6、池野空太の空転

 なんだか、ずいぶん長い一日だった気がする。

「はあ」

 自宅の自室。ベッドに横になって、池野空太は風宮深美から貰った小瓶を眺めながら、ため息をつく。帰路もずっと手の中に持っていて、帰宅してからもトイレと風呂と食事のとき以外は、ずっと飽きずにそれを見ては、今日のことを思い出していた。

「風宮の……」

 呟いて思い出すのは、深美の素顔だ。ハナスイを垂らした顔も、恥ずかしがって赤くなっている顔も、今まではマスクと長い前髪の下に隠れて、一度も誰も目にしたことのない表情だ。優しげな目を飾る長い睫毛や、直毛の黒髪と好対照の白い滑らかな肌。

「はあ。なんか、やっぱ」

 信じらんねえなあ、という後半は声に出さす、空太は寝返りをうった。ハナスイバー・シャリアを出てほどなくして、威勢の良かった血流も落ち着き、今はなんともない。けれど、どうにもあの味が思い出されてならない。深美の生き生きした表情や仕草のひとつひとつが、頭から離れない。もう一度味わいたいだけなら、今手にしている小瓶を開ければ良いのだけれど、これを空にしてしまったら、もう二度と彼女に会えないような気さえする。学校の教室で会う風宮深美ではなく、素顔の彼女には。

「ああーもー」

 どうすりゃいいんだ。思えば思うほどに、深美の鼻筋と柔らかそうな唇の間に、ふた筋流れるハナスイの光景が脳裏に鮮やかに甦ってくる。あれを今日、自分は飲んだのだという事実に辿り着いては、ベッドの上で空太はなんだか恥ずかしくなる。女子の身体から出てくる液体は、あんなに美味しいものなのだろうか。そう考え過ぎては、あれは風宮の体質だからで、他の普通の女子は違うはずだ、と自分を説得する思考のループを何周かしてから、また深美のいろんな表情を思い出して、彼女のハナスイの味に思いを馳せる。そうこう悶々としているうちに、空太はやがて眠りについていた。起きるまで手の中の小瓶を手放すことはなかった。


 翌朝、空太はシャリアの小瓶をカバンに入れて家を出た。昨日は深美にハナスイを飲ませて貰ってからずっと、喉が渇くことも無かったが、今朝はちゃんと水筒をいっぱいにしてある。深美のハナスイの小瓶は、いざという時までとっておくことにして、空太はそれをお守りのような気持ちで、大事にカバンへ入れておいた。

 空太の通っているU県立の永見高校は、普通科のみの共学で、全く何の変哲もないただの高校だ。進学校でもなければ荒れていることもない。そのぶん生徒の活動への制限は緩く、部活もバイトも申請すれば大抵はすぐに許可される。空太の所属する飲料部も、入学してその存在を知ったときには、よくそんな部活が認められているなあと思ったものだ。もっとも、そのおかげで脱水症状を起こしがちな体質の空太でも、頻繁に水分補給をする言い訳が立つので助かっている。

「とおう」

 急に真横に自転車が停まったかと思いきや、可愛らしい掛け声とともに空太の頭は、ふわりと制服の腕に絡め取られる。弾力のある柔らかいものが片頬に押し付けられて甘い匂いが鼻から肺いっぱいに満ちた。

「をはをうごりゃいまふ、せんはい」

 自転車で横付けした飲料部の先輩に抱きつかれて発音が曖昧になった朝の挨拶をしながら、空太は放してくれと伝えるために、首に巻かれた腕を軽くたたく。

「おはよう、池野くん。なんかボーっとしてる?」

 空太の意思表示に全く気付かないまま、のんびりとさえいえる口調で訊ねてくる。本人としては肩に腕をかけているだけのつもりなのだろうけれど、むにむにと当たる柔らかい身体は高校生男子の空太にはつらい。たまに徒歩通学の空太に追いついてきては、愛玩動物にするようなコミュニケーションを仕掛けてくる彼女は、二年の那須なす立佳りつかという。

「放してくらはいよ、なすせんはいぃ」

 情けない声を出すと、えへへ、と笑いながらようやく立佳は身体を離してくれる。柔らかい笑顔は崩さないまま、優しく空太に注意した。

「池野くん。わたしが苗字好きじゃないの知ってるでしょ?」

「ああはい、すんません。立佳先輩」

 ひと息ついて訂正する空太の頭をゆるゆると撫でながら、よろしい、と満足げに立佳は頷く。弟ふたりに妹ひとりという兄弟の一番年上の姉だからと言って立佳は、空太のことも弟のひとりであるかのように可愛がっていた。

