3、彼女の味

「あの、なんか……ごめん」

 深美が謝る。のだけれど、決してソファで肩と膝をくっつけるようにして屈んでいる空太の方へは近付いてこない。両手で抑えてはいるものの、彼の股間はいっこうに落ち着く様子もなく、それどころか恥ずかしさのせいで、かえってドキドキが加速していた。

「いや、その。こっちこそ」

 しどろもどろに空太は応じるが、ふたりの間には気まずい空気が漂う。なにか打開する話題でもないかと視線を泳がせながら頭を巡らせる空太よりも先に、深美がくすりと小さく笑った。

「これでお互いさま、だよ。わたしも内緒にするから、池野君も」

「あ、うん」

「ここのこともね」

 秘密の内容を追加して、深美はつつくように片手の人差し指で下を示す。それにも空太は何度も頷いて、心からの了承を伝えた。そのうえで気になっていたことを訊ねてみる。

「あの、でもここって、どこ? 風宮んちじゃないよね?」

「ちがうちがう」

 今度は顔の前で大きく手を振って深美は否定する。学校で見るよりもリラックスしているようで、仕草も声の表情も豊かになっている気がする。今は前髪とマスクに覆われて見えない深美の顔立ちを思い返しながら、空太は思いがけない魅力の発見に興味を惹かれていた。

「ここはね、池野君が倒れそうになってた所の、すぐにあるバーだよ。ハナスイ専門の、ハナスイバーなの」

「ハナスイ?」

 初めて聞く単語に、空太はきょとんとした顔になって問い返す。けれど深美は、両手の指先を胸の前で合わせて、ついと顔を背けて見当違いの言葉で応じる。あからさまに何かを誤魔化そうとしているようだった。

「お店の名前はシャリアっていうんだよ。この部屋はわたしの控え室っていう感じかな。あ、他にもここには、いろんな子が来ててね」

 部屋は決して広くはない。空太が寝かされていたソファもふたり掛けで、中くらいの身長である空太の頭と太腿が肘掛に乗っていた。他には深美のカバンや制服の上が畳んで置いてある小さなテーブルがあって、今はそこに空太のカバンも乗せられている。あとは出入口の扉と、壁にかけられた鏡くらいだ。

「えっと、それでハナスイって何?」

 もういちど問いかけてみるが、深美は空太を見ないまましばらく黙り、やはり答えずに話し続ける。

「他の子っていうのはね、同い年の女の子とか、あと、八歳の男の子とかも居るんだよ」

 どうしても答えようとしない深美を見ているうちに、空太は自分の恥ずかしさが治まってきた。股間の膨らみは相変わらずではあるけれど、少し冷静に、深美が誤魔化そうとしている理由を推察することができるようになる。辿り着いた結論は、こうだ。

「えっと、もしかしてだけど……エロい店?」

「ちっ、ちがっ、ちぎゃゆ、ちぎゃゆっ!」

 うろたえて及び腰になった深美は、両掌を空太に向けて全力で振りながら、あまりの慌てようで否定の言葉もまともに発音できていない。頭も思い切り左右に振るものだから、乱れた髪の合間から、真っ赤になった耳や、ちょっと涙目になっている下がり眉が垣間見えた。どうやら空太の想像が捗り過ぎてしまったようだ。

「ご、ごめんごめん」

 深美の否定の剣幕に、ちょっと気圧されている空太だった。謝罪を聞いて激しい身振りを収めた深美はカバンを置いたテーブルに寄りかかりながら、胸で重ねた両手に縋りつくように乱れた呼吸を整える。

「バーっていうことは、お酒なの? ハナスイって」

 かぶりを振って空太の推測を否定してから、深美は覚悟を決めるように、ひとつ大きく深呼吸をして、前髪をまた左右に分けてピンで留め直す。それからマスクに手を掛けながら、自分のスカートの裾を見るように目を伏せたまま教えてくれた。

「さっき池野君が飲んで、美味しいって言ってくれたのがハナスイだよ。ここは、それだけを専門に飲めるバーで、わたしや他の子たちはシャリア専属でハナスイを買ってもらってるの」

 深美が外したマスクの下からは、説明することが恥ずかしいのか、真っ赤になった頬が現れた。その中間にある深美の鼻とマスクの裏を繋いで、体質のせいで止まらないという鼻水が細く糸を引く。後ろ手にテーブルからティッシュをとって自分の鼻を拭った深美だったけれど、そのあとからまた、とろりと透明な液体が溢れ出てくる。

 やけに真剣な様子に、空太も深美の言葉を懸命に理解しようと頭を働かせる。

「じゃあ、つまり、風宮はそのハナスイってのを作って、この店に売ってる、っていうこと?」

「うん……ね、池野君。ハナスイ美味しかったって言ってくれたでしょ?」

「あ、もちろん。あれも風宮が作ったやつ?」

 声には出さずに、深美は小さくひとつ頷いて肯定した。

「ね、どんな味だった?」

 訊ねながら、長い睫毛がついと持ち上がり、うつむきがちな顔から上目遣いの視線が、空太の表情を探る。一拍、心臓の鼓動が空太の体内に響いた。

「え、えっと。その、薄めの味だったけど、甘酸っぱい感じで、いくらでも飲めそうな」

「気に入ってくれた?」

 空太が全力で頭を縦に振ると、えへへと深美の照れ笑いが聞こえてくる。試されているような気持ちになっていた空太は、どうやら間違えずに答えられたようだと、安堵してひと息ついた。

「あのね。じゃあ教えてあげる」

「え、何を?」

 気を緩めた隙に、深美は身を屈めて空太と同じ高さで顔を見合わせてくる。恥ずかしそうに微笑む彼女は、自分の鼻の頭に人差し指の先を当てて、内緒だよ、と前置きした。

「ハナスイは、ハナの水なの。美味しいのは、すごく珍しい体質なんだって」

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