4、シャリアの小瓶
「え、マジ?」
空太が思わず、そう漏らしたのと同時に、深美の顔はものすごい勢いで真っ赤に染め上がった。鼻の頭まで紅潮している。
「や、ダメ、やっぱ、恥ずかしっ」
また両手で顔を隠して深美はテーブルまで逃げて、空太に背を向けてしまう。改めて味を思い出してみても、空太には全くそのふたつが一致して感じられず、空転する思考に任せてぽろぽろと言葉が零れてゆく。
「マジか。あれが風宮の鼻み」
「ダメっ! やめて、ハナスイって言って!」
叫ぶように空太を遮って要求した深美は、自分で明かしておきながら恥ずかし過ぎたせいか、自らを抱きしめて口でふうふうと大きく呼吸を繰り返している。もっともそれは、鼻が塞がっているせいだったのかもしれない。
「あ、う、うん」
ここに来て何度目になるか。またもや空太は深美に気圧されて人形のように頷いた。たったふた口でも十分に満足感があって、爽やかだけど飲みやすい味の、ややとろみがあるあの液体が、まさか目の前のクラスメイトの女子の体内で生み出されたものだったとは、すぐに信じきることができずにいる。空太の知っている鼻水とは全く違う、美味しい味だった。けれど、その液体によって空太の脱水症状が治癒されて、危うく命の危険に晒されるところを救われたのも確かに間違いなく体験したことでもある。深美はそういう体質なのだと言っていた。特別なのかもしれない……あれ、そういえば。
「あの、風宮さ。その。ハナスイってさ、飲んだら心臓バクバクしたりするもの?」
深美のハナスイを飲んでから、自分の体内で発生し続けている熱量について、何か解決策があるのではと思い至り、空太は訊ねてみる。けれど、返ってきたのは意に反した答えだった。
「え、ううん。だいたいは、なんか、うっとりしたいい気持ちになっちゃうみたいなんだけど、別にドキドキしたりはしないみたい。わたしの体質だと、他の子のハナスイを飲んでも、何ともならないんだけど」
言いながら落ち着きを取り戻したらしい。深美は再びマスクをしながら振り向いて、心配そうな目を空太に向けた。
「もしかして、具合悪い?」
「あ、いや。そうじゃないんだけど、なんかすごい血の巡りがいいっていうか、身体の中から熱くなってきて、どんどん力が湧いてくるみたいなんだ」
あと股間も、というのは心の中でだけ付け足しておいて、空太は両手を握ったり開いたりしてみる。握力も強くなっているように感じる。今なら自転車くらいは追い越せるくらいの速さで走れそうでもある。
「うーん。なんだろ。あとで店長に聞いてみとくね」
空太の顔が、苦しんでいるどころかむしろ血色が良いほどなのを見て取って、深美はほっとして気楽にそう請け負った。空太も、何ともないうえに元気が有り余っているだけなので、それ以上は気にするのをやめて、話題を変えようとしてみる。
「まあいっか。でも、とにかくありがとう。昔からなんだよ俺、いっつも喉渇いて、すごく乾燥しちゃう体質でさ。気をつけてはいるんだけど」
自嘲気味に言いながら空太は、今は空になっている腰の水筒を軽く叩いてみる。
「あ、それ飲料部だからじゃないんだ」
「うん。いちいち説明するのが面倒だから、みんなには飲料部だから水筒持ち歩いてるって言ってるけどね」
「そっかあ」
深美はテーブルの縁に腰掛けるようにしながら、小さくため息をつく。
「わたしも、身体が弱いってことにしてるんだ。ホントは元気なんだけど、ずっとマスクしてなきゃだから」
「友達とかにも言ってないの?」
何気なく訊ねた空太に、深美は黙って頷き、そのまま目を伏せた。気まずい雰囲気になりそうな予感がして、空太はさらなる別の話題を求めて頭を巡らせる。
「あ、そ、そうだ。文化祭のやつ、何にするか決めた?」
焦り気味に言ってみた空太の声で、深美は少しだけ顔を上げて小首を傾げた。
「何って?」
「いやほら。クラスで何するかって来週投票するだろ」
「ああ……あれパス」
深美は顔の前で片手を一往復させて話題を追い払うと、テーブルから空太のカバンを取って差し出す。反射的にそれを受け取って空太は訊ね返した。
「パスって?」
「ずっとマスクしてるなんていう、顔の見えない子を友達にする子はいないし、わたしもクラスに参加するつもりは無いから」
ソファから立ち上がりながら、空太には答える言葉を見つけられず、えっとあの、とだけ呟く。カバンを渡してきたということは、深美は空太に、もう帰れと言いたいのだろうけれど、このままこの部屋から出て行くのは気まずくて、なんか違うなとは思いながらも空太はひと言謝った。
「ごめん」
「いいの。ここのみんなとは仲良くできてるし。さっきも言ったけど、同い年の女の子とか年下の男の子とか、あと店長やバーテンダーの人も、みんな良い人なんだよ」
「そっか。その、じゃあ、また明日。学校で」
再会を口にした空太に深美は返答せず、テーブルの上から、片手で包み込めるほどの小瓶をとって差し出し、明るめの声を出した。その目は悲しんでいるようにも諦めているようにも、空太には見えた。
「ここにもいつまで居られるか、分からないけどね。いつかは美味しくなくなっちゃうっていうし」
「そうなんだ」
小瓶を受け取りながら空太は返し、店名のシャリアというラベル以外は透明な、その中身を予想しつつも、訊ねる視線を送る。
「そ。体調とかでも変わっちゃうみたいだし。でも、それは美味しいときのだから」
「やっぱりこれ、風宮の?」
小さく頷いて、深美は髪を止めていたピンを外した。彼女の表情は、また分からなくなってしまう。そのまま、胸元で小さく手を振って深美は空太を送り出した。
「わたしのハナスイだよ。念の為に持って行って。お店で飲んだら、すっごく高いんだからね」
楽しそうな、照れているような声に聞こえて、気の利いた言葉も思いつかずに空太はひと言だけ、ありがとう、と返事をして小瓶を手の中に握りこんだ。廊下を真っ直ぐで裏口だから、という深美の案内を受けながら部屋の扉を開いて出てゆく。最後まで深美は手を振ってくれていた。
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