じゅるじゅる飲料
差分一夜
1、かわく彼
高校一年の夏休みが終わってすぐに、例年通り
「なあ空太。お前も良いと思うだろ、コスプレ喫茶」
クラスでの出し物を今日の学活で話し合ったけれど、候補が四つまで絞られたものの決まらなかった。来週また決選投票をすることになって、その間に提案者は熱心なアピール活動に励むことになる。
「いやあ、どうなんだろ。女子の視線が痛かったぞ結構」
コスプレ喫茶を提案したのは、空太の友人でもある
「そうでもないだろ。興味ありそうな奴もそこそこ居たと思うぞ」
「そうかなあ」
ちなみに決戦の四択はコスプレ喫茶の他に、おばけ屋敷、コント、それと担任の願いで残されたグループ展示だ。
「おばけ屋敷とか、定番だけど、やっぱ楽しそうじゃないか。あとグループ展示」
「おい空太。マジで言ってんのか? グループ展示とか、ありえねえよ」
「いや、楽そうだなって思ってさ。当日暇ならいろいろ見て回れるし」
「ノーノーノー、つまんねえよう。そんなの、つまんねえよう」
机を運ぶ手は止めないながらも、裕斗は大げさに首を振って、空太の意見を拒否する。背も高めで手足も長い裕斗がそうするのは、なかなかに見ごたえがある。同じく机を運びながら、空太はそんな友人の様子を見て苦笑を浮かべた。
「まあ安心しろ裕斗。杉谷には悪いが、コントは無い」
「だな。あれは杉谷くらいしか、やりたがってなかったしなあ」
実に暑苦しく、教室をステージにしてコントを披露するという提案について、熱弁をふるっていたクラスメイトの杉谷は、ふたりとは別の班なので掃除場所も違う。この場に彼が居ないのをいいことに、空太と裕斗は選択肢が三つであることを確認しあった。
だいたいの机を戻し終えたのを見回して、空太はゴミ箱へ歩み寄る。掃除の開始前に班のみんなで行ったじゃんけんで、今日は空太がゴミ箱を校舎裏の収集場所へ持っていく係になっていた。掃除のあとは放課後になるわけだけれど、ゴミ箱係になると行き来することで掃除からの解放がひとりだけ遅くなる。だから人気のない仕事だった。その反面、完了を待つことなく早めに掃除を抜けることが暗黙に了解されていたりもする。
「じゃ、行って来るわ」
裕斗へ軽く言いながら空太は片手でゴミ箱を持ち上げ、もう片手は腰に取り付けたケースに収めた小さめの水筒に添える。昔から使い慣れたその水筒の蓋を片手だけで回して放すと、紐でケースに繋いである蓋は床に落ちずにぶら下がる。
「そういや、部でも何かやるのか?」
ケースから取り出した水筒を傾けて中の水を飲む空太に、裕斗が訊ねてきた。ごくりと喉を鳴らしてひと口補給して、空太は水筒をケースに戻し、教室の扉へと歩きながら紐を手繰って蓋をとり、それを閉めながら友人に答える。
「いや、何かやるとは思うけど、まだ何も」
手元と友人に注意が向いていたのが、いけなかったのかもしれない。目前まで近付いた扉が開く音に顔を上げたときには、もう人影との間合いが詰まりきっていた。
「ふぎゃ」
半身になって避けようとした空太は間に合わず、自分の肩のあたりで廊下から入ってきた人物の上げた声を聞いた。幸い互いに転ぶこともなく、特に痛かったりもしない。向こうも、そこまで勢い良かったわけでもないらしい。
「あ、ごめん」
「ご、ごめんなさい」
空太と相手は謝りあって距離をとる。クラスの女子だった。ふわりと微かに、オレンジの小花を思わせる甘い匂いがした。
(誰だっけ?)
