第六章 約束の地

第19話 予科練にて 

――2018年1月20日、4時50分、羽田空港――


 羽田空港の国際線ターミナル。矢倉はぼんやりと据え付けのTVを見ながら、搭乗案内のアナウンスを待っていた。

 矢倉が搭乗する便は6時発のルフトハンザ航空7237。フランクフルトを経由し、ポルトガルの首都リスボンに向かう早朝便だ。


 電車の始発時間よりも早く、チェックインしなければならないため、車を持っていないい矢倉は仕方なくタクシーを呼んで空港まで来た。玲子に送ってくれと頼んでみたのだが、運悪く玲子が出演する深夜の生放送番組とかち合って、断られてしまった。


 待合ロビーのTVには、その玲子の顔が映っており、玲子の隣には『報道トゥナイト』で見慣れた、古賀太一の姿があった。

「本日の『朝まで報道トゥナイト』も、そろそろ終盤です」

 古賀はカメラに目線を送った。


「昨年のギリシャ、年明けのポルトガルに続き、現在はスペインまでもがデフォルト目前と言われています。これからの時間は、国際政治学者の増渕先生と、経済がご専門の慶応大学教授、武本先生のご両名をスタジオにお招きし、お話を伺っていきたいと思います」

 カメラが引くと、古賀の番組で見慣れている増渕と武本が映った。古賀はカメラに向かったままで話し続けた。


「世界経済は現在、未曽有の危機的局面を迎えようとしております。しかしながら何故か今に至っても、その金融危機を救うべきIMFからは、対応策についてのアナウンスが何もなく、各方面からは非難の声が上がっています。増渕先生、IMFは一体どうなってしまったのでしょうか?」

 古賀は増渕に視線を投げた。


「私の考えはずっと一貫しています。現在はIMFの内部に異変があるのではなく、IMFを主導しているアメリカに何かが起きているのだと思います」

「増渕先生は年明けのポルトガルのデフォルトの時から、そのように主張されておりましたが、その後何か情報は掴んでいらっしゃいますか?」

「アメリカ大統領が招集する国家安全保障会議が、その後もずっと継続しており、私の知る限りではもう5回も行われています、その内一回は3日連続しています」


「アメリカの安全保障において、それほど重大な危機があるという事ですね?」

「そうだとしか思えません。また、アメリカ軍の関係者から、対空ミサイルの配備網が移動しているという情報も得ています」

「対空ミサイルですか……?」

「メキシコ湾岸に配備されていた、パトリオットミサイルが、東海岸側に移動を始めた模様です。さすがに軍事機密なので詳しい事までは分かり兼ねますが」


「増渕先生のご推測――、つまりアメリカ国内に、国防上の問題が発生しているのではないかという予想に合致する動きだという事ですね。武本教授はこの件について、何かお考えはありますか?」

 古賀は、増渕の隣に座る武本にも話を振った。

「私は軍事には詳しくありませんが、増渕先生のご推論は非常に興味深く思っています」

「武本教授のご専門分野である経済では、何か動きはあるのでしょうか?」

「年明け以降、ユーロの下落が続いていますが、ここでスペインがデフォルトすれば更に一段の下げがあるでしょう。悪くすると、暴落という事態も考えられます。

 ユーロ加盟国の中では、ギリシャ、ポルトガル、スペインを一旦ユーロから離脱させる案が浮上しています。IMFが動かない以上は、私もそれが妥当かと思います」


「ドラクマ、エスクード、ペセタを復活させて、ユーロへの影響を絶ち、それぞれの国が個別に経済再建を期すという事ですね?」

「その通りです。しかし事はそう単純でないかもしれません。本件はもっと深い根があるように思えます。私にはIMFの主要理事国政府が、何故か何も発言していないのが不思議でなりません。

 日本もそうですし、イギリスもそうです。何よりも驚かされるのが、通貨ユーロの当事国であるドイツ、フランスまでも沈黙を守っているのです。これはIMFの枠組み内で、既に対応策について根回しが終わっており、発表のタイミングを待っているとしか思えません」


「以前に教授が主張なさった事――、要するに水面下では、新しい救済スキームが検討されているはずだという事ですね?」

「そうです。何しろ戦後から続いてきた資本主義経済は、もう構造的疲労によって限界を迎えつつあります。航空機に例えるならば、舵翼が壊れて水平飛行が困難な状況です」

「まさに、混迷する世界経済を象徴するお言葉です。さて、風雲急を告げる事態のなか、我が日本はどのように対応していくべきなのでしょうか。一旦CMを挟んで……」


――ピンポーン――

 TVの音をかき消すように、出発ロビーにはアナウンスが流れはじめた。


――ルフトハンザ航空7237便は、搭乗準備が整いましたので、ただいまよりお客様を機内にご案内させていただきます――


 矢倉の周囲はにわかにざわつき、搭乗客は我先にカウンター前に行列を作り始めた。矢倉もそれに促されるように席を立ち、機内持ち込みの小さなショルダーバッグを肩に掛け、その列の一番後に並んだ。


