小笠原村の診療所にいた。玲子を砂浜に上げ、すぐに救急車を呼んで搬送したのだ。


 医師の診断によると、玲子の体に起きた変調は、浅い深度で起きた窒素酔いで、海中で急速に進行したその症状が、精神の錯乱と幻覚症状を誘発したのだろうとの見立てだった。

 玲子はしばらく病院で横になっていたが、体から窒素が抜けると、まるで夢から覚めたようにあっけなく回復した。


 医師は念のために、都内の病院で精密検査をした方が良いのではないかと言った。海上自衛隊に依頼すれば、ヘリで搬送してもらうこともできるのだそうだ。しかし玲子は「もう大丈夫だから、大袈裟な事はしないで」と、その申し出を断った。

 その日玲子は、矢倉や新藤の心配をよそに、まるで何事も無かったかのように歩いてホテルに向かった。


「ありがとうな新藤君、君は玲子の命の恩人だ」

 帰りの道すがら、矢倉は新藤に感謝の意を伝えた。

「いえ、何て事ありません。僕の方こそ玲子さんには悪いのですが、窒素酔いの怖さを目の当たりにして、これからのダイビングには、慎重の上にも慎重を期すべきという教訓を得ました。むしろ感謝したいくらいです」

 矢倉は新藤の言葉に頷いた。


「しかし……」

 何かを言いかけて、新藤は口ごもった。

「どうした?」


「海の中では――、人は簡単に死んでしまうものなんですね……」

 新藤はぼそりと言った。


――第五章、終わり――

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