5、ハナスイバーの人々
空太が去ってほどなく、ハナスイバー・シャリアでの深美の控え室の扉がノックの音を立てた。はい、という返事のあとにひと呼吸おく紳士的な間合いを経て、
「はぁーい、深美ちゃーん。見たわよーぅ」
長身で筋骨隆々の男――いや、濃い化粧と濃紺のバーテンダー姿の人物が、低い声でくねくねしながら入ってくる。下半身はタイトスカートから頑丈そうな膝が出ていて、体毛を取り除いた脚はストッキングに覆われていた。ハイヒールがカツンと鳴る。
「ミケさん、今日は来るの早いですね」
「あぁら。そんなことないわよぅ」
シャリアのバーテンダーであるミケは、平然と応じる深美に笑って片手をぱたぱた動かした。後ろ手に扉を閉めて、囁き声で訊ねる。
「で、彼氏なの?」
「違いますよ」
即答した深美に、身体全体でがっかりした仕草を見せて、ミケは、なあんだ、と呟く。
「お店の前で倒れそうだったから、介抱しただけなんですよ。そんながっかりしないでくださいって」
深美が苦笑いの口調で言うと、だってえ、と駄々をこねるように応じる。
「深美ちゃんだって、お年頃なんだしぃ。そりゃあ、ここに連れ込むのは店長に怒られるけど、そういうことだっていいじゃないの。アンタ可愛いんだからぁ」
「あ、やっぱ怒られるんですか。じゃあ店長にはあとで言っとかないとなあ」
軽く受け流しながら深美は手際よくテーブルの上に、化学実験のような機材を準備していく。今日の分のハナスイを採取して、それを店長に渡し、報酬を貰う。この作業をする者をスイ子やスイ男といい、シャリアのような専門店が登録制で囲い込んでいる。深美のようなシャリアの登録スイ子に、他の店が手を出すことは業界の慣習で悪とされていた。
「その方がいいわよぅ。アタシも昔、すっごく怒られたのよ」
「ミケさんも連れ込んだんですか? 男?」
「な、い、しょ」
太い人差し指を鼻の前に立てながら言って、ミケは出て行こうとする。扉に手を掛けたところで、ふと思い出したように振り返った。
「ああ、それから
「今夜にでも電話しとく」
深美の答えを聞いていたかどうか、出て行ったミケのあとに閉じた扉の音が言葉に重なった。
風宮深美の控え室を出て廊下を歩くバーテンダーのミケは、途中を曲がって店の表へと向かう。個別の控え室が与えられているのは登録済みのスイ子とスイ男だけなので、バーテンダーの定位置は、いつも通りバーのカウンターの内側だ。休憩室もあるにはあるのだけれど、店長が自宅の家賃を払えなくなって転がり込んできてからは、ずっと店長の部屋になってしまっている。
長めの暖簾のような布カーテンを片手で避けながら顔を出すと、
「あ、ミケさん」
少年の声がして、暗い店内で小さな人影が動くのが見えた。
「あぁら、
訊ねながらミケは電灯をスイッチを入れる。薄明るい間接照明が、カウンターよりも背の低い
「あの、今日の味、みてもらえないかなって思って」
言っ翔介は鼻をすする。差し出した小さなカップには彼のハナスイが入っていた。翔介も、ここハナスイバー・シャリアの登録スイ男である。店長が、上からの指示だとかで、どこからか連れてきた少年で、そんな経緯だから、スれた小生意気なクソガキかと思いきや、ずいぶんと純粋無垢なところがあってミケは気に入っていた。というか、愛玩動物を扱うような感覚ですらある。
「あらぁ。いいわよう」
ミケが、節くれ立ちながらも、指毛は綺麗に脱毛してある大きな片手を差し出すと、そこに全て治まりそうなサイズの両手で包んだカップを翔介は乗せた。もう片方の手でミケは少年の頭をわっしゃわっしゃと撫で回す。
ミケは翔介のことを良い子だとは思っているものの、少年はあまり自分のハナスイに自信が無いのか、たびたびこうして味見をねだってくる。それはそれで可愛いとは思うし、実際にスイ子やスイ男の体調や精神状態がすぐに味に出るのも事実ではあるので、ミケは喜んで味見に応じることにしていた。
