第二章 メリークリスマス

第3話 アルゼンチンから来た男

――2017年12月23日、10時、ワシントンDC――


 ダレス国際空港で一人の男がタクシーに乗った。

 手荷物はアルミ製のアタッシュケース一つのみで、観光のためにワシントンDCに訪れたので無いことは明らかだった。

 バージニア州道267号に入ると、タクシーは東に向かってスピードを上げた。


 その後ろを付かず離れずの距離で追う、一台の黒塗りの四駆車があった。

 運転席と助手席の間にある車載コンピュータには、タクシーに乗った男の顔写真が表示されていた。


 名前 :モーシェ・ペレス

 国籍 :イスラエル

 年齢 :1980年生まれ、32歳

 現住所:アルゼンチン、ブエノスアイレス

 配偶者:なし

 所属 :モサド(イスラエル諜報特務庁)

 重要度:BB


 助手席側に座る男が、無線機のマイクを手に取った。

、こちら、ターゲットは定刻通り、エセイサ国際空港からの便で到着。空港を出て、タクシーで市街地に向かっている」

――地ネズミ、そのまま尾行を継続。ターゲットの面会者を特定しろ――

「了解、マクレーン」

 助手席の男はため息をつきながら、マイクを元の場所に戻した。


「全く、このペレスって奴は、何をしに来たんだろうな?」

 運転席の男が言った。

「さあな、相手は重要度BBの男なんだから、大した用事じゃないだろう」

「恐らくな。しかし我々CIAは、どんなに重要度が低くても、金魚の糞のように奴に付きまとわなければならない。面倒な事だ」

「そうぼやくなよ。如何にイスラエルが同盟国だと言っても、諜報機関の人間が我が国に入国すれば、マークせざるを得ない。立場が変われば相手だって同じだ。俺たちが死海見物で向こうに行ったとしたら、帰国するまでやつらはくっ付いてくるだろうよ」


「しかし、イスラエルはちっぽけな国なのに、モサドはなぜあんなに優秀なんだろうな?」

「国のあり方が違うからだろう。彼らは軍事力に限界があるだけに、諜報活動が生命線だ。知る権利を盾に、マスコミが幅を利かせる我が国とは訳が違うよ」

「まったく、その通りだな」

「あの国では政府も国民も、モサドを尊重している。モサドのエージェントが任務で命を落とした場合、国が死体の奪還に全力を尽くすのだそうだ。だからこそ奴らも命懸けで諜報活動に当たれるんだろう」

「そんな奴らなら尚更だ。やっかい事は起こさずに、早く出て行って欲しいものだな」

「見たところやつは軽装だ。2日もいれば帰るだろう」


 タクシーは州間道路66号線に合流し、ポトマック川を渡り、ホワイトハウスの3ブロック手前を左折して止まった。そしてタクシーを降りた問題の男ペレスは、は、右手の一方通行道路の歩道を北に歩いて行った。

 黒の四駆車はその半ブロック手前で止まり、助手席の男が飛び出して、早足でペレスの後を追った。赤煉瓦の教会を右手にし、その先の角を曲がれば、ターゲットの背中が見えるはずだった。しかし、そこに目的の男の背中はなかった。


「キャ――」

 突如女性の悲鳴が響いた。その足元には、男がうつ伏せに倒れていた。

 駆け寄って仰向けにさせると、ペレスの顔は、見る見る蒼白になっていった。そして唇の端から小さな泡を吹きながら、何かを伝えようと口を動かした。

「何だ? 何か言いたいのか?」

 声を掛けると、ペレスはか細い声を発した。

「ザ・ビ・ア……が、目を……覚ます……」

「ザビア? 何だそれは?」


 ペレスは息絶えた。状況から判断し、即効性の毒物が使われたに違いなかった。辺りを見回したが、ペレスが持っていたアタッシュケースは見つからなかった。

「マクレーン、ターゲットが殺害された。場所はIMF本部ビルの真南、GStの歩道。死亡時刻は午前10時42分。死体の回収を頼む」

 男は腕時計を確認しながら、無線のインカムに向かって声を上げた。



――2017年12月24日、20時40分、東京、六本木――


 クリスマス・イヴの六本木。矢倉雅樹まさきはリボンの掛かった大ぶりな箱を抱え、浮かれた街の人ごみを縫うように先を急いでいた。腕時計に目を落とすともう21時も近い。約束の時間に二時間も遅刻――。

