巻の八「旅の終わり」

第63話「あるべき日常」

 件の建物はすぐさま柵が取り払われた。地下の懲罰牢以外はしばらく使われていなかったため、点検・修繕に数日が費やされ、晴れて珂惟たち行者たちは法恩寺に戻った。 

 珂惟かいは午前中の涼しいうちは他の行者たちと一緒に法恩寺で行われている講義や修行に参加し、午後からは琅惺ろうせいのお供として寺外の講義に参加するようになった。二人は、「帰り道だから」という理由で講義帰りに沙州賓館さしゅうひんかんに立ち寄っては、振舞われた茶を手に、談笑していくようになった。

「さんざん遊んでたから、いまさら講義受けるのがかったるくて……」

 珂惟が自分の肩を揉みながらそう言うと、琅惺は鋭い視線を珂惟に向け、

「それが仏教を極めようとするものの言葉か!」

「すみません、そうでした。――でも、舞台が見れなくなったのは、寂しいよな……」

 珂惟が呟くと、おかみもしみじみと「本当に」と言った。「せめて帰る前には、もう一度見に来ておくれよ」というおかみの言葉に、珂惟は強く頷いた。

「絶対に」

 まもなく九月が終わろうとしていた。彼らが敦煌とんこうにやってきて、三月が過ぎようとしている。


「あれ、なんか葉っぱが黄色くなったよな」

 朝の参拝を済ませた茗凛に、境内を掃いていた珂惟がそう声をかけてきた。彼が見上げるのは胡楊樹。葉の緑に、淡い黄色が滲んでいる。茗凛の横に立つ霞祥が、

「もうじき黄金色になりますわ。とても綺麗なんですよ。――それが散ると、じき冬です」

「そうなんだ。確かに最近、ことさら朝晩冷えてきたと思ってた。砂漠はいつも暑いのかと思ってたけど、違うんだな」

「あたりまえでしょ。敦煌は北にあるんだから」

 と、茗凛が珂惟を小ばかにしたとき、然流ぜんりゅうがこちらに走り寄ってきた。

「珂惟さん茗凛さん、上座かみざがお呼びです」

 

 然流に連れられ、二人は上座の居室である方丈に呼ばれた。あの騒動から半月――半年近くも日の当たらないところで監禁状態だった上座は色が白くなり、身が細っていた。しばらくは休養が必要とのことで床についてはいたが、二人が方丈に入ったときには身を起こしており、以前よりは明らかに血色がよくなっていた。そこにはすでに琅惺が座っていて、思按しあんが、本来の上座の傍らに控えている。

 上座は、自分に起こった出来事と、隣の牢で一緒に監禁されていた女たちから聞いた話、そして蝦蟇蛙を取り調べた馴染みの役人から聞いた話を語って聞かせた。

 事の始まりは病気の沙州刺史(長官)代理として、都から長史(副官)が派遣されたことだ。

 長史は長安で胡姫が珍重されるのを見知っていた。なので敦煌赴任が決まったとき、胡姫を多数連れ帰ろうと決めていたらしい。もちろん金があるわけではないので、無理やりに。その協力者と監禁場所を探すうち、理想の懲罰牢を有していた法恩寺に目をつけた。

「春、長史が着任の挨拶に来たのだが、袖の下を要求するものだから、一喝してやった。『ではせめて寺内を見せて欲しい』と言うので、『ならば』と隅々見せてやったのだ。妙に懲罰坊に関心を示している様子だったが、まさかこんなことになるとはな」

 長史は話の通じない邪魔な上座を閉じ込めた上で、自分の息のかかった蝦蟇蛙をその後釜にすえて協力者とし、身寄りのない胡姫をさらっては懲罰牢に閉じ込め、長安に送る手配を進めていたらしい。しかしその悪事が白日の下に晒された今、彼は長安に強制送還された。厳罰が待っているのは間違いない、と上座は言う。

「おまえたちが気づかなければ、女たちは売られ、ワシはきっと殺されていたことだろう。おまえたちは命の恩人だ。本当にありがとう」

 上座はそう言って、珂惟と隣の茗凛に頭を下げた。茗凛は慌てて、

「上座、どうぞ頭をお上げください。ご無事で本当によかったです。上座が急に倒れたと姿を消された日から、兄は自分を責める余り、すっかり口うるさくなって」

「おまえは何を言っているんだ! 私は出家した身だと言っているだろう」

「はいはい」

 憤りを見せる思按を茗凛は軽くいなす。すると、

「やれやれ、形無しだなおまえは。あの程度の言葉に、いちいち目くじらを立ててどうする。それに引き換え、茗凛は随分と大人になったものだ」

 上座は茗凛を見て目を細める。茗凛は、かつての近寄りがたかった上座を思い出して困惑を覚えたものの、なんだか嬉しく、そして恥ずかしく、思わず目を伏せた。頬が火照るのを感じる。

 思按は軽く咳払いすると、

「――上座、あまり無理をなされては。長い間苛烈な環境に身を置かれていたのです、今はどうぞゆっくり休養なさってください」

 言いながら思按が、薬湯を差しだした。上座はそれを受け取りながら、

「そうでもなかったぞ。地下は昼間も涼しかったし、寝具や毛布もきちんとしたものが用意されておったので夜も寒くはなかった。女たちは大事な商品だから、丁重に扱われておったぞ。飯も美味いものが十分用意されていたしな。ワシはそのお零れをもらっておった。壁越しに女たちともよう話した。おかげで気が紛れた。時間はとにかくあったので胡語も教わったぞ。これからは胡語で書かれた経典も読める。楽しみだわ」

 薬湯を飲み飲み、上座は笑顔を見せる。

「それは凄い。元気な上座だなあ。ウチの上座と気が合うわけだ」

 珂惟が心底感心したと言わんばかりの声をあげる。「おい」同時にたしなめる琅惺と思按を上座は押しとどめ、

「それはそうだろう。あやつはワシが認めたヤツなのだ。見る目はある」

 しみじみと頷きながらそんなことを言う。珂惟は「面白いなあ」と言って笑った。

「あやつは元気にしとるか? 道教の者に襲われたと聞いたが……」

「はい。すでにご回復されております」

 珂惟の傍らに座る琅惺が応える。上座は琅惺に目を向け、

「あやつがそなたの和上だそうだな。せいぜい励むことだ。求めたら応えるだけのものを、あやつはしっかりと持っている。そんな者は、そうそうはいないものだ」

「はい」

 琅惺が力強く頷く。それを見た上座は、今度は珂惟に目を移し、言った。

「そなたもな」

「はい」

 珂惟も大きく頷いた。

「なればよし。――さて、今日おまえたちをここに呼んだ理由は実は他にもある」

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