第一章 遠い昔 ~大西洋の某所にて~
第1話 暗い海の底で
――1945年3月25日(昭和20年)、ポルトガル沖――
耳元にコンコンという硬い音が響き、「失礼します」という声と共に、布のカーテンがさっと横に開いた。
「矢倉小尉、士官室で艦長がお呼びです」
寝台に寝転ぶ、矢倉
従兵は突起物の多い狭い潜水艦の通路を縫うように、小走りで矢倉を船首の方向に先導した。ラッタルを登って一つ上の区画に上がり、横向きに開いたハッチをくぐったその先が士官室だった。
「矢倉小尉、参りました」
矢倉が敬礼をしたその先には、2つの卓に艦の士官達が腰かけていた。一卓には艦長を筆頭に、先任将校、機関長、航海長、そして機械科分隊士が、二卓には機械長、電機長、暗号長、軍医長がいた。皆、黙しており、その顔は何かの決意を秘めているように見えた。
「座れ、矢倉」
入口近くに座る軍医長が矢倉に声を掛け、空いている椅子を目で指した。矢倉は「遂に、来たるべき時が来た」と心中で覚悟を決めた。
「本艦で2時間ほど前に事故が起きた」
先任将校が口を開いた。
「はっ、先程爆発音を聞きました。音源は敵の機雷ですね。いよいよ私の出番という事でしょうか?」
「そう結論を急ぐな、矢倉」先任将校は矢倉を諭すように言った。
「出撃では無いのですか?」
「あの音は機関室からのものだ。右舷プロペラシャフト付近で、原因不明の爆発が起きた。本艦は現在片肺で航行中だ。大幅に推力を失っており、最早目的地までの航行は不可能だ。機関長の見立てでは破損が大きく、船内の補修部品では修理も出来ない」
「親枢軸国のスペインまで引き返して、修理を行っては如何でしょうか?」
「いや、それはできない。本艦の積荷はマル特付の機密物資だ。零号作戦では、いかなる理由が有ろうとも指定された港以外への寄港は許されない。ノルウェーを出港した今となっては、我々が陸に上がれる場所は、目的地のアルゼンチン以外にない」
「それでは、どのように……?」
「本艦は自沈することに決定した。ここにいる皆の総意である」
「自沈――、でありますか……」
「矢倉小尉、貴様は直ちに海龍改に乗り、本艦から脱出するよう命ずる」
先任将校の声は、決然としていた。
「お待ちください、先任将校。私もお供をさせてください」
「ならん。本決定は、本艦の最優先事項である」
「私だけが逃げ出す事はできません。何卒ご翻意を」
矢倉は食い下がった。
矢倉は特攻隊員として、人間魚雷回天の操縦訓練を受けた男だった。菊水隊と命名された特攻の初陣部隊に選抜されていたものの、出撃当日に突如舞鶴鎮守府への異動を命ぜられ、そして今、この艦に搭乗している。
現在の矢倉は有翼特殊潜航艇、海龍改の搭乗員である。海龍改とは、二発の魚雷発射が可能な2人乗りの小型潜水艇、海龍を、1人乗りに改修したもので、魚雷を発射した後は、自らも帰還することなく、敵艦に体当たりをする構想で開発されたものだった。
操舵のために飛行機のような翼が付いており、爆撃機から流用された操縦桿で操船を行う先進的な設計は、生え抜きの潜水艦乗りたちからは、癖が有って乗りにくいと言われ、評判が振るわなかったが、矢倉はそれを見事に乗りこなしていた。予科練出身の矢倉にとって、それはささやかな誇りでもあった。
矢倉が配属を命ぜられたのは、日本帝国海軍の最新鋭潜水艦・伊220。高速な水中行動性が特長の艦であったが、戦況の悪化が極まる中、ただの一度も攻撃任務に就くことなく、潜水輸送艦に改装されていた。
伊220は敵艦との交戦は行わないとの想定で、より多くの貨物スペースを確保するために、魚雷の発射装置が全て取り外されていた。そして万が一、敵の駆逐艦に発見された場合の唯一の反撃武器として、海龍改が船外に積まれていた。
矢倉の役割は、自らの命と引き換えに敵艦から伊220を守る事であった。その存在は、伊220の搭乗員と言うよりも、艦に搭載された誘導魚雷の一部だと言ってよかった。
矢倉と共に回天の搭乗訓練を受けた仲間たちは、既にカロリン諸島のウルシー環礁で特攻を遂げ、軍神となっているはずだった。むざむざ自分だけが生き残ることは出来ない――、矢倉の願いはただ一つ、仲間に恥じない死であった。