     ※


 矢倉を乗せた旅客機は、定刻通りの6時に離陸した。矢倉は「ようやくこの日が来た」と心の中でつぶやいた。

 矢倉にとって今回のポルトガル行きは、子供の頃から思い描いていた夢であり、祖父の足跡を辿る旅だった。


 両親が共働きで、子供の頃から祖母に育てられた矢倉は、よく祖母から祖父の思い出話を聞かされたものだった。祖母の紀代美は90歳だが今なお元気で、鳥取県米子市で、矢倉の両親と共に暮らしている。

 細かな事にはこだわらない大らかな性格は近所の誰からも愛され、矢倉は子供の頃から、祖母の笑顔しか見たことがなかった。


 祖母が語る祖父の姿は、日本海軍の立派な軍人で、予科練出のパイロット。祖父は女学生たちからの憧れの的で、その人気は、今時のアイドル歌手どころの騒ぎでは無かったと祖母は語った。

 祖母は祖父の思い出話をするとき、決まって美しい笑顔を見せた。まるで20歳も若返ったような笑顔だった。矢倉は子供心にその笑顔を見たくて、度々祖父の思い出話を祖母にねだった。


     ※


 祖父の邦仁くにひとは鳥取県米子市葭津よしづで、1925年(大正14年)に生まれた。

 貧しい農家の小倅だったが、学業優秀で周囲からは神童と呼ばれていたらしい。旧制中学の卒業を控えた頃、担任教師は邦仁に、学費が免除される海軍兵学校を受験するよう薦めた。難関で知られる海軍兵学校であるが、邦仁なら難なく合格するだろうと担任教師は言ったそうだ。 


 しかし邦仁は、それより明らかに格下と目される予科練を受験した。予科練とは海軍飛行予科練習生の略称で、15歳から20歳までの志願者から選抜され、少年航空兵とも呼ばれた海軍の教育課程である。


 邦仁が中学を卒業した1943年(昭和18年)は、その前年のミッドウェー海戦、ソロモン沖海戦の敗退によって、既に日本軍の劣勢が明らかとなっていた頃だ。歴戦のベテランパイロットの多くが失われた海軍では、若いパイロットの育成が急務だった。

 予科練が大量採用を始めたのもこの年だ。鳥取県の美保基地でも、予科練の養成が始まるとの噂を聞きつけたことが、矢倉の志望動機だった。


 美保基地は矢倉の実家から、目と鼻の先にあった。邦仁は決して言葉には出さなかったが、恐らく病気で臥せっている母親の側に、少しでも長くいてやりたかったのだろうと周囲は察していた。


 邦仁の家庭は母一人、子一人。父が中国で戦死してからは、母が女手一つで邦仁を育てたが、農作業の最中に倒れて以降、母の病は悪化の一途だった。当時は既に寝たきりの状態で、近所に住む伯母――母の姉――が、何かと面倒をみてくれるお蔭で、邦仁はなんとか学校に通う事ができた。


 幾ら実家が美保基地の側だといえ、もちろんそこから基地に通うことが許されるはずが無いことくらいは邦仁にも端から分かっていた。

 会えずとも、可能な限り母の近くに――何かあれば、駆けつけることができる場所に――いてやりたいと思っただけだ。しかし邦仁がそんな心配をしなければならないほど、母の病状は思わしくなかった。


 邦仁は当然のごとく予科練の試験に合格した。入隊は卒業から間を置いた9月だった。その頃の日本軍は、前線での兵力不足が増々深刻な状況に陥っており、当初2年の予定であった予科練の教程は大幅に短縮された。

 邦仁が所属した第13期は、入学から僅か10ヶ月で卒業となった。卒業後の邦仁は京都の峰山航空隊への配属が決まった。


 邦仁は赴任前に休暇をもらって、一週間家に帰ってきた。祖母、紀代美が邦仁と結婚式を挙げたのはその折の事だった。二人の結婚は邦仁が京都に旅立つ前日に、二人の意思とは関係なく、周囲がばたばたとお膳立てをしたものだった。


 当時は若い男が皆出兵し、多くの女性に結婚相手がいなかった時期だ。紀代美の隣家では、妻を亡くした主人の元に、喪が明けぬうちからその妻の妹が、当然の権利かのごとく後妻で入っていたし、もう一つ隣の家では、夫婦が初めて会ったのは入籍後だったらしい。

 写真だけを見せられて夫不在の家に嫁いだ妻は、夫が出兵先から休暇で帰宅した時に、初めて対面したのだそうだ。田舎の貧しい農村ではどこでもそんな具合だった。


 邦仁は式の前日まで妻をめとる気など毛頭無かったようで、伯母から説得されての結婚だった。一つだけ幸いがあったとすれば、紀代美と邦仁は一つ違いの幼馴染で、子供の頃からお互いに見知っていたというこくらいだ。

 式の後で邦仁は紀代美に、「この結婚は病床の母親を安心させるための、形だけのものなのだ」と言って詫びた。母の余命が幾ばくも無い事は、誰の目からも明らかだった。


 邦仁は紀代美に、「入籍はしないので、どうか母が他界した後には実家に帰って欲しい」と告げた。


 その夜、邦仁は紀代美に、指一本さえ触れる事も無かったのだそうだ。


 子供の時分の自分には、その意味が分からなかったのであるが……

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