第2話 今生の別れ

「矢倉、艦長の願いを叶えてくれ。それは皆の願いでもある」

 二卓の筆頭に座る機械長が、矢倉に声を掛けた。


 機械長は搭乗員の躾にはめっぽう厳しい男だが、その反面で父親のように暖かい心の持ち主だった。死ぬ運命にある矢倉にも、他の搭乗員と変わらず厳しく接し、時には鉄拳を見舞った。

 矢倉は機械長の頬を伝わる一筋の雫を見た。


「お前は、本当は、医者になりたかったのだと言っていたな?」

 機械長に代わって矢倉に語りかけたのは軍医長だった。兵士然としておらず、ひょうひょうとした人柄は誰からも愛され、矢倉はとりわけこの軍医長に心を許した。

 艦内でとりたてて役割を持たない矢倉は、軍医長が暇をしているのを見つけると、決まって部屋を訪れては医学の講釈を受けていたものだった。


「はい軍医長、医者は子供の頃からの夢でした」

「戦争は罪なものだ。医者を志していたお前の将来を捻じ曲げて、飛行機乗りとなるべく予科練に進ませた。しかもそれだけでは飽き足らず、今度はお前から空を飛ぶ夢までも奪い、人間魚雷の搭乗員に仕立て上げた。矢倉よ、もしも生き延びることができ、そしてもしも許されるなら、今度こそお前は医者を目指せ」


「軍医長、自分は国のために死ぬ覚悟で……」

「もう良い、矢倉」

 機械科分隊士が矢倉の言葉を制した。

「その守るべき国も、もうじきに亡びるのだ」

 矢倉は士官室にいる皆が既に同じ覚悟を持っている事を悟り、返す言葉を失った。


「艦長、バッテリーの容量が低下しています。爆発の衝撃で硫酸が漏れ出しているようです」

 後部ハッチ奥の発令所から、声が響いた。

「艦長、シュノーケルを上げて、ディーゼルエンジンに切り替えましょう」機関長が艦長に進言した。

「いや駄目だ、この海域は連合軍の制海下にある。シュノーケルの航跡は、敵に発見される恐れがある」

「しかし……」

「構わん、どうせ戻りの無い道だ。ありったけの補助電源を投入し、進めるだけ進め」

「分かりました、補助電源投入します」

 機関長は艦長の指示を復唱し、「補助電源投入、進路そのまま」と伝令管に叫んだ。


「矢倉、今聞いた通り、本艦には余裕が無くなった。早くしないと海龍改の発進も出来なくなる。急げ」

 先任将校はそう矢倉に告げると、伝令管に向かい「海龍改の発進準備急げ」と大声を発した。


「矢倉、これは本艦の自沈予定地点だ」

 矢倉に歩み寄った航海長が小さなセルロイドの板を手渡した。その表面には、針で引っ掻いたように、緯度と経度が書き記されていた。


「この海域の水深は70m程だ。今の技術ではとても潜水夫が潜れる深さでは無い。しかし時が経てば、いつかそれは可能になるはずだ。本艦の積荷は、極め付けの重要物資だそうだ。

 よって我々はそれをいささかの毀損も無きように、海底に沈めることとした。お前だけがその場所を覚えておけ。後のことは託す」

 航海長はそう言った後、「そこは俺たちの墓場でもある。いつか墓参りにでも来てくれ」と笑った。


「矢倉、海龍改にはリーム博士も乗せていけ」

 艦長が言った。

 リーム博士は積荷の責任者として、ノルウェーで艦に乗り込んできた若いドイツ人化学者だった。名前はクサヴァー・リームと言った。


 矢倉は覚束ないドイツ語で、リーム博士とよく話をした。彼はまだ24歳で、矢倉より僅か3歳年上なだけだった。リーム博士は矢倉に、自分のことはクサヴァーとファーストネームで呼んでくれと言った。

 矢倉とクサヴァーの心には、いつしか強い絆が生まれていった。それはこの二人だけが、伊220を仮の住まいとする異質な人間であったからだろう。

 クサヴァーはナチスの命を受け艦に乗り込んだ異邦人であり、矢倉もいつか死にゆく運命を負った異邦人であった。


 矢倉にドイツ語の心得があったのは、医者になりたい一心で、子供の頃からドイツ語の勉強をしていたからだ。矢倉が零号作戦に選抜されたのも、それが要因の一つだったのかもしれない。


 矢倉は艦長の先導で、艦の後方に移動した。そこには貨物室が有り、その更に上の甲板に海龍改が固定されていた。両脇に迫る貨物の間に作られた、狭い通路を歩きながら、航海長が矢倉の肩に手を回して声を掛けた。