「よく聞け、矢倉」
それまで目を瞑ったままであった艦長が、不意に口を開いた。矢倉は艦長の顔をまっすぐに見つめた。
「お前は伊220を守るためにこの艦に配属された。しかし本艦は自沈しなければならない。最早お前が守るべき艦は存在しなくなる。即ち、お前が果たすべき任務が無くなったという事だ。我々と共に自沈するのは、お前の役割ではない」
「艦長は私に、戦場から逃げ出して生き恥をさらせと仰るのですか? それでは自分は、あの世で待つ仲間に合わせる顔がありません」
「言うな、矢倉!」
「……」
矢倉は艦長の強い語気に、押し黙るしかなかった。
「矢倉、お前に頼みたいことが有る」
「頼み――、とは?」
やや間を置いてから、艦長は先程とは打って変わった、柔らかな声で矢倉に語りかけた。
「我々は永野修身元帥の英断で発令された、零号作戦の命を負いこの海域に来た。今更言うまでもないが、敗戦が確実なナチスドイツによる、第四帝国建国を支援する目的だ。それはやはり近く敗戦を向かえるであろう、我が日本の国体を守るための保険でもある。しかしそれは――、我が日本にとって、本当に正しい道であるのだろうか――、私はノルウェーを出港して以来、疑問に感じている」
「艦長、それは――、今回の作戦自体を疑問視されているということでしょうか?」
矢倉は艦長の言葉に、驚きを隠せなかった。下された命令には絶対服従が、軍人の務めだからだ。
「軍令部の命令に異議を唱えるのかとでも言いたそうな顔だな、矢倉よ」
艦長は笑みを浮かべた。矢倉は図星を突かれて恐縮せざるを得なかった。
「もちろん、命令には従う。大日本帝国に捧げたこの命だ。艦の乗員は皆覚悟の上でこの艦に乗っている。しかしな、矢倉、私はこの艦の乗員が不憫でならんのだ」
「不憫とはどういう事でしょうか?」
「私は自分の信ずるもの――国や家族――のために体を張る事は、何ら厭わない。この作戦で日本が救われるのであれば、喜んで命を差し出そう。だがな、矢倉よ。この作戦は断末魔のナチスドイツの、ほんの一握りの特権階級に、わずかな恩を売るに過ぎないのではないか。――そう思えてならない」
「何故、そう思われるのでしょうか?」
「大義だよ、矢倉。連中の行動に大義が感じられないのだ。ナチスの奴らは何故危機に瀕した国を捨てて、遠い土地に新しい帝国を建国しようとしているのだ?
たとえ敗戦国の汚名を着ようと、戦争で荒廃した国土を、歯を食いしばって復興しようするのが筋だろう。第四帝国が樹立され、そこが栄えればそれで良いのか? 新しい国土に迎え入れられなかった国民は捨石か?」
「艦長は第四帝国の意義を問われているのですか?」
「違う。私は自分に確信が持てない行動のために、部下を道連れにすることが我慢ならないだけだ。
この艦に乗る者全員が、家族にも仲間にも行先を告げず、もちろん今生の別れを告げる事もなく、秘密裡にここまできた。舞鶴を出た時点で、我々の軍籍は行方不明者となっている。
戦死者名簿に載ることも無いだろう。ただの行方不明者として、或いは脱走者の汚名を着たままで、いつか人々の記憶から消えていくのだ」
「艦長は自分に何をやれと仰っているのでしょうか? 艦長の頼みとは一体……」
「命令に従ってくれ、矢倉。この艦を出て生き延びろ。我々のやろうとしたことには意味があったのか、それともただの犬死だったのか、お前にどこかで見届けて欲しい」
「出来ません。自分だけが生き残る事など、決して……」
「お前にとっても楽な道では無い。この艦に乗ったが最期、日本に帰る事はもう許されないのだ。生き延びたとしても、見知らぬ土地で、全く別の人間として生き抜いていかねばならない。
普通の者にはとても耐えられないだろう。死ぬための訓練を受け、この艦で毎日死ぬ時を待っていたお前でなければできない事だ」
艦長の言葉は堅い決意を秘めていた。矢倉にはそこに、些かの精神の揺らぎも感じとれなかった。
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