2、あふれる彼女
ぼんやりと自分が呼吸しているのが分かってきて、空太は生きていることを自覚した。
「あ、う」
脱水症状の余韻で、わずかに頭痛はあるけれど、声もちゃんと出る。ゆっくりと瞼を上げれば、明るい天井も見えた。眩しくて薄目になる。だがそれは間接照明の優しい光で、すぐに慣れた目を開けば、初めに思ったほど明るくはなかった。
どこか、建物の中に寝かされている。病院という感じではない。ゆっくり息を吸って、細長くそれを吐き出す。薄っすらと良い匂いがする。花の、オレンジ色な匂いだ。つい最近、どこかで嗅いだ気がする。
「どこ?」
呟いてみて、腕を上げてみる。大丈夫だ、身体もちゃんと動く。片側は詰まっていて、もう一方は下へ落ちる。ソファか何かに寝かされているようだ。手探りに背もたれの上に片腕を乗せて、それを支えにして落ちないように上体を起こそうとしたとき。
「あ、起きた? 大丈夫?」
空太の顔を覗き込むように屈んだのは、同じくらいの歳の少女だった。左眉の上で分けた髪を左右の耳の上でピンで留めている。鎖骨を隠すくらいの長さの黒髪が顔にかかるのを片手で抑えながら、彼女は空太の上に自分の顔を重ねて、心配そうに眉尻を下げた表情で様子を探るべくじっくりと見てくる。
「うん。あの。ありがとう。助けてくれたの?」
「あ、うん。いいの。お店の前で倒れそうにフラついてるから、びっくりしちゃって」
空太の礼を受けて、無事そうだと判断したらしく、にこやかに微笑んだ彼女は返事をしながら身を起こし、脇の方を見て、そこからコップを手にとって差し出した。上体起こしの続きをする空太を、空いているもう片手で助けて、そのまま隣に座った彼女は、コップを手渡すと、
「念の為、もう少し飲んでおいて」
と促して、空太が口をつけるのを見届けようとするかのように、じっと見つめてくる。その真剣な顔と正面から目を合わせてしまい、空太は思わず数瞬の間、見とれて固まってしまった。長い睫毛が影を落としてなお丸く大きな目は、患者を見るような慈愛を瞳に宿しており、その間からすっと通った鼻筋は高すぎず低すぎない。白い肌は滑らかで艶があり、柔らかそうな薄桃色の、化粧気の無い唇がやや口角を上げて優しく微笑んでいる。その鼻と口の間に透明な液体がふた筋、空太が見ている間に上から下へと垂れてきた。
「あ、その」
それを見てしまったことに慌て、それを彼女に言うかどうか迷ったことにも慌てて、空太は急いで意識を手元のコップに向けた。その中には水のような液体が、少しだけ入っている。コップの底に薄くあるそれは、傾けると水よりはゆっくりとではあるものの、さらりと流れてきた。恐る恐る縁につけた口元に目を向けたまま、顎を上げて唇まで流し込むと、その液体はぬるく、わずかなとろみをもって舌の上に乗る。今まで味わったことの無い飲み物だ。
「ん」
何なのか聞いてから飲めば良かったと思いながら、空太はそれを飲み込む。ふた口めでコップは空になり、それでようやく味が分かった。とても薄味だけれど、甘酸っぱく、奥の方に微かな塩味を感じる。たったのふた口だったけれど、水をがぶがぶ飲んだときのように、たっぷりと水分を補給したような気がする。
「どう?」
「うん、美味しい」
遠慮がちに訊ねてくる彼女に、反射的に空太はそう返事をした。
「そ、そうじゃなくて、体調のこと」
思ってもいなかった慌てた口調が聞こえて、驚いた空太が振り向くと、彼女は真っ赤にした頬を両手で隠すようにして、その拍子に自分の鼻から出ている液体に触れて、ようやく気付いたらしい。
「ふゃっ」
鼻声の小さな悲鳴をあげて、飛び跳ねるようにソファから離れながら、空太から顔を隠そうとする。部屋の片隅にあるテーブルの所まで一足飛びに移動して、そこで乱暴にティッシュを数枚取って鼻を拭う。その背中を見て、空太はようやく彼女の服装が、上はTシャツだけれど、下は空太と同じ高校の女子制服であるスカートに似ていると、ゆっくり観察する余裕ができた。
「あ、体調はもう大丈夫。おかげさまで」
彼女の問いに答えていないことにも気付いて、ちゃんと返事もする。美味しかったのも本心だが、体調が快復したことも嘘偽りない。それどころか、渇きが癒えただけでなく、体内から活性化されているような、エネルギーが湧き上がる感覚もある。全身の筋肉が躍動しようとして、わくわくしている。残っていた頭痛も晴れて、思考も明晰になった気がする。
「ううん、いいの。元気になったなら良かった。……で、見たでしょ?」
「えっと、うん」
「ダメだからね。誰かに言ったら、ダメだからね」
見てないと言うのは無理がありすぎる嘘だな、と判断した空太の返事に、彼女は早口でそう警告した。
「いい? 絶対だからね」
重ねて真剣な声で念を押して、ようやくまた空太に向き直る。その顔はマスクで覆われていた。
「う、うん。大丈夫。絶対言わない」
気圧されるように空太は何度も頷きながら、その彼女にどこか見覚えがある気がしてならないものの、どうにも誰だか思い出せないことに困惑する。ここ数日以内に絶対どこかで会ったことがある気がするのだけれど。
「はふう」
自分の気持ちを落ち着けるためだろう、彼女はひと呼吸しながら髪の片側を手で耳の後ろへたくし込む。その耳はまだ赤かった。
「学校でもだからね。山本君にもだよ」
「山本って……裕斗のこと? 知り合い?」
口調は元に戻って落ち着いてはいたが、なおも言い募る彼女に、空太は訊ね返す。それが意外だったらしく、
「え」
と声を漏らしてから、何かひとりで納得したようで、
「ああ、そっか」
の言葉と同時に彼女は自分の顔の前で腕を交差させ、両耳の上につけてある髪留めを一度に外して軽く頭を振り、髪を解放した。目を隠すほど長い前髪とマスク。
「あ」
思わず、マスク女子、と自分の中でだけ通じる名前を呼びそうになって堪えた空太は、今日の教室掃除後にぶつかった同じクラスの女子を思い出せていた。
「思い出した? 同じクラスの
名前まで思い出せていなかったものの、深美の方から名乗ってくれたので、ほっとして空太は誤魔化すように何度も頷く。
「そんな顔してたんだ、風宮って」
「うっ」
ついでに述べた空太の素直な感想に、深美は言葉を詰まらせる。
「普段から顔出してればいいのに」
固まった深美が面白くて、さらに空太は言ってみたが、それには彼女は少し顔を伏せ、投げやりがちに爪先を振り出しながらソファに近付いてきた。
「ダメ。わたし、鼻が止まらないから。子供の頃からずっと。そういう体質なんだ」
悲しみよりも諦めが強く滲んだ口調に、空太は自分が余計なことを言ってしまったと悟り、慌ててソファから腰を浮かせる。
「あ、違うんだ。ごめん。責めてるんじゃなくて」
「いいの。二十四時間、寝てる間もずっとマスクが手放せなくて。でも慣れてるから」
そこまでで不意に深美は言葉を止めた。空太に近寄る足も止まっている。
「え、あの?」
許してくれそうなことを言っていたと思ったけれど、何か気が変わったりしたのだろうか、と空太が困惑しながら恐る恐る問いかけると、深美の片手が嫌そうに持ち上がり、遠慮がちに人差し指が、真っ直ぐ伸びないまま空太の膝より少し上あたりを示してくる。
「どうかした?」
何気なくそんな言葉で応じつつ、空太は自分の下半身へと目をやる。意識を失う前と同じく、制服をちゃんと着ている。けれど。
「うわっ」
コップの中のあの液体を飲んだときから感じていたとおり、やっぱり血の巡りが良くなっている。今度は空太の方が恥ずかしくなって、慌てて膨らんだ股間を両手で覆い、ソファに尻から刺さるように座り込んだのだった。
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