第9話 タイムリミット
バウアーはブレイクの発言の最後の一節に、意を強くしたのか、再び口を開いた。
「世界の経済は複雑にリンクしています。弱小国のギリシャ一国の事と高をくくってはいけません。我々は今こそ……」
「もう良い。やめろ」
カワードがバウアーの発言を制した。
「何が有ろうが起ころうが、管理金準備制度を実現するのが私の決定であり、即ちそれはこの会議の大前提だ。それ以外の事を考える者は、この部屋を去ってもらう」
「大統領、しかし……」
「黙れと言っただろう」
カワードは手元のミネラルウォーターのボトルを、ブレイクに投げつけた。
「いかに副大統領と言えども、私の下した決定を覆すことはできない。私は君の立場に配慮してこれまで黙っていたが、もう我慢の限界だ。今すぐこの部屋を出るか、それとも黙して席に残るかを決めろ。出て行くのであれば辞表を出すことを忘れるなよ」
バウアーの目には一瞬強い怒りの色が浮かんだが、すぐにそれは消え失せ、降参したというように軽く両手を上げるポーズを取って、不自然なほどに大げさな動作で、深く椅子に座りなおした。
「大統領、提案があります」
凍りついた会議の場を収めるように、ブレイクが挙手をした。
「何だ、クララ」
「この会議での論点は、ミサイル攻撃によって、実施寸前でストップを掛けざるを得なくなった管理金準備制度を、今後どうやってリスタートさせるかにつきます」
「その通りだ、それで?」
「重要なのは、リスクコントロールです」
「リスクコントロール?」
「そうです。ギリシャの救済は、管理金準備制度の実施が大前提――とは言いながら、謎の潜水艦に振り回わされたまま、いつまでも放置することはできません。それはやがて、合衆国の経済に甚大な被害を及ぼすリスクを伴うからです。
我々は、経済危機がギリシャからユーロ圏、そして世界経済へと波及する速度と規模を見極めて、どこまで合衆国が許容でき、我慢ができるのかを、冷静に判断すべきです。我々はタイムリミットを定めるべきだと思います」
「それを定めてどうする? もっと具体的に言え」
「予め定めたタイムリミット一杯までは、我々は謎の潜水艦の追跡を最優先し、世界中から如何なる非難を浴びようとも、ギリシャの救済を引き延ばしましょう。
それによってギリシャから被害が伝播し、他の国がデフォルトに陥る事があろうともです。それは許容されたリスクだと考えるのです。
しかしもしも、我々が謎の潜水艦を処理できないままでタイムリミットを迎えた場合は、その時点で我々は、従来通りのIMFの体制のままでギリシャ救済に舵を切るか、或いは敢えて管理金準備制度を強行するかの決断をしましょう。
従来の救済スキームを採る場合は、管理金準備制度の実施は当面棚上げするしかありません。
一方、管理金準備制度を強行する場合は、謎の潜水艦から再度攻撃を受ける可能性を視野に入れながら、事を進めることになります。米国本土の防衛網を強化しながら、同時に極秘裏に潜水艦を追い続けるという流れです。
如何でしょうか、大統領。これなら大統領のお考えには背かないはずです」
皆の視線が一斉にカワードに集まった。
「……止むを得ないだろうな」
カワードは感情を押し殺した声で、ぼそりと言った。
「ボブ、ギリシャをこのまま放置した場合のシミュレーションはどうなっているの?」
ブレイクは会議テーブルの向かい側にいる、ロバート・グレン財務長官に話を振った。
「財務省とFRB連邦準備銀行が中心となり、ここ数日で検討を行いました。シミュレーションの数学モデル構築には、ザルマン・シュメル博士の協力を得ています」
「シュメル博士――。管理金準備制度の中心人物の一人――ね」
「その通りです。4人いるIMF副専務理事の内の一人であり経済学者。管理金準備制度の運用シミュレーションは、彼自らが心臓部のプログラミングを行いました。博士の経歴に関して説明した方がよろしいですか?」
「必要ないわ。彼の事は良く知っています。結果だけを言って」
「それでは結論を申しますが、向こう3か月が限界でしょう。現在のように国際経済が複雑に絡み合っている状況では、それを過ぎると被害の拡散規模が読めません」
「3か月内の被害予測は?」
「ここ2週間の内に、まずポルトガルがデフォルトするでしょう。スペインとイタリアまで連鎖するかどうかがぎりぎりの線です。早い話がその両国が防波堤で、そこが決壊したら、あとは成り行き任せという事です」
グレンは首を振り、悲壮な表情を露わにした。
「お聞きになりましたね皆さん。我々が例の潜水艦に時間を割けるのは、向こう3か月が限界線です」
ブレイクは会議室の全員に向けて声を上げた。誰もがその言葉に頷いた。
「タイムリミットは定まりました。残る問題はそれまでに、謎の潜水艦を炙り出せるかどうかです。クレイブ、問題の潜水艦はまだ何の手がかりも無いの?」
