第4話 天翔る炎
――2017年12月24日、7時15分、ワシントンDC沖――
どんよりと垂れ込める雲が朝日を遮っているため、ワシントンDCはまだ薄暗かった。
バージニアビーチの東方300㎞、アメリカ合衆国の排他的経済水域370㎞のやや内側のうっすらと靄がかかる冬の海に、ゆっくりと一つの黒い塊が浮上した。
優に100mを越える巨大で細長いその塊には、中央部に明らかに、周囲より高く突き出した場所があり、やがてその付け根の部分にある大きな丸い蓋が横開きすると、中からは数人の男達が現れた。
蓋の奥の円筒状の空間には、ずんぐりとして先端の尖った円錐状の黒い物体が横たわっていた。男たちは声を掛けあいながら、その円錐状のものを蓋の外に引き出した。
それは二本のレールの上を転がる台車の上に乗っており、長さは14mほど。後方には4枚の台形の羽が付いていた。完全にその台車が蓋の外に出ると、側面から2本のアームが起き上がり、円錐状のそれを、ほぼ垂直な角度に持ち上げた。
男達は屹立した円錐形を見上げて何やら言葉を交わし、すぐに円筒状の空間に戻って行った。横開きしていた丸い蓋は、それを待っていたかのようにゆっくりと閉じた。
程なくして4枚の羽の下からは、白い蒸気がゆらゆらと立ち上り始めた。そして次第に密度を増したその蒸気の奥に、オレンジ色の炎が僅かに瞬いたかに見えた瞬間、周囲は爆発的に巻き起こった灰色の煙で覆われた。
円錐状の物体はゆっくりと上昇を始めた。そしてすぐに速度を増したそれは、たった今まで自分に纏わりついていた煙を置き去りにして、白に近い黄色の長い光の尾を引いて、遥か上空へと駆け上がって行った。
――2017年12月24日、23時05分、東京、六本木――
食事をすませた矢倉と玲子は、リストランテからほど近いホテル・グランドハイアットまで歩いた。矢倉のマンションもそこからそれほど遠くないが、何しろ高知から戻ってきたばかりなので、まだ部屋の掃除もしていない。
折角の再会だし、ホテルで過ごそうという事になったのだ。矢倉と玲子は、6階のバーで一杯だけカクテルを飲んで、すぐに部屋に入った。矢倉が先にシャワーを浴びて、入れ替わるように玲子がバスルームに消えた。
矢倉は冷蔵庫からビールを取り出すと、TVを点けてベッドにもぐり込んだ。
矢倉は人生の3分の2を海底か船上で過ごす身なので、決まって見ている番組などない。ニュースでも見ようと思ったが、深夜帯ではどこもやっていない。仕方なく、面白くも可笑しくも無い、視聴者参加番組を流しっぱなしにしていた。
不意に、――キンコン、キンコン――という甲高い電子音と共に、TV画面の上方に、臨時ニュースのテロップが流れ始めた。
『ギリシャのデフォルトが確定的。日本時間の未明より、IMF国際通貨基金が会見』
「遂にデフォルトか」
矢倉は呟いた。もう何年も前からギリシャの経済破たんが取りざたされてきたが、その都度小手先の救済措置で延命をしてきたのだ。今更驚きはしない。
その時、玲子のバッグの中でスマートフォンの着信音が鳴った。今頃誰だろうかと訝ったが、玲子の職業柄良くある事だ。もしかすると、先程の臨時ニュースが関係しているのかもしれない。
玲子はフリーアナウンサーとして、そこそこに名が知られた女だ。3年前に局アナから独立して以来、国際経済に強いと言う評価を得て、報道番組からよく声が掛かる。特に年配の男性には人気があり、週刊誌ではオヤジキラーの異名を授かっていた。
著名な経営者や政治家にまで、彼女のファンを自認する者がいるほどだ。矢倉が玲子と知り合ったのも、彼女が経済番組の取材で、矢倉の仕事現場に訪れた事が切っ掛けだった。
因みにかつて彼女が所属していたTV局は、このホテルと同じ敷地内にある。
玲子の電話はその後、何度も繰り返し着信した。2分置きに掛かってくるしつこさだったので、矢倉は玲子にスマートフォンを持って行ってやった。
玲子は電話をすませると、すぐにバスルームから出てきた。
「どうしたんだ?」
矢倉は訊いた。
「ギリシャのデフォルトの臨時ニュース見た?」
「ああ、さっき流れていたよ」
「明朝4時から特番を組むので、来てほしいって」
「そんな時間に?」
「ごめんね、金融関係に強い女子アナがだれもつかまらないらしいの。本当は断りたかったんだけれど、すぐ隣の古巣から、元の上司に頼みこまれたら厭だと言えなくて」
「IMFの本部はワシントンDCだったな。あっちは24日の午前9時を回ったところか。クリスマス・イヴの朝に重大発表をするというのは、何だか作為的だな」
「クリスマス休暇で少しでも皆が注意を削がれている隙に、やっかい事を済ませてしまおうという魂胆よ。向こうではニューイヤーまで続けて休む人も多いし、好都合なのよ」
「政治家が考えそうなことだな」
「逆に考えれば、そうしなければならないほど、今回は重大な出来事だとも言えるわ」
「まあ、大事な番組に呼ばれるのは玲子にとって悪い話じゃない。もう行くのか?」
「3時に行けば十分よ。局にもさっき第一報が入ったばかりなので、状況の整理がまだついていないそうよ。情報が全て揃って、スタッフィングが固まってからでも間に合うわ。私はメイクにも時間を掛けないし」
「いつの間にか、君も大物になったんだな」
矢倉は素直に驚いて見せた。