受け取ったカップは、少年の体温でほどよく温められていて、香りが立っていた。ハナスイは冷やして飲むよりも、常温やぬるめに温めて飲む方が好まれている。その方が、より香りや味を楽しめるからだ。スイ子やスイ男が個別に持つ味や香りを楽しむには、単一原産すなわちシングルと呼ばれる種類が好まれ、その一方で店などが独自に調合したブレンデッドというのもある。ブレンデッドは複数原産であり、何人ものスイ子やスイ男のハナスイを合わせただけのものと、それにスパイスなどを混ぜ合わせたものもある。
シャリアで原料ハナスイをシングルで客に提供するかブレンデッドにするか、またブレンデッドならばどのようなレシピで調合するか、を決めるのはバーテンダーであるミケと店長の仕事だった。
翔介のハナスイは、若々しく華やかな、大きな向日葵のような香りがする。ミケのこれまでの経験では、原産が歳を重ねるほど味や香りは繊細で複雑になり、どちらかといえば男性原産は香りに癖が強くなり、女性原産は味に癖が強くなる傾向があるようだった。
「どう?」
上目遣いに翔介が訊ねてくる。ミケは彼の頭に乗せたままの手で、ぽんぽんと軽く少年の髪の弾力を楽しんで、頷いてみせる。
「いいわよぅ。いつも通り、美味しそう」
嬉しそうに微笑んだ翔介を見て、ミケもにっこり笑顔になる。それからカップに口をつけ、ゆっくりと中の液体を唇につけた。とろり、と唇を抜けて舌の上に翔介のハナスイが乗り、唾液と混ざって口の中に香りと味が広がった。だが。
「ん?」
思わずミケの漏らした声に、翔介はびくりと肩をすくめて、一転した不安そうな目でバーテンダーを見つめてくる。
「んんー?」
口の中でハナスイを転がしながら、素早く空気を吸って、ミケはさらに香りと味を確かめてみる。やや違和感があるのは、どうやら味の方のようだ。翔介の懸念をなだめるために、少年の頭に乗せた手は休めずにゆっくりと撫で回し続ける。
「……あのぅ」
遠慮がちに翔介が声を出し、ミケはまだ中身の残っているカップを少年に返した。
「大丈夫よぅ。ちょっといつもよりも、口当たりのとろみが強いから、それがちょっと味を濃く感じさせるかもねぇ。店長にも飲んでもらってみてねん」
受け取ったカップとミケの顔を交互に眺めながら聞いていた翔介は、徐々に、やっぱりダメなのかな、と言いたげな泣き出しそうな顔になってきて、慌ててミケは少年の頭を抱き寄せた。
「ふぎゅ」
分厚く固い筋肉質な胸に抱きかかえられて、翔介は苦しそうな声を漏らす。その後頭部をゆっくりとミケは撫でながら、大丈夫よぅ、と繰り返した。腕の中で少年が頷くのを感じて、翔介を解放してやる。小さな背中を軽く叩いて、店長の部屋へ行くよう促すと、
「あ、ありがと。ミケさん」
ぺこりとお辞儀をして翔介は小走りに布カーテンの向こうへと駆けていった。少し屈んで、頭でカーテンの裾を押し退けていく姿を見送ってから、ミケは開店準備をし始めた。
益井翔介が三回扉をノックしたあと、少し待ち、また三回ノックしても、まだ店長の部屋からは何の応答も無かった。いつも通りといえばいつも通りのことで、翔介ももう慣れている。再度、三回叩いてみる。
「あぁん」
不機嫌そうなくぐもった声で応答があった。いつも開店ギリギリまで寝ている店長は、酒と煙草とハナスイでしわがれてはいるが、寝起きの低音といえども女性らしい音域の声ではある。シャリアに連れて来られたばかりのころは、翔介も店長が怖くてしかたなかったが、機嫌にかかわらずテンションの低い声なのを理解してからは、あまり気にならなくなった。それに、店にいる間は、とくにスイ子やスイ男には滅多に不機嫌を向けてこないのも、経験上で知っていた。
「あのぅ。店長」
「あぁ、ショウ坊かい。お姉さんって呼びなって、いつも言ってるだろ」
ごそごそと布団から脱け出す音がして、続いて床に散らばったビニールやら紙やらを蹴飛ばす音が近付いてくる。建て付けの悪い扉をがたがたとさせて、大きな欠伸をしながら店長の
「なんだい。アンタ今日シフトだっけね」