 高知空港が大雪で、フライトが大幅に遅れたためだ。こんな日に限ってついていない。矢倉には立本玲子の怒った顔が目に浮かぶようだった。


 大通りを右に折れて、人通りのない細い路地を僅かに入ったところに目指す店は有った。そこは元々アメリカ人の住んでいた住宅を改装したフレンチイタリアンのリストランテで、矢倉の馴染みの店だった。

 分厚い木の扉を開き、顔見知りのフロア係にコートを預けると、矢倉は勝手知った店内を奥に進んだ。壁際のテーブルに、スマートフォンでゲームをしている立木玲子たちきれいこがいた。


「ごめん、遅くなってしまって」

 矢倉は詫びたが、玲子は何も答えず、無言で画面をタップし続けていた。

「本当にごめん、怒ってる?」

 矢倉がもう一度詫びると、ようやく玲子は視線を上げた。

「うるさいなあ、ちょうど良いところだったのに。最高得点を出しそこなったわ」

 玲子は矢倉の遅刻よりも、ゲームを中断させられた事を怒っているような口ぶりだった。皮肉のつもりなのだろうが、遅れた事をくどくどと責められるよりはずっとましだ。


「お腹がすいたわ、今日はお店ごと食べちゃいそうよ」

 一言毒づいて気が収まったのか、玲子は軽口を吐いて微笑んだ。矢倉は玲子のこういうさっぱりとしたところが好きなのだ。


「その大袈裟な箱は何なの?」

 玲子が訊いた。

「ああ、これは娘へのクリスマスプレゼント。看護婦のコスプレ衣装だ。将来は医者になりたいそうだ」

 矢倉は床の荷物かごにそれを差し込んだ。


 矢倉には3年前に離婚した妻との間に6歳の娘がいた。元妻は既に再婚しているが、娘とは今でも定期的に会っている。

 矢倉はジャケットのポケットを探り、小さな箱を取りだすと「君にはこれ」と言って、リボンの掛かった小箱を玲子に差し出した。

「何なの?」

「クリスマスプレゼント、――を兼ねた、婚約指輪だ」

 瞬時に玲子は、あきれたと言う顔つきに変わった。


「どうした? 嬉しくないか?」

「あのね、私はあなたと結婚するとは一度も言った事はないし、そもそも、まだプロポーズだってされていませんからね」

「じゃあ、これがプロポーズだ。駄目か?」

「駄目じゃないけど、もう少しやりようがあるでしょう」

「やりようって、何だ? どうすればいいんだ?」

「私達は2か月ぶりに会ったばかり。今日はクリスマス・イヴの夜だっていうのに、まだ乾杯さえもしていないのよ。もっとロマンティックに気分を盛り上げられないの?」

「悪かった、もう一回やろう。その箱、一回返してくれるか?」

「馬鹿、もういいわ。やり直しなんてしたら、それこそ笑い出しちゃうじゃない。これはもらっておくわ」

 玲子は小箱に掛かったリボンを解いた。


「それは、OKってことか?」

 矢倉は不安げに訊ねた。

「本当にデリカシーが無い人ね。OKよ」

 玲子は怒った口調で言ったが、内心まんざらでもなさそうな雰囲気だった。矢倉はほっと胸をなでおろした。


 2人のやりとりを見計らっていたかのように、ウェイターがシャンパングラスを2つテーブルに置いた。矢倉と玲子はグラスを持ち上げると、「メリークリスマス」と言って、チンと乾杯の小さな音をたてた。