同じクラスに居たのは覚えがあるものの、長い前髪で隠れた目と、外したところを見たことのないマスクのせいで、顔の印象もなく、身長はやや小さめながらも、制服をアレンジしたり派手なアクセサリーを付けていたりもしないため、目立つところもなく、すぐに名前を思い出せない。
「大丈夫だった?」
「あ、うん、全然。気にしないで」
マスク女子は、それだけ言い置いて自分の席へと去ってゆく。
「前見て歩けよ飲料部員」
裕斗からの茶々が入り、
「うるせー」
応じて空太はゴミ箱を持ち直した。
空太が所属している飲料部は、さまざまな飲み物の成分を調べて、身体にどのような影響があるかを研究する部ということになっている。とはいえ実態は、学校中の水道で、どの蛇口から出る水が一番美味しいかとか、茶道ならぬ
そんな部に空太が入ったのは、いつも身に着けている水筒について訊ねられたときに、飲料部員だからだと言い訳ができそうだと思ってのことだった。実のところ裕斗にもそれで通っている。本当は空太が異常に脱水症状になりやすい体質なのが原因で、そのため高校入学時にも学校に医者の診断書を提出してある。ちなみに医者いわく、この体質の原因は不明なのだそうだ。発汗量だとかトイレに行く回数とかは人並みなのだけれど、特に夏場ともなれば少し運動するのにも水分補給が欠かせなかった。今年もなんとか乗り切ったけれど、まだ残暑はきびしく、この九月いっぱいは気をつけなければならないだろう。
廊下に出て、校舎裏のゴミ収集場所へと向かいながら、空太は一歩だけ小さくスキップするようにして、水筒の残りを確かめる。チャポンという音からして、もう残りは少なそうだ。
(ま、あとは帰るだけだし、なんとかなるかな)
軽く考えていた空太の予想は、空にしたゴミ箱を抱えて戻ってきた教室に、裕斗が待っていたことで裏切られることとなる。
「おーい裕斗。どこまで行ったんだ?」
呼びかけてみるが、空太の声に答えるものは無い。
帰り道、教室で待っていた裕斗に誘われて回り道をしながらコスプレ喫茶の良さを繰り返し聞かされていた。空太ひとりだったら真っ直ぐに帰っていたところだったが、散歩部の裕斗と一緒となれば、そうはいかない。
散歩部は要するに帰宅部なのだと空太は思っているのだけれど、地域の風景を記録したり地域の人々と交流したり、というのを名目にして帰りがけに回り道をしながら写真を撮ったりする活動をしている。その途中の空き地で裕斗は、バッタだったかカマキリだったか、何か気になる虫を見つけたと言って、それを追っていってしまった。
「誘っておいて、そりゃないよ」
ひとりぼやく空太だったが、仕方ない。ひとつため息をついて、空を見上げる。夕方とはいえ晴天には、まだ夏の気温の余韻が有り余っていた。
「先に帰るぞー」
ここで裕斗を待っていても、またコスプレ喫茶について聞かされながら、あちこち歩くことになるだろう。一応ちゃんと断りを入れたという言い訳のためにひと言置いてから、空太は自宅に向けて歩き始める。
(早く涼しくならないかなあ)
喉が渇いてきた空太は無意識のうちに喉元に手をやりながら、家までのルートを思い浮かべる。寂れた飲み屋街を通り抜けるのが近道になりそうだ。腰の水筒ももう空っぽなので、できるだけ急ぎたい。うっすらと汗をかいた口元を、空太は制服の袖で拭った。
空太と裕斗の帰路は、おおむね同じ方角ではあるけれど、家はけっこう離れている。そこは裕斗も空太に気を遣ってか、やや空太の家寄りの回り道だったので、なんとか自宅まで身体の水分が保ってくれることを願いながら、空太は飲み屋街へと足を踏み入れた。
(いつ来ても寂れてるよなあ)
どのくらい前から、そこにあるのか分からない、煤けた看板に色褪せたネオンの飲み屋が、空き店舗のシャッターの中に、ぽつんぽつんとある。もう少し遅い時間になれば開いているのかもしれないが、それを見たことは空太は無かった。それにしても喉が渇く。手や顔にも、もう汗も出てこない。
(あっ)
不意に、目の奥が暗くなって、空太はぎゅっと目を閉じ、また開く。その視界は幼児のした塗り絵のように、乱暴に色がはみ出しあって輪郭の分からなくなった風景になっている。渇いた喉から掠れた咳が、ふたつみっつと出た。
(やべぇ)
足元がおぼつかなくなって、なんとか道の脇に座り込もうとするが、自分がどういう体勢を取れているか分からなくなる。
(確か、もう少し先に自販機があったはず)
そこまで辿り着ければと、なんとか意識を保とうと懸命に呼吸しながら、溺れているかのごとく両腕を緩やかに振り回して、空太は先へ進もうとしていた。だがその努力にもかかわらず、また視界が暗くなる。
(マジかよ、くそっ)
何度か瞬きを繰り返すが、眼球も乾いているせいか、ごろごろと鈍い痛みがあるばかりで、ようやく戻ってきた視界もぼやけきって何がなんだか分からなかった。誰か近くにいれば助けを求めたいが、この飲み屋街ではひと気もほとんど無い。
「み、みず」
囁き声のような掠れた声しか出なかったが、なんとか空太がそれだけ言ったとき、片腕が何かに触れた。それが建物か道路か、それとも幸運にも人だったのかは分からないものの、無意識のうちに空太はそれに身体を預け、同時に意識を失う。
薄れゆく意識の中で、大丈夫? という声を聞いたような気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます