第17話 レックダイビング

 バクスターは与えられた任務に従い、淡々と自らの分析結果を述べたにすぎないが、その淡々とした口調とは裏腹に、想定される被害のあまりの大きさは、皆を押し黙らせた。

 グラハムは、同席している閣僚たちが誰も質問をする気配がないことを確認すると、バクスターに会議室から退出して良いと目配をした。


 まだ言い足りない事があると、バクスターは目で合図をグラハムに送ったが、グラハムにはそれには気が付かないようだった。バクスターはそれ以上に粘ることはせず、立ち上って部屋を辞した。


 バクスターの背中を見送った後、ミラー統合参謀本部議長が会議テーブルに向き直った。

「私の方からもう一つだけ、重要な点を付け加えさせていただきます。もしも我々がV2の迎撃に成功したとしても、化学クラスター弾頭の全てが無害化できるわけではありません。

 大半は外殻に守られて地上に落下しますし、破壊した弾頭も上空でザビア化して周囲に飛散します。迎撃は必ず、V2が海上にいる間に行わなければなりません」

 ミラーの発言に、一同は深いため息をついた。


「ちょっと聞いて良いか、チェイス」

 バウアー副大統領が挙手をして発言を求めた。

「そのザビアは、実戦ではどの程度の戦果を上げたんだ?」

「我々の知る限り、一度も使われていません。ザビアに限らずサリンもソマンも同様です。ナチスは毒ガス戦研究の先駆者であったにも関わらず、実戦に投入したことがないのです」

「使われていないだと?」

「そうです。公式な記録では、ヒトラーは閣僚から強い要望があったにも関わらず、毒ガスの使用を決して許可しなかったそうです」

「どういう事なんだ? 使わないのに研究をしたのか?」

「こと毒ガスに関しては、ヒトラーは極めて抑制的で、バランスのとれた考え方をしていたという事でしょう」


「どういう事だ?」

「毒ガス戦は拡散範囲をコントロールできないため、被害が想定外に拡大しがちです。もしも戦争で当時国双方が使用すれば、無制限に人命が失われることでしょう。

 そして見落とされがちな事ですが、毒ガス戦には大きな欠点があります。汚染された土壌は、そこは除染をするまでは、誰も占領することができません。加えて、味方にも捕虜にも中毒患者が発生してしまうのが大問題です。生きていれば治療するしかありませんし、死体も高温で焼却しなければなりません。それには膨大なコストが掛かります。


 毒ガスは安価に大量の人間を殺せるという点で効率的ですが、中期、長期に戦線を維持するという観点から見ると、経済面から現実的とは言えないのです。核兵器と同じように、抑止力として保有するのが、一番効率的な利用法と言って良いでしょう」


「なるほど、ヒトラーはそこまで見抜いていたということか」

「そういう事になりますね」

「ところで、ザビアの現物は存在しているのか?」

 バウアーは続けて訊いた。


「はい、ザビアの実験プラントは、当時ノルウェーにありました。ナチスドイツの敗戦時、連合軍は真っ先にそこを確保し、残存していたザビアは全て我が国に持ち帰って、現在はエドワーズ空軍基地に保管されています。

 正確に言えば、先程バクスターが説明してくれたA液とB液、そして完成品のザビアが我々の手中にあります。C液は合成済のザビアがある以上、存在は明らかですが、残念ながら現物は発見されていません」


 バウアーはその回答に、安心したと言うように頷いた。終戦当時のドイツ国内には、炭鉱跡に大量にサリンとソマンがストックされていた事が知られているが、それらは技術者と共に全て旧ソ連の手に落ちていた。