「うん。ボクと深美ちゃんです。それで、これ」
「ああ味見かい。どれ」
おずおずと差し出した翔介の手から、無造作に梨子はカップを奪い取る。そのカップにケバケバしいほど濃い口紅の跡がついているのを見て、
「ミケは何だって?」
先にバーテンダーが味見を済ませていることを知った梨子が訊ねる。寝起きの彼女は襟がだるだるに伸びたTシャツと、下はパンツ一枚という格好で、ブラジャーを着けていない、あまり豊かでない胸元があわやシャツから覗きそうでもあったけれど、それでもどうしても色気のようなものが感じられなかった。店に出るときはウィッグで長くする髪も、今は地毛の短髪で、しかも寝癖がひどく、ぐしゃぐしゃになっている。扉横の壁に寄りかかりながら、心配になるほど痩せた片脚を上げてもう片脚を掻いていたりするのも、色気の消失に一役かっているようであった。
「えっと、ミケさんは」
それでも目のやり場に困って翔介は視線をあちらこちらと惑わせながら、ミケの言っていたことを梨子に伝える。ふらつく翔介の視線は、店長の部屋の中に散らかっているコンビニの袋や雑誌を次々と捉えていった。それを見るたびにいつも少年は、掃除してあげたいな、と思うのだった。
ひととおり説明し終えてから、翔介はようやっと上目遣いに梨子の顔を見上げて、店長の顔色を窺う。
「それで、店長にも飲んでもらえって」
「お姉さんだろ」
「あの、えっと。梨子お姉さん」
まだ眠そうな半眼で少年の視線を受けて、欠伸をかみ殺しながら梨子は翔介に呼び名を強制してから、ちゃんと言い直した彼の頭を撫で回した。ミケほど大きくない手だが、バーテンダーよりもずっと乱暴に少年の髪を混ぜまくる。うあうー、と思わず呻きながらも翔介は、されるがままに店長の手に動かされて頭を揺らした。
少年の様子に構うこともなく、梨子は手にしたカップを無造作にあおる。じゅばじゅばと汚らしい音を立てながら、口の中でハナスイと唾液と空気を混ぜ合わせて、鼻で何度か呼吸して香りも確かめる。
「ふむ。まあブレンデッドのベースにはなりそうね。常連にならシングルでも出せるか」
「あの、店ちょ……梨子お姉ちゃん」
縋るようでもあり、謝るようでもある翔介の視線に対して、梨子は少年の頭を撫でていた手から人差し指だけを残して、それで彼の額を小突いた。
「まぁた、あのバカ親かい。まったく仕方ないねえ」
「ごめんなさい」
「なに謝ってんのさ。アンタのせいじゃないだろ」
すっかり顔を伏せた翔介に空にしたカップを突き返しながら、梨子は少年の額を片手で掴み、顔を上げさせる。それから、仕方ないね、と言うような困った笑顔で翔介の顔を見た。ちょっとしたストレスでもハナスイの味は変化することがある。それが翔介のように若いうちは、とくに過敏に影響が出る。
「気にするんじゃないよ。ほら、もう」
励ますように言って、梨子は寝巻きのTシャツの裾で、翔介の鼻から溢れて止まらないハナスイを拭き取ってやった。そのあとからも、すぐにまたハナスイは出てくる。以前は梨子もまたスイ子だった。体質上の苦労も自分で体験して知っている。だからだろうか。店長は登録スイ子やスイ男には、あまり厳しく接することは少なかった。
まだ何か謝りそうだった翔介を、梨子は強引に少年の肩を掴んで回して振り向かせ、その尻をぽんと叩いて送り出す。一度だけ振り返った翔介に、笑って手を振ってやると、入れ違いに風宮深美がやってきた。
翔介の背後で閉まった店長の部屋の扉を通して、廊下をゆく少年にまで聞こえるほどの梨子の珍しい怒鳴り声が轟いて、店の表から布カーテンを捲り上げて顔を出したミケと目を合わせて少年はきょとんとして首を傾げた。あとから、深美が売り物のハナスイボトルを勝手に他人にあげてしまったことを知り、ふたりは梨子の怒鳴り声に納得することになる。その代金は、深美の報酬から引かれることになったらしい。
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