「そんな事より、二人きりの時間が短くなってしまったわね」
玲子はバスローブの腰ひもを解いて、矢倉の横たわるベッドにするりと滑り込んできた。
矢倉はサイドテーブルに手を伸ばし、部屋の灯りを少しだけ暗くした。
――2017年12月24日、8時05分、ホワイトハウス――
いつものように家族と共に朝食を済ませたマシュー・カワードは、寝室に戻って、妻がこの日のために新調してくれたルイジ・ボレッリのワイシャツに袖を通した。大事な日に、新しいシャツを下すのは、もう30年以上も続いている自分なりのゲン担ぎだ。
あと1時間もすれば、ここホワイトハウスから目と鼻の先のIMF本部で、待ちに待った記者会見が行われる。金融の仕組みを根底から変えることになるだろうその発表は、瞬時に世界を駆け回るに違いない。
他ならぬ自分こそが、その仕掛け人だ。
ふと正面にある大きな鏡を見ると、そこには真新しいシャツ着て白い歯をむき出しにした、自信に満ちた男の顔が映っていた。
我ながら、こんな嬉しそうに笑う自分の顔を見るのは初めてだ。大学院を首席で卒業した時、上院議員に初当選した時、民主党の大物議員の娘を妻に迎えた時、二人の子供が生まれた時――、記念写真の真ん中にいる自分は、どれもこれも晴れ晴れしい笑顔だ。しかし、今日ほど心の奥底から湧き上がる喜びに突き動かされたことはなかった。
昨年、共和党候補との熾烈な選挙戦に勝ち抜き、合衆国大統領に就任した時でさえもだ。
向こう3年以内に――、そう、確実に自分がまだ大統領に在任している間に――、合衆国は世界の金融を名実ともに牛耳ることになる。今や経済こそが、世界を支配する直接的な力。容易に行使できない軍事力など絵に描いた餅だ。
我が国は金融の支配によって、世界で並ぶもののない超超大国になる。それは合衆国による世界支配と言い換えても良い。合衆国こそが世界を律する唯一の力であり、合衆国による絶対的な支配によって、はじめて人類は、紛争の無い安寧な世界を手に入れる事ができる。それは合衆国の国民だけに止まらず、世界中の人々に遍く恩恵をもたらすに違いない。
今日は合衆国と世界にとって偉大な記念日だ。自分の名は後世まで語り継がれるだろう――。カワードはまるで、今にも世界に君臨したかのような高揚感に浸りきっていた。
不意に、コン、コンと寝室のドアをノックする音が聞こえた。
「あなた、クララが大至急、話があると――」
妻の声に、カワードは我に返った。
カワードがリビングルームに行くと、そこにはクララ・ブレイク首席補佐官が待ち構えていた。女性としては初めての首席補佐官であり、最も信頼する政策アドバイザー。
疑う余地も無い自分の右腕だ。この日ブレイクは、いつものように細めのスーツをセンス良く着こなしていた。
但し、かつて見た事も無いほどの蒼白な顔で――
「どうした、クララ?」
「大変です、大統領。ワシントンDC近郊に、先程ミサイルが撃ち込まれました」
「何だと! 一体いつだ?」
「今から約10分前です。幸い沿岸部の森林に着弾しましたので、被害は小規模な山火事程度です」
「どこから飛んできた?」
「近海に浮上した潜水艦から発射されたようです」
「どこの国の潜水艦だ?」
「まだ分かりません。これから衛星画像の解析が始まります」
「首都にミサイルを撃たれて、相手も分からない?」
カワードは声を荒げた。「クララ、あと1時間で会見が始まるんだぞ。こんな状況で“あの計画”を発表しろというのか?」
「大統領、残念ですが、会見は延期せざるを得ないかと――」
「延期だと! ふざけるな、本日の会見に照準を定めて、周到に準備を進めてきたんだ。君も“あの計画”に賭けてきた同士だ。良く分かっているだろう。これまで根回しをしてきた関係各国にどう説明する気だ? 我が国の信用が丸つぶれだ」
「今は体面など考えている場合ではありません。これから第2波、第3波の攻撃がくる可能性もあり、へたをすれば戦争です。そちらに神経を集中すべきです」
カワードはブレイクの言葉に、ギョッとしたような表情を見せた。
「戦争だと?」
「可能性は十分あります。相手がテロリストなのか、国家なのかまだ分かりませんが、これが宣戦布告だとすれば、正体が分かりしだい、我々は報復するしかありません。
現在、空軍はF22ラプターをスクランブル発進させ、更に対潜哨戒機P8が、周囲を探索しています。海軍のイージス艦も現場海域に向かっているところです」
「宣戦布告……、合衆国に……、ふ・ざ・け・る・な!」
カワードは怒りに震えながら、両の拳でテーブルを叩きつけ、勢いに任せてマホガニーのサイドテーブルを蹴り飛ばした。
乗っていた磁器製の大花瓶は、ぐらりと揺れると床に落下して砕けた。カワードの瞼は大きく見開かれ、眼球には毛細血管が浮いて見えた。
「落ち着いてください。大統領」
ブレイクがカワードを抱きかかえるようにして、ソファーに仰向けに寝かせた。
「何故今日なんだ! よりによって、こんな大事な日に……」
カワードは体を小刻みに震わせながら、うわ言のようにつぶやいた。既に目の焦点は合っておらず、その震えは次第に大きくなった。
「医務官をリビングルームに! 大至急!」
ブレイクは内線電話を取り上げて、叫んだ。
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