 バウアーはザビアの行方を心配していたのだった。


「チェイス、そもそもの話に戻るのだけれど、そのモサドの諜報員ペレスはワシントンDCで、誰に会おうとしていたのか分かっているの?」

 ブレイクが発言した。

「まだ分かっていません。実はこの場をお借りして、進言したいことがあるのです」

「進言? 何を?」

「ペレスが所属していたモサドに、情報提供を依頼しようと思っています。ご許可をいただきたいのです」

「モサドに直接訊くの?」

「そうです。諜報機関同士の連携で情報取引は可能です。事が急を要する模様なので、当事者から直接情報を得ることが得策と考えます」

「こちらからの見返りは?」

「着弾したV2の調査資料と、化学弾頭のサンプルを提供してはどうかと思います」

「我が国が攻撃を受けた事が知られてしまうわけね」

「そうです。だからこそ、私だけの判断では実行できないのです」


 ブレイクは視線をミラーの上司にあたる、ブラウン国家情報長官に向けた。ブラウンは軽く頷くと、さらに視線をコレット国防長官に投げた。コレットも頷いた。

 ブレイクは最後の承認を求めるように、視線をカワードに送った。


「構わん、やれ」

 カワードが頷いた。



――2018年1月6日、小笠原、15時30分、小笠原――


 矢倉たちはこの日、3ダイブ目の海中にいた。

 駆逐艇の甲板付近で矢倉は玲子に『ここで待て』というサインを送り、新藤にはブリッジ脇の楕円の開口部を指さした。

 2人がブリッジの中に姿を消すのを見届けると、玲子は心の中で「まったく、心配性なんだから」と矢倉に毒づいた。 


 一人で待つのも手持無沙汰なので、玲子はブリッジ後方の煙突に向かって水中スクーターを進めた。その周囲はボートを吊り下げるクレーンなど、複雑な構造物がまだ原形を留めており、沈没船の佇まいを味わうには絶好の場所だった。


 煙突の中を覗き込もうと、玲子がその淵に手を掛けたその時だった。

「こんにちは」という、子供の声がどこからか聞こえてきた。

 海の中を伝わるくぐもった声ではなく、良く通るクリアな声だった。周囲を見回しても、当然ながら誰もいない。


――空耳?――

 そう思った瞬間、「こんにちは、ようこそ」と、もう一度はっきりと声が聞こえてきた。周囲にはやはり誰もいない。しかし、確かに声は聞こえた。


――ひょっとして――

 玲子が煙突の穴を覗き込むと、突然その中からひょっこりと、一匹の大きなウミガメが顔を出した。玲子の動揺を察したのか、ウミガメは「驚かせてごめんね」と詫びた。口は動いていない。脳に直接語りかけているようだ。


 ウミガメの顔はどことなく愛嬌があり、目には好奇心に満ちた輝きがあった。ウミガメは、陸ガメ同様に長生きだと言う。150年生きた例もあるそうだ。もしかするとこのウミガメは、自分よりもずっと長い年月を生き、知性を身に着けているのかもしれない。


 玲子が不審がっているのを悟ったように、またウミガメが話しかけてきた。

「君はやさしそうな人だから、僕の一番大切な場所に案内してあげる。誰にも秘密だよ」

 ウミガメは煙突を抜け出して、滑るようにブリッジの方に泳いで行った。その甲羅は玉虫色で、水中の僅かな光を反射して、七色に輝いていた。それは見たこともない美しい色だった。

 きっと新種のウミガメだ――。

 矢倉や新藤にも見せてやりたと玲子は思った。


 玲子が後を追うと、ウミガメは垂直ラッタルのある、四角い開口部の中に入って行った。そこは先ほど矢倉が確認した、透明度が悪い危険な場所だ。玲子が躊躇していると、ウミガメはその開口部から顔を出して、前肢で手招きをした。


 玲子は思い切って、ウミガメの入って行った開口部に侵入した。初めそこはとても濁っていたが、しばらくすると、ウミガメが進んで行った方向だけが、霧が晴れるかのように視界が開けた。玲子はウミガメの後を追って更に進んだ。


 玲子は自分の体が、いつの間にか軽くなってきていることに気が付いた。水を掻くのではなく、魚のように体をくねらせるだけで、どこへでも行けそうな感覚だった。玲子は自分が水棲生物となって、水と一体化したように感じた。

 やがてそれは大きな幸福感に変わって行った。随分と長く泳いだと感じた頃、幾つ目かの開口部をくぐったところで、あのウミガメが待っていた。


「ここだよ、君に見せたかったところは」

 その途端に、周囲の壁面は光を放ち始め、やがて玲子の体までが光りだした。

「ここではマスクなんかいらないよ。君は魚のように呼吸し、自由に動き回れるんだ」

 玲子は急にフルフェイスのマスクに、圧迫感と息苦しさを感じ始めた。


――マスクさえ外してしまえば、もっと楽に呼吸できる――

 玲子はマスクを固定しているベルトに手を伸ばした。しかし、先程まであんなに身軽に動いていた身体が、何故か今は鉛のように重く感じられた。


――何という事? マスクが外せない――

――何故そんな簡単な事が出来ないの?――

――ああ、マスクさえ外せれば――

――新鮮な空気が吸えるのに――

 玲子は苦しげに身をよじらせた。


 矢倉と新藤は10分程でブリッジの外に出てきた。

 矢倉は玲子の居場所を確認しようと周囲を見回したが、どこにも姿は見当たらなかった。新藤も周囲を見回していた。矢倉はダイビングベルを鳴らして合図を送ってみたが、返事は返って来なかった。


 やがて、新藤が玲子の水中スクーターを見つけた。それは艦の下方に向かう四角い開口部の脇にあった。そこからは、濁った靄が立ち上っていた。


――玲子は一人でここに入っていった――

 そう矢倉は直感した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る