「矢倉、ここから真東に200㎞進めば中立国のポルトガルだ。海龍改は潜航したままでは70㎞の航続距離しかない。行けるだけ行ったら、後は浮上してディーゼルエンジンで航行しろ。敵に見つかればお前も自沈しなければならない。上手くやれよ」

「はい、わかりました」


「くれぐれも陸地には近づきすぎるなよ。10㎞ほど手前になったら、艦を浸水させて沈めろ。それから先は泳ぎだ。お前は練兵訓練で慣れているから大丈夫だ。リーム博士を助けてやれ」

「はい」

 矢倉は頷いた。


 更に貨物の間を縫うように進むと、艦の上方に向かう細い垂直ラッタルが見えてきた。その上の甲板に固定されているのが海龍改だった。ラッタルの脇には、リーム博士が従兵と共に待機していた。


 矢倉が垂直ラッタルの前まで進み出たとき、不意に後方にいた機械長が駆け出して、脇に有る木箱に手を当てた。

「艦長、よろしいですか?」

 機械長が訊ねると、艦長はゆっくりと首を縦に振った。


 機械長は艦の壁面に固定されている金属の工具箱から、腕の長さ程もあるバールを取り出し、釘で打ちつけられた木箱の蓋の部分にねじ込むと、体重を掛けてこじ開けた。そこには金貨が入っていた。

 機械長は、無造作にそれを掴むと、2つの丈夫な皮の小袋に入れ、1つずつを矢倉とリーム博士に差し出した。


「矢倉、使いの駄賃だ。陸に上がった時に、役に立つのはこれだけだからな」

 機械長は笑顔を矢倉に向けた。矢倉がその金貨を取り出してみると、美しい女性の横顔が刻印され、その上にヘルベチア(HELVETIA)という文字があった。裏をめくると100FRとあり、その上には十字の紋章があった。

 スイスフランの硬貨なのだろう。機械長は使いの駄賃だと言ったが、矢倉にはそれが、これからの船出のお守りのように思えた。


 矢倉は先に垂直ラッタルを登り、交通筒を通って海龍改に乗り込むと、後に続くリーム博士を上から手助けした。

 ハッチを閉めようとハンドルに手を掛けた時、下から一人の男が上がって来た。炊飯長だった。

 炊飯長は「矢倉、道中、腹もすくだろうからこれを」と、ズタ袋を矢倉に差し出した。

「お前の好きだった五目飯の缶詰だ。出陣の門出だから赤飯の缶詰も一緒に入れといたよ。リーム博士のためには、ライ麦パンとソーセージの缶詰だ。サイダーと水筒も入っている。腹が減ると心細くなるからな。しっかり食って、しっかり務めろよ」

 炊飯長はそれだけを言い残すと、矢倉が礼を言う前にラッタルを下りて行った。


 矢倉は交通筒の下に見える艦長の顔をまっすぐに見つめた。艦長はゆっくりと敬礼をした。慌てて矢倉も敬礼を返した。そしてハッチを閉じると、水密ハンドルを力いっぱい回した。


 矢倉は操縦席に座ると、小さな電球が照らす艦内で、体に浸み込んだ出撃準備を一つずつ行っていった。本来ならば、それは自分が死に赴く手順だった。しかしこの時矢倉が行ったのは、皆を置き去りにして自分だけが生き残る手順であった。矢倉の目からは涙がとめどなく流れた。


「ハッチよし、電動縦舵機よし、水平翼よし、深度計よし、方位計よし、特眼鏡よし、燃料計よし、充電一杯異常なし」

 最後に矢倉は、操縦席の後にうずくまるリーム博士に「クサヴァー行くよ。何かにつかまっていて」と声を掛けた。

 そして電話機を取り上げると、司令塔に向かい「艦内異常なし、出撃準備完了」と告げた。


固縛こばくバンド外せ」

 指令塔でスピーカーから流れる矢倉の声を確認した艦長は叫んだ。

「固縛バンド外しました」

 足下の発令所から復唱が聞こえた。


「矢倉、達者でな」

 艦長は電話機に向かい、最後の言葉を掛けた。

「はい艦長、必ず、必ず生きのびてみせます。皆さま、ご恩は決して忘れません。さようなら」


「海龍改発進!」

「海龍改発進します!」


 乾いた衝撃音を狭い艦内に響かせながら、海龍改は薄暗い海の中に飛び出して行った。


――第一章、おわり――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る