第五章 ザビア

第16話 その毒ガスの性能

――2018年1月6日、ホワイトハウス、18時30分――


 夜が明けたばかりのホワイトハウスには、昨日と同じ閣僚たちに加え、チェイス・グラハムCIA長官の顔があった。

「さあ、始めましょう。チェイスお願いするわ」

 ブレイクの一声で会議が始まった。

「それでは」と、グラハムが手元の端末を操作すると、大画面プロジェクターには一人の男の顔写真が映った。


「この男の名は、モーシェ・ペレス。アルゼンチン在住のイスラエル人で、モサドの諜報員です。昨年の12月23日、ブエノスアイレスからダレス国際空港に到着。そのままタクシーで市街に入り、IMF本部ビルの南側で殺害されました。

 ここから目と鼻の先の場所です。死因はブロム化ネオスチグミンの投与による急性心不全。使われた薬剤と手際の良さからして、我々CIAと同業者の仕業です」


「男にCIAの監視はついていたの?」

 ブレイクが訊いた。

「もちろんです。入国時点から当局のエージェントが尾行していました。しかし一瞬の隙を突いて犯行が行われ、ペレスの所持品は奪われました。

 彼はCIAの監視リストの中では、最も重要度の低いBBランクの人物だったため、マークが手薄だったのです」


「その男が、例の化学弾頭に関して、何らかの情報を持っていたという事なのね?」

「はい、ペレスは息を引き取る間際、『ザビアが目を覚ます』という言葉を残しました」

「そのザビアというのは、一体何なの?」

「第二次大戦末期に、ナチスが開発した毒ガスです。極めて毒性が高いため、戦後はウルトラトップシークレットとして一切の情報が秘匿され、軍の化学戦研究者以外には、存在さえ知られていません」


「空の化学弾頭に、そのザビアが充填される可能性があったということ? そもそもザビアという言葉自体、男の死の間際のうわ言でしょう。聞き違いと言う事も有り得るわ」

「首席補佐官の疑問はごもっともです。CIAでも持てる能力を総動員して情報分析を急いでいるところです。

 現状ではV2の着弾が、ペレス殺害の僅か2日後という事。そしてそこに空の化学弾頭が積まれていた事。旧ナチスが何らかの形で本件に関与しているだろうという推測される中で、ペレスが残した最後の言葉。

 これらの状況証拠を総合すると、どうしてもナチスの毒ガス、ザビアに注目せざるを得ない――。今はまだその段階です」


「言っている事は良くわかったわ。まずはそのザビアについて説明を聞きましょう」

「了解しました。ザビアの説明は化学的な内容を含みますので、CIAの専門スタッフを部屋に入れたく思います。大統領、よろしいでしょうか?」

 ブラウンはカワードの方を向いて許可を求めた。

 カワードはゆっくりと頷いた。


 会議室の扉が開くと、30代の後半の痩せぎすの男が、落ち着きのない仕草で入って来た。グラハムは手招きをして、男をテーブルの末席に座らせると、「わが局の化学部門・主席分析官のモーリス・バクスターです」と紹介した。


 バクスターは部屋の周囲をぐるりと見回すと、居心地が悪そうに少し顔をしかめ、メタルフレームの眼鏡中央を、右手中指で何度も眉間に押付けるような仕草をした。そして分厚い革のバッグから資料を取り出して、会議テーブルの上に置き、次に、持参したノートPCをプロジェクターのケーブルに繋いだ。


~XaViA~ 

 画面には見慣れない文字が大映しになった。


「そ……、それではレクチャーを始めます」

 バクスターの声は、緊張で震えていた。

「ザビアの綴りはご覧のようにXa・Vi・Aと書きます。3人のドイツ人化学者、アルマント・ツェプター(Armand Zepte)、ヴィルギル・フォン・リンゲン(Virgil von Lingen)、クサヴァー・リーム(Xaver Rihm)の頭文字を繋いだものです。

 ザビアは1940年にベルリン大学の研究室で合成されました。実際にそれを発案し、合成を成功させたのはクサヴァー・リーム。他の2名は業績に名を連ねただけです。当時彼は大学生。ツェプターはリームの指導教官、リンゲンは学科長でした。

 因みに、1940年と言えば、ナチスドイツがノルウェー、ベネルクス、フランスを次々に攻略した年であり、日独伊三国同盟が結ばれた年でもあります」

 バクスターはノートPCを操作して、画面のページを進めた。


~XaViAの特長~ 

 3つの項目が、画面に箇条書きになった。


「ザビアの特長は大きく3つあります。1つ目は極めて強い毒性を示すこと。2つ目は毒性の強さにも関わらず、非常に安全に保管することが可能な事。3つ目は汚染地域への残留性が高いことです」

 バクスターは手元のテンキーを押した。


~代表的な毒ガスとの比較~ 

 画面には4つの棒グラフが表示された。


「この表は、代表的な毒ガス3種とザビアの毒性を比較したものです。グラフの縦軸単位はLC50。分かりやすく言うと50%致死濃度で、1分間に吸入して半数の人が死に至る量の事です」

 バクスターはそこでレーザーポインターを手に取り、グラフに向けた。


「まずはナチスが開発したことで知られるサリンとソマンですが、サリンが100 mgに対して、ソマンが70 mg。つまりソマンがサリンより、毒性が強いという事です。

 次に1952年になってイギリスで合成されたVXガスですが、これは各段に毒性が上がっており、僅か0.1 mgとなります。


 そして最後に今回注目するザビアです。LC50の値は0.16mgで、VXよりは劣りますが、サリン、ソマンに較べると桁違いに強力です。

 他のガスと同じく皮膚からも吸収されますので、当然ながら、指に一滴垂らすだけで即死です。驚くべきことにこのような強力な毒ガスが、第二次大戦末期に既に存在していたのです」


