第8話 副大統領・バウアー

「申し遅れましたが、僕は新藤洋平と言います。もしよかったら、これからも色々と教えてください」

 矢倉を手伝った若者は、思い出したように名乗り、挨拶をした。

「ああ良いよ、知っている事なら何でも教えてあげよう。ただ、俺の知識は飽和潜水に偏っているから、一般のダイバーとは随分と違うし、多分普通のスキューバダイビングだったら、君の方がずっと知識は上だと思うよ。あ、言い忘れたが、俺の名は矢倉雅樹だ」

 矢倉と新藤はその場で握手を交わした。


「何よ、こんな場所で弟子をとるの」

 玲子はそれを横で見て、笑っていた。


「皆さん、そろそろドブ磯のポイントに到着します。準備はよろしいですか?」

 船のスタッフが大声を上げた。

 皆大丈夫というように首を縦に振った。


「それでは注意事項をお知らせします。既にご存知と思いますが、この海域は上級者向けです。強い海流もありますので、船から流されないようにアンカーロープに沿って潜水してください。

 只今の気温は21度、水温は20度です。低体温症にはくれぐれも気を付けてください。本プログラムは3ダイブのボートダイブとなります。1本目は9時、2本目は11時、昼食を挟んで3本目は14時の予定です。


 周囲の深度は30mほどですが、クレバスの深いところは50mあります。安全深度を超えないようご注意ください。潜水時間は1ダイブにつき30分程を予定しています。エアーの残圧が100になったら、同行するガイドに一旦合図してください。その後、もしもどなたか一人でも残圧70を切ったら、残り時間に関係なく浮上を開始します。


 それと、皆さんがお目当てのザトウクジラですが、昨日のお客様は遭遇できませんでしたが、一昨日のお客様までは3日間連続で遭遇されています。ぜひご期待ください。


 尚、今日はプロのダイバーの方2名が船に同乗されています。お二人は皆さんと別行動となります。

 それではこれから二人ずつ、サイドラダーからエントリーをしていただきますので、装備品の最終チェックをお願いします」


 スタッフの声に、皆がもう一度身の回りの確認を始めた。そして船が停止するのと同時に、ダイバーたちは待ちかねたように海に出て行った。矢倉と玲子は最後に海に下りた。

 海中は30m以上ある透明度で、期待通りにクリアな視界が開けていた。先に海に入ったダイバーたちはガイドに先導されて、既に海底に向かって泳いでいた。


 矢倉と玲子は、水中スクーターで皆とは違う方向に進んでいった。ドブ磯は海底から大きな岩が隆起しているポイントで、深いクレバスが連なっている。

 ごつごつした岩の壁を縫うように進むと、不意に足元が、底が抜けたようにドロップオフし、そこにはイソマグロやカンパチなどの大物の魚が泳ぎ、アジの群れが横切って行った。そこは矢倉がいつも潜っている暗い深海とは、隔世の感があった。

 矢倉はオイルダイバーになる前――趣味で海に潜っていた頃――の新鮮な驚きと喜びが、心に蘇るのを感じた。


 深度計を見ると25m程の場所にいる。もっと深く潜り、クレバスの底まで行ってみたいという欲望が矢倉の心に湧いた。青い霞の下にある海底は、恐らく深度50m程。矢倉の技術であれば難しい深さではない。滞在時間に気を付ければ危険は無いだろう。


――一瞬のタッチだけなら大丈夫だ。行ってこようか?――

 魔が差したかのような、一瞬のひらめき。

 しかし矢倉は辛うじてそれを思い止まった。


 ダイビング中には、予定外の行動は行わない事――、それは矢倉がオイルダイバーになって以来、守り続けているポリシーだった。 

 海底をじっと見つめていた頭を上げると、目の前には玲子の顔があった。そして彼女がフルフェイスのマスクの奥で「バーカ」と発した声が、水中を伝わってきた。

 フルフェイスマスクは近距離ならば、水中無線を使わずとも肉声で会話ができるのだ


 矢倉の心の葛藤は全て玲子に見透かされていた。「ばれたか、ごめん」と矢倉は詫びた。

 船からやや距離が離れたので、一旦戻ろうかと矢倉が思った矢先だった。

「ピヨーン」

 どこからか、電子音のような妙な音が聞こえた


 何事かと思って周囲を見回すが、特に何も変わったところは無い。玲子にもその音は聞こえたようで、彼女も辺りを見回している。忘れた頃にまた「ピヨーン」の音が聞こえ、その音は頻度を増して「クイーン」とも「プオン、プオン」とも聞こえ始めた。

