第三章 V2-伊400

第7話 小笠原にて

――2018年1月5日、8時、小笠原――


 新年を迎え、矢倉は小笠原の父島に来ていた。玲子も一緒だった。

「やっと一緒に潜れるわね」

 玲子が矢倉に話し掛けた。


 玲子は矢倉の影響で2年ほど前からスキューバダイビングを始め、元来が凝り性という事もあって、今やプロのダイブマスターの資格を取得するまでに上達していた。

「お手並み拝見だな」

 矢倉は答えた。


 これまでに幾度となく玲子から、一緒に潜りに行こうと誘われていたが、休暇の日まで海に行きたくないと言い訳をして、その都度矢倉は断り続けてきた。

 実を言えば矢倉の本音は、別のところにあった。

 オイルダイバーとして常に最高の装備を扱う身からすると、スキューバダイビングのような脆弱な用具に、命を預ける気になれない――

 それが矢倉の、偽らざる気持ちであった。


 ダイビングというものは潜ることよりも、浮上の方が遥かに難しい。

 浮上速度を誤ると、高水圧下で血液に溶け込んでいたガスが一気に気化し、血管内で閉塞を起こしてしまうからだ。この症状は減圧症と呼ばれ、最悪の場合は死の危険を伴う。

 一般的なスキューバダイビングでは減圧症を避けるために、浮上時に減圧停止という段階を踏む。それは定められた水深に一定時間停止し、体内に溜まった窒素を放出する行為で、潜水する深度や滞在時間でそれぞれ手順が異なる。

 例えば水深35mに15分潜った場合は、海面に浮上する前に、水深5m地点に8分間滞在しなければならない。減圧停止のスケジューリングはダイバー個々の自己責任において行わなければならず、それをサポートしてくれるのが、腕時計の形状をしたダイビングコンピュータだ。


 一方オイルダイバーは飽和潜水という特殊な潜水技術を用いる。ダイバーはまず洋上の母艦に装備されている、DDCと言う圧力容器に入る。このDDCは、中で生活ができるほど広く、シャワーやトイレまで完備されている。ダイバーは数日かけてそこで与圧され、海底の水圧と同じ環境に体を慣らす。

 海底への移動にはDDCに直結している、ベルと呼ばれる圧力カプセルを用いる。当然ベル内の気圧もDDCと同じに調整されている。


 つまりダイバーはDDCの外に出ない限り、体に掛かる圧力は常に海底と同じであり、減圧症に罹ることなく、何度でも海底とDDCの間をを往復することができる事になる。

 DDCやベルの気圧、ガス濃度の管理は、ダイバー自身が行う必要はない。船に同乗する専門のライフサポートテクニシャンが24時間体制でモニタリングし、ダイバーごとに体調管理まで行ってくれる。


 任務を終えて、DDCを出る際は与圧の倍以上の日数を掛けて減圧する。海底200mに潜ろうとする場合は、与圧に4日、減圧には最低8日が必要だ。

 飽和潜水は体に負担が掛かる潜水法だが、ダイバーは法令でも守られており、連続して潜水できる期間は28日まで。

 不慮の事故さえなければ、飽和潜水はスキューバダイビングより遥かに安全な潜水方法と言える。もちろん――、不慮の事故さえなければ……だ。


 因みにオイルダイバーは要求されるスキルが高いため、カナダ、フランス、アメリカなど海外の職業潜水学校を卒業し、且つ高い技能を認められた者だけが就ける一種のエリート職業だ。

 矢倉はそのプライドの高いオイルダイバー達のリーダーとして、もう10年以上も現場を指揮していた。


 小笠原での一日目、矢倉は純粋に観光としてのダイビングを楽しむ事にした。まずはスキューバの用具に体を馴染ませたかったからだ。

 矢倉にとっては、潜るポイントなどどこでも構わなかったが、玲子がクジラを見てみたいと言ったので、地元のガイドに訊ねて、父島の東方にある“ドブ磯”と呼ばれるポイントに行く事にした。

 小笠原の1月はザトウクジラが繁殖と子育てに集まる時期で、ここ数日は遭遇できる機会が多いとの事だった。


 二見港奥のとびうお桟橋で、矢倉は予約を入れていたクルーザーに乗り込んだ。そこには矢倉と玲子の他に、計6名のダイバーが先客として乗船しており、皆同じくザトウクジラのウオッチングが目的らしかった。

 船のスタッフからは、港を出ると30分ほどで目的地に着くのだと説明が有り、すぐに全員が潜水の準備を始めた。


 冬の海ではウエットスーツではなく、体が濡れず、中にアンダーウェアを着込むことができるドライスーツが定番である。矢倉はポルトガルでも使用するつもりの、普段使い慣れた仕事用のドライスーツを持参していた。なるべく本番と同じ環境で予行演習をしたかったからだ。