 レクチャーの内容が、自らの専門分野の内容に踏み込んできたからだろう、バクスターの声は冒頭の上ずった調子から段々と落ち着いてきていた。バクスターはまたページをめくった。


~XaViAの成分と特性~ 

 画面はA、B、Cで色分けされたブロック図になった。


「次にザビアの成分と特性に関してご説明します。実はこの成分に関わる部分が、ザビアの一番の特徴であり、先程2ページ目で申し上げた、安全な保管を可能としています。

 ザビアは前駆体となるA液とB液を反応させる事で生成させます。因みに申しますと、A液、B液という呼称は、当時ベルリン大学の研究室で実際に使われていた用語です。


 A液は有機リン系の液体でこれがコリンエステラーゼの活性を阻害する、毒性の根幹です。B液はアンモニアとカリウムを主体としたもので、このB液がA液の毒性を飛躍的に高める役割を果たします。


 ここから先が重要なポイントなのですが、実はA液は単体ではそれほど強い毒性を示しません。成分的にはありふれた有機リン系の農薬とほぼ同じ組成なのです。 B液の方は、単体の状態では完全に無害な薬剤と言っても良いでしょう。化学肥料と似た成分です。


 そしてA液とB液は、混ぜただけでは反応しません。それを行うために必要となるのがC液です。添加剤となるC液をごく微量加えることで、反応は連鎖的に、しかも爆発的に進みます。熱や圧力などは一切加える必要がありません。常温のままで反応します。


 つまりどういう事かと言えば、A液とB液、C液を分けてさえおけば、毒性を発揮しないままで安全にザビアを扱うことができるのです。またA液とB液は予め混ぜたAB液として保管もできますし、B液単体は液体としてだけでなく、顆粒状としても存在可能です。


 とにかくザビアは使い勝手の良い毒ガスなのです。一説ではザビアの毒性を無害化するD液まで存在したと言われていますが、荒唐無稽な話で、我々はそれを信じていません」


 バクスターの表情は、まるで彼自身がザビアを開発したというように得意げに見えた。彼はまた手元のキーボードに振れた。


~化学弾頭の特長~ 

 画面は、球をカットした立体的な構造図に変わった。


「今ご覧になっているは、先日ワシントンDCの郊外に着弾し、軍が回収した化学弾頭の構造図です。

 1.3ポンドのメインタンクの内側に、1㏄ほどの小さなサブタンクが2カ所あり、それぞれが薄いガラスで遮蔽されています。恐らく実戦では、メインタンクにAB液を充填し、サブタンクにC液を入れるのだと考えられます。

 着弾の衝撃で遮蔽ガラスが割れて、その場でザビアが生成される仕組みです。つまり輸送時は、農薬を運ぶ程度の危険度しかなく、実戦で使われて初めて、本来の毒性を発揮するということです」


 バクスターは更にページをめくった。その顔は増々得意げで、その顔にはうっすらと笑みさえ浮かべはじめていた。


~水と油に対する溶解度~ 

 画面は2つの棒グラフになった。


「次に汚染の残留性についてお話しします。ザビアは化学的に非常に安定しており、自然界で分解されることはありません。

 親油性が高く、水への溶解度はわずか数パーセントしかありませんので、無害化のために水で洗う事は出来ず、化学洗浄をするしかありません。しかも洗浄に使った廃液は、1000度以上の高温で完全燃焼させる必要があります。


 ザビアは大気と較べて比重が重く、揮発性が低いので、土壌に浸透した場合は、長くその場に残ります。天気の良い日には、地上30㎝付近にザビアの霞がかかるでしょう。

 触れれば即死するほどの毒ガスが足元を漂い。夜はまた土に吸収されるというサイクルを繰り返すのです。樹木や植物に取り込まれたものは、もう取り出すことはできず、高温で焼却する以外に無害化の方法はありません。

 汚染範囲が広い場合は、燃料気化爆弾で一気に高温焼却した方が、コスト的には効率的なくらいです」


 バクスターが次のページをめくろうとキーボードに指を置いたとき、ふと室内を見回すと、皆信じられないとでも言うように、首を横に振るばかりだった。

 バクスターは自分のレクチャーの成果に満足したかのように、勝ち誇った表情でキーを押し込んだ。


~被害予想~ 

 画面一杯に表示されたのは、ワシントンDCの地図だった。


「次は化学クラスター弾頭による、汚染範囲の予想です。本兵器がどの高度で弾頭を拡散させる設計なのは分かりませんが、弾頭数は45個。

 仮に高度1000mからだと半径約200mの範囲、つまりフットボールのグラウンド20面分程度が高濃度に汚染される計算になります」

 バクスターの操作で、画面内の地図には赤い半透明の円が重なった。


「高度1万mだとその100倍の2000面分。高度7万5千mでは斑状にワシントンDCの市街地全てが被われます」

 地図にはホワイトハウスを中心に、45個の赤い円が表示された。


「赤い円が重なっていない場所も安全ではありません。円内は除染も困難な猛毒の汚染地域という目安に過ぎず、その周囲も大気は汚染され、しかも毒は風に乗って拡散します。どこに向かうのかは予想もつきません。ワシントンDCからは、軍の化学部隊以外、全市民が避難する必要があります」


 バクスターはそこでフゥと一つ息をついた。そして「ご質問は?」と一言だけ言った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る