 やがてそれは羊のような「メエー、メエー」というやや低い音に変わった。


 音は次第に大きくなり、同時にその音源の方向が定まりはじめた。戸惑う矢倉と玲子の視線の先には、ぼんやりと灰色の影が見え始め、そして次の瞬間にそれは黒い塊となった。

 体長15mを越えそうなその巨体は、上下に体をゆすりながら、矢倉と玲子のすぐ目の前の、手を伸ばせば届きそうな距離を横切って行った。それは美しい流線型をした、ザトウクジラだった。


 二人はその巨体が、海中の濃いブルーの霞に融けるまで、ずっと行方を目で追った。

 


――2018年1月4日、19時30分、ホワイトハウス――


 ホワイトハウス西棟の地下では、昨年のクリスマス・イヴから数えて、3回目の国家安全保障会議が行われていた。

 午後早くから始まったその会議は、ギリシャのデフォルトに対する合衆国の対応について話し合うものであったが、明確な解決策が見いだせぬまま夜を迎え、参加者一同の顔には疲労の色が浮かび始めていた。


 会議室に充満した沈黙を破るように、デニス・バウアー副大統領が挙手をし、発言を求めた。バウアーは前の政権では、国務長官候補になったほどの民主党の実力者であり、本来ならばカワード大統領の最大の政敵だ。

 昨年の夏に党の大統領候補指名を獲得したカワードが、党内の支持を盤石にするため、自らライバルを副大統領に指名したのだ。


 閣僚内における副大統領の立場は、大統領に不測の事態が生じた場合の大統領継承順位がトップということを除き、とりたてて権力を持たない閑職だ。しかしバウアーは、党内での発言力を背景に、何かにつけてカワードの政策に横槍を入れる傾向にあった。


は、ギリシャのデフォルトを巧妙に利用して、合衆国をより以上の強国に躍進させるものです。

 計画を立案された大統領の慧眼には感服しております。しかしながら昨年のミサイル攻撃によって、我が国の国防に対する信頼が揺らいだ今となっては、強行するのは難しいと私は判断します。

 現在我々はギリシャの救済を先延ばししていますが、本件は長く放置すればするほど、我が国に悪影響が及びます。私は“あの計画”を断念し、従来通りの手法で、速やかにギリシャを救済すべきと考えます」


 バウアーに賛同するものは誰もおらず、皆一様に困惑の表情を示しながら、カワードの顔色を窺った。バウアーの意見が、カワードの意に反するものだと知っていたからだ。

 カワードは険しい顔をしながら、黙って首を横に振るだけだった。


「一度ここで、議論の要点を整理しましょう」

 司会役のクララ・ブレイク首席補佐官は膠着した会議に流れを促すように、皆に向かって提案した。


「既にギリシャはデフォルトを宣言し、IMFに救済を求めていますが、先程副大統領が言われたように、目下我々はIMFに圧力を掛け、その救済を先き延ばしさせています。

 理由はまさに“あの計画”、即ち“管理金準備制度”を実現するために他なりません。


 今更言うまでもありませんが、管理金準備制度は現在の資本主義が抱えている様々な問題に根本からメスを入れ、健全化するための処方箋です。そしてそれは、合衆国の安全保障が完全に担保されて初めて実行に移すことができます。

 我々が管理金準備制度を推し進めようとするなら、まず我々はミサイルを発射した潜水艦の正体を暴き、その存在を抹消しなければなりません。もちろんそれは、アメリカ本土が攻撃されたという事実を、関係各国から隠蔽した上での事です。


 念のために申し上げると、ギリシャの救済はしないと言っているのではありません。救済の時期と方法が問題なのです。

 今すぐにIMFを動かせば、ギリシャは当面は救われるでしょう。しかし、それによって管理金準備制度は実現することが難しくなる。

 即ち、世界経済が抱える根源的な問題には手を付けぬまま今後も放置されることになります。それは根本的な救済とは異なります。


 恐らく経済基盤の弱いあの国は、そう遠くなくまたデフォルトの危機に陥るでしょう。ギリシャを本当に救うには、管理金準備制度のガイドラインに則って救済が行われるべきです。それはギリシャ一国だけに止まらず、世界経済全体を救うことにもなるはずです。


 他方、謎の潜水艦については、まだ相手の正体の糸口さえもつかめていない状態です。このままの状態が続けば、ギリシャのデフォルトは世界各地に飛び火してしまいます。バウアー副大統領のご心配は、まさにそこに尽きるでしょう」


 ブレイクは他の閣僚たちの発言を制止しながら、一気に話し終えた。

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