 矢倉の装備は専門業者に依頼して作らせた一品もので、シェルスーツと呼ばれるルーズフィットタイプのものをベースに、要所々々にケブラー繊維やチタン合金を使った凝った作りだった。

 ケブラーは吸湿性が高く、本来は潜水服の素材には向かないが、耐久度を求めた矢倉が敢えて採用したものだった。

 凝っている分、一般のドライスーツの倍ほどの重さがあり、海の上では身動きがとりづらくて、身に着けるのさえ大変だった。


「そっちが着終わったら、手伝ってくれよ」

 矢倉は玲子に声を掛けた。BCDに腕が通せなかったからだ。

 BCDとはベストのような形状の浮力調整装置で、タンクからエアーを送り込む構造になっている。

「ちょっと待ってね、もうすぐこちらは終わるから」

 玲子との会話が聞こえたからだろう、一人の若い男が、矢倉に近づいて来た。


「手伝いましょう」

 その若者は矢倉の後に回ってハーネスを持ち上げ、両腕を通す手助けをしてくれた。

「ありがとう、助かるよ」

「いえ」とだけぶっきらぼうに答えた若者の視線は、矢倉の装備を舐めまわすように動いていた。

 若者はぼそりと一言「職業ダイバーの方ですか?」と矢倉に訊ねた。


「お察しの通りいつもは四国沖で、メタンハイドレードのプラント設置工事をしているよ」

「オイルダイバーですか、すごいですね」

 若者の眼には、あからさまに好奇心の色が浮かんだ。「小笠原には仕事のために来られたのですか?」

「完全なプライベートだよ。仕事で飽和潜水の手順に慣れてしまうと、スキューバダイビングの勘所を忘れてしまうんだ。今日はリハビリに来たようなものさ」

「リハビリなんて――。技能レベルの高いプロから、そんな言葉を聞くとは思いませんでした。今更スキューバダイビングだなんて、先祖返りするようなものでしょう?」


「ちょっと事情があってね。ところで君は随分と若いけど、大学生かい?」

「そうです。冬休みを利用してここに来ています。アルバイトで稼いだお金は、ほとんどダイビング用具とツアー代金に消えていきます」

「そんなに潜るのが好きなのか。インストラクターにでもなるつもり?」

「実は僕もオイルダイバーになりたいんです。もう少ししたら、一旦大学を休学して、アメリカの潜水学校に行きたいと思っているんです」


「物好きだな君は。オイルダイバーはきつい職業だぞ。早い話が海底版の土木作業員だ。分かっているのか?」

「もちろん知っています」


「我々が使う飽和潜水は業務用の技術なので、桁違いに金を掛けられる。海に潜るだけならば、スキューバよりも安全だ。

 しかし作業する現場が現場だけに、ちょっとした事故でもそれは死に直結してしまう。ほとんどのダイバーはその緊張感に耐えられず、大抵は一年も持たずに辞めていくんだ。それでも君はやりたいのか?」

「やりたいですね。ダイバーを職業に選ぶ者なら、その頂点のオイルダイバーを目指すのは自然なことだと僕は思います。それに何よりも報酬が魅力的ですよ」


「分かっていて言うなら、止めないよ。どうせ潜水学校に行くのなら、フランスにすると良い。国立だからカリキュラムもしっかりしているし、設備も最高だ。卒業さえできれば、仕事もすぐに見つかる。

 欠点は入学が難しいことと、講義がフランス語だということ。アメリカの学校は民間なので入るのは易しいが、卒業出来ても仕事を見つけるのが大変だよ」

 矢倉は若者にアドバイスをしながら、次々と装備品を身に着けて行った。


 矢倉の装備には特注のドライスーツ以外にも、他のダイバーと違うものが幾つかあった。フルフェイスのマスクを使う事と、水中での移動に水中スクーターを使う事。そしてタンクに充填してあるエアーがヘリオックスだという事だ。


 通常のスキューバダイビングでは、タンクに圧縮空気を充填する。スキューバを知らない一般人には、往々にしてタンクには、液体酸素でも入っているのかと誤解されがちだ。しかし実際には何のことは無い、自然の空気をコンプレッサーで圧縮して入れているだけだ。


 それに比してヘリオックスは、ヘリウムと酸素から作る混合ガス。コストは掛かるが、潜水深度が30mを越えた場合の、窒素酔い対策に有効だ。窒素酔いは血液中の窒素濃度が高まることで発症するもので、酒に酔った症状に似ており、判断力の低下や方向感覚の失調を招く。多幸感を伴うために『深海の歓喜』とも呼ばれている。


 ここ小笠原では、それほど水深の深い場所に潜る予定はなかったが、ヘリオックスはポルトガルの本番を意識した上での矢倉の選択だった。玲子にも使う事を勧めたが、使い慣れたものが良いと言って、彼女は圧縮空気を選択していた。

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