 矢倉が料理を注文し終わると、それを待ちかねたように、玲子が口を開いた。

「ところで4か月の休職願いは、受け取ってもらえたの?」

「ああ大丈夫。4か月と言っても、仕事柄、現実に仕事に穴を空けるのはたったの2か月だ。上は随分と渋っていたけれど、駄目なら会社を辞めるといったらなんとか通ったよ」

「無茶をするわね。会社もそれを言われると、認めざるをえないでしょうからね」

  玲子は半ば呆れながら言った。


 矢倉は日本深海開発という海洋工事専門の会社に、オイルダイバーとして所属している。

 日本深海開発は、四国沖でメタンハイドレードの大鉱床が発見され、海底プラントの需要が高まったことを機会に、海難救助や沈没船の引き揚げで知られる日本サルベージの子会社として設立された会社だ。

 そしてオイルダイバーとは、数ある職業潜水士の中でも、資源採掘のプロジェクトに従事する者を指す。


 油田を掘り当て一攫千金を狙う男達をオイルマンと称するが、オイルダイバーはそのひそみに倣った呼称だ。

 世の中の至る所で自動化が進む中、何故危険な深海に生身の人間が行くのかと言えば、誰も行ったことの無い未知の世界は、自動化とは無縁だからだ。予想を上回る困難に立ち向かうには、現場を人間の目で目視して、二本の腕で作業を行う原始的なやり方が結果的には一番効率的なのだ。


 危険な仕事の対価は、高額報酬と長期休暇だ。勤務サイクルとしては2か月間現場に出て、1か月の休みをもらう。矢倉が先ほど玲子に『4か月の休暇に対し、実質休むのは2か月だ』と言ったのは、その休暇を加味しての事だった。


「ポルトガルにはいつ発つの?」

 玲子が訊ねた。

「1月の下旬だ。1月頭には小笠原に行って、予行演習をしようと思っている」

「予行演習って?」

「小笠原の父島沖には、太平洋戦争当時の日本海軍の駆逐艇が沈んでいるそうだ。それを見てこようと思ってね。

 俺は仕事で長年海に潜っているが、レックダイビングはこれまでやったことが無い。本番前に一度経験しておきたい」


 レックダイビングとは、海底に沈んだ難破船や飛行機などの、人工物を探検するダイビングの事を言う。日本ではあまりなじみがないが、欧米では一つのカテゴリーになるほど人気がある。


「それをやることに、どんな意味があるの?」

「ポルトガル沖の目的の場所。そこに何があるのか、今はまだ分からないが、恐らく沈没船ではないかと思う。だから行く前に、似たような状況を経験しておきたいんだ。

 沈没船への侵入はとても危険だ。船内でトラブルが起きても、天井があるのですぐには浮上できないし、海面からの光が届かないから、視界はライトが照らす先だけ。侵入したルートを確実に記憶しておかないと、船の中で迷いでもしたら一貫の終わりだ」


「仕事でもないのに、そんな危険な事をするなんて――、何の見返りも無いんでしょう?」

「そう言われちゃ、身もふたも無いな。何しろポルトガル沖に潜るのは、子供の頃からの夢だったんだ。オイルダイバーになったのだって、いつかそれをやるためだったし――」

「私が言いたいのは、なぜ今それをやらなければいけないのかという事よ。定年後にのんびりやっても良いじゃないの?」

「ダイバーは過酷な仕事だ。脂が乗っている時期は、そんなに長くない。自分の能力に一番自信があるときにやっておかないと、後悔することになるんじゃないかと思ってね。それに君とも結婚するのだから、危険な事はそれまでに済ませておかないと」


「あなたはどうせ、止めたって聞かないわよね。でも私にはやっぱり理解できないわ。が全ての発端でしょう? それって、そんなに大事なものなの? あなたをダイバーの道に進ませて、しかも命を懸けさせる程、大切な事が書いてあったとはとても思えないわ」

「俺自身も、何故自分がここまでそれに拘るのか、理由がわからないよ。まあそれでも、これまでずっと思い続けてきた夢みたいなものなんだから、最後までやらせてくれよ。これが終わったら気持ちを切り替えて、家庭を最優先するからさ」


 矢倉は玲子をなだめるように言った。



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