ブレイクは、クレイブ・コレット国防長官に視線を向けた。
「国防総省とCIA、および海軍が目下全力でデータの解析を行っています。明朝には最初のレポートが上がってくる予定です。そうだったな、ギャビン」
コレットは隣に座るギャビン・ミラー統合参謀本部議長に話の水を向けた。統合参謀本部議長とは、アメリカの陸海空軍と海兵隊の4軍を統率する制服組軍人のトップである。
「はい、明朝には必ず」
ミラーが答えた。
「あれから12日も過ぎてやっと初報告とは、我が国の国防体制も地に落ちたものだな」
突如カワードが大声を上げ、ミラーを睨みつけた。ミラーはまるで、ここには居場所が無いとでもいうほどに委縮して、上目づかいにカワードの顔を見た。
「飛んできたミサイルを撃ち落とせなかっただけでなく、未だに相手の正体も分からないというのだから恐れ入る。一体お前たちは何様のつもりなんだ。
あの日、第2波、第3波の攻撃がなかったからよかったものの、そうでなければこのホワイトハウスは、今頃火だるまだ。まったく世界最高の軍備を与えてやっているというのに、まともに使う事もできない能無しめが」
「大統領、それは言い過ぎです。皆最善の……」
事をとりなそうとしたブレイクの言葉は、大統領の「フン」という荒い鼻息で遮られた。
「クレイブ、それからギャビン。明日のレポートには、お前たちの首が掛かっている事を忘れるなよ」
怒り心頭とも言えるカワードの言葉を残して、この日の会議はようやく終わった。
閣僚たちが立ち去った後、会議室にはカワードとブレイクだけが残った。カワードは大きなため息を一つしてから、ブレイクに視線を向けた。
「管理金準備制度は合衆国に最大の繁栄をもたらものだ。我が国の繁栄は、世界中の人々の幸福とも言える。発表の日をわざわざクリスマス・イヴにしたのは、それが私から全人類へのプレゼントだという事を、暗に示すサインだったからだ。
あの日IMFが会見を行った後、私はホワイトハウスからTV中継で、祝賀のメッセージを送る手はずになっていた。スピーチの原稿も用意していた。
ようやくそれが結実すると言う正にその日に、たった一発のミサイルで、計画が台無しだ。私の無念さは分かるな?」
「もちろん、お気持ちは私が一番察しています。管理金準備制度は元を辿れば、私の長年の研究成果を、大統領が現実的な視線で、実現可能な形に昇華させたものです。大統領の計画の実現は、言わば私の研究の集大成でもあります」
「クララ、私と君とは同志だ。どんなことがあっても、管理金準備制度は実現させる。私を支えてくれ」
「ご安心ください、大統領。それは私も望んでいることです」
ブレイクはカワードの右手を取ると、自分の両方の手でそれをやさしく包んだ。
――2018年1月5日、15時50分、小笠原――
矢倉と玲子の乗ったクルーザーは、日が高い内に母港のとびうお桟橋に向かっていた。
冬の小笠原は海面が安定せず、急に波が高まってきたために、3本目のダイビングは断念せざるをえなくなった。残念ながらザトウクジラと出会えたのは、1本目のダイビングの時だけであった。
「レジャーダイビングというのも、たまには良いものだな」
矢倉は玲子に話しかけた。
「あれほど間近でクジラに出会えたのは、またとない幸運だったわね。あの子と出会う前に聞こえた不思議な音は、何だったのかしら」
「クジラやイルカなどの海生生物は、潜水艦のソナーと同じように、自分から音波を発し水中物体の位置を把握しているらしい。きっとそれだよ」
「あんな風に、はっきりと聞こえるものなのね」
「長年潜っていると、時々海底で不思議な音が聞こえる事がある。あれは多分、クジラが発する声だったんだろう」
「きっとクジラが歌っていたのよ」
「時には君も、女の子らしい事を言うんだな」
「たまにはね」
玲子は馬鹿にするなとでもいうような、ふくれっ面をして見せ、矢倉はそれをなだめるように玲子の肩を抱いた。
二見湾に入りかけたところで、船のガイドが矢倉に声を掛けてくれた。
「矢倉さんが明日潜るポイントは、あの辺りです」
ガイドが指で示したその場所は、二見港の対岸にある振分山側に位置していた。
そこに一年前に発見されたばかりの駆逐艇が沈んでいた。それは観光で潜っていたダイバーが偶然に発見したもので、まだ詳しい調査が行われておらず、ダイビングスポットのガイドにも載っていないものだった。
二見湾の奥には駆逐艇50号という、旧日本海軍の船が沈んでいることが既に知られているため、本艦はその僚艦ではないかと考えられていた。
ガイドによると、漁業権が絡んで船が近寄れないため、ビーチからエントリーしなければならないとの事だった。
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