「で? どうしたの?」

「や、特にどうっていうことは」

 頭上に置かれた立佳の腕を捧げ持つようにしてそっとどけながら、空太は誤魔化す。深美のことは、秘密にする約束でもあったし、そうでなくても何だかこの先輩には言いにくかった。

「ふうん」

 ぱちりと大きくひとつ瞬きをして、立佳はとりあえず納得したらしい。片手を胸元に置いて、いつもの優しい微笑みを向けてくれる。

「なんでも相談にのっちゃうよ。お悩みあったらね」

「あ、はい。そんときは、ぜひ」

 どうでもいいけど、ただでさえ制服を押し上げるボリュームが、そんなポーズをすると余計に目立つ。視線を先輩から進行方向へと逸らしながら空太は、そんなことを考えつつ応じた。学校へと、続きを歩き始めると、立佳は自転車に跨ったまま、爪先で地面を蹴っては進んで、空太と前後しながら同行する。

「立佳先輩、先に行ってもいいんですよ?」

「あれ? 一緒ダメ?」

 少し先から小首を傾げて空太が追いつくのを見ながら、立佳は訊ね返す。

「や、そゆんじゃないですけど」

 答え終わる頃には空太は立佳よりも二歩ほど先に進んでいる。その脇を、爪先で地面を蹴った立佳が自転車で、ついーっと、また少し先行した。

「じゃあ、何か話しながら行こうよ」

 もういちど同じように小首を傾げながら先輩の笑顔が振り向く。

「何かって何です?」

「うーん。じゃあ、文化祭で、部で何するか」

 追いつく空太に向けて立てた人差し指で彼の動きをなぞるように、ひねった身体を戻しながら立佳は提案した。

「部でも何かやるんすか?」

「でも、ってことは、クラスで何かやるの?」

「まだ決まってないですけどね」

 空太のクラスの出し物候補の四択を説明しながら歩いてゆくと、校門まであと少しのところで、道の向こうに風宮深美の姿が見つかった。

「あ」

「ん?」

 思わず声を出した空太に、立佳の疑問が投げかけられて、

「すんません立佳先輩。先に行きますね」

「はーい。また部活でねー」

 小走りになった空太を送って小さく手を振りながら立佳は、姉の気分として弟分の話しかける女子が誰かをちゃんと確かめておいた。


「風宮ー」

 追いつきそうなところで軽く呼びかけて、空太は深美に並ぶ。横顔を覗き込むと、やはりいつも通りの長い前髪とマスクで、表情は分からなかった。

「えっと、風宮?」

 無反応に変わらず歩いていく深美に、もういちど呼びかけてみるが、空太を無視するように全く応えない。昨日の感じだと嫌われているとかじゃあ、なかったと思うんだけど。

「その、あれ。昨日は、ありがとう」

 目の錯覚かな、と疑うような微かな頷きを返してくれたような気がして、空太はとりあえずひと安心した。実は嫌われてるとかだったら、悲しいから。

「風宮のくれた瓶の、大事に飲むから」

 今ここでハナスイという単語を口にすることは、なぜだか躊躇われて、とりあえず深美にだけ通じるように空太は小声でそう伝えた。すぐに深美からの反応は、やはり無いままで、そのうちふたりの歩みは校門の直前に至る。そこで、

「いいから」

 と深美が急に言い、ようやく会話になったと空太が喜んだ途端、彼女は小走りで先に学校へと入っていってしまった。

「学校じゃ、あんまり話しかけないで」

 という言葉と空太を置き去りにして。

(どういう意味なんだ?)

 残された空太は惰性で数歩進み、学校の敷地内に入ったところでポカンとなって立ち止まる。考えてはみたものの、別にどうという意味でもなく、言葉通りなのだろう。昨日のハナスイバー・シャリアでも思ったけれど、風宮深美は学校で見るのとはまるで別人のようだ。その差を壊すようなことは、して欲しくないと言いたいのかもしれない。

(目だけでも出してた方が良いのになあ)

 残念に思いながら歩き出した空太だったが、すぐに思い直す。

(まあでも、秘密にするって約束したしな)

 当人は気付いていなかったが、その顔がややニヤケ気味だったのを、あとから校門を通り過ぎた那須立佳は、しっかりと目撃していた。

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