第51話「真摯な思い」
小さいが切迫した
上座は
「なんとまあ、恐ろしい。いきなり倒れるほどの老木でもなかったのだがなあ」
などとブツブツ言いながら、歩き回る。そして珂惟と
「いやこの程度で済んでよかったな、そなたたち。仏のご加護だな。――しかし良くないことは続くと言うからな。十分気をつけるのだぞ」
そう言って、ニタニタといやらしい笑みで二人を見上げる。
フォッフォッフォッと、息なのか笑い声なのか分からない音を上げながら、どすどすとその場を去っていった。
「――脅しと来たか。なるほどね」
潰れた蛙のような後姿を見送りながら、珂惟は腕を組んで口角を上げている。
「珂惟、やはりあの中には」
「きっと何かある。おかげで確信したね。――あとは何があるか、だが……」
「それを探るのは私の役目だ。寺外の人間に、そんなことをやらせるわけにはいかない」
珂惟と琅惺の間に、
「寺外の人間だからこそやれるんですよ。しがらみのある方が内部の厄介ごとに首を突っ込むと、後々面倒なことになりかねません。だから俺の方が確実に動けるんですよ。立場的にも身体的にも、ね」
……確かに。兄さんは頭はいいけど動くのは……って人だからな――と、茗凛がしみじみ頷いていたら、珂惟がふいにこちらに目を向けてきて、
「帰るぞ。どーせどっかからこっちの様子を見てるんだろ。長居してるとヘンに勘ぐられそうだ。ということで、そうだな、琅惺は帰り支度でもしとくといい。――いいか、絶対にあの建物には近づくな。そして絶対、一人になるな」
「珂惟さーん!」
声に揃って目を向ければ、
「絶妙だな」珂惟は呟くと、
「今から帰る! そこで待っててくれ」
大声で言い返し、寺門に向かって歩き出した。茗凛は慌てて後を追う。残りの二人もそれに従った。琅惺が足早に珂惟の隣に並び、
「君はどうするつもりだ? また一人で危ない橋を渡るのか?」
「とりあえず探るだけだよ。あとの始末は、お役所にでも任せればいいだろ」
「――お役所か。取り合ってくれるといいんだがな」
やはり珂惟の隣に並んだ思按が冷ややかに笑う。珂惟はため息混じりにうっすらと笑いながら、呟いた。
「やっぱり、その可能性もあるか」
門が近づいてきた。琅惺が歩を緩めながら、口早に言う。
「首の数珠を外せ」
「は?」
「いいから早く」
珂惟が解せないという表情をしながら、言われた通り首にかけた数珠を外す。 琅惺も自分のそれを外した。そして。
「これを君に」
琅 惺は自分の数珠を珂惟に渡しながら、
「この間、あの宿で一玉一玉撚りながら、『摩訶般若波羅蜜大明呪経』を唱え続けてた。おかげで私も解放されたんだ。君がこれを持てば、きっと君をも護ってくれるはずだ」
そう言って、代わりに受け取った珂惟の数珠を首から提げた。思按が身を乗り出し、
「そういえば、あの夜一晩中、何かを唱えていたな。聞き覚えのない経文だと思っていた。『摩訶般若波羅蜜大明呪経』とは何だ? 『般若経』の要約のようだったが、由来を知りたい」
「あれは、
「玄奘法師とはあの、仏典を求めて
頷く琅惺に、いっそうの驚きを見せる思按。
この頃の中国は外国に出ることを禁止していたため、密出国することになったのである。もちろん玄奘法師とは、後に三蔵法師の代名詞ともされる玄奘三蔵のこと。だがこの当時は出国後の行方も知れず、途中で息絶えたと誰もが思っていた。
すると珂惟は「はいはい」と言いつつ両手を挙げ、
「続きは寺でやってくれ。じゃあ俺たちは帰るから」
言うなり二人に背を向ける。
「待たせたな」門をくぐると、然流が言われた通りおとなしくその場で待っていた。背後からは、「そんな経典があったなんて。もし原典を持っているなら見せて欲しい」と熱く語る思按の声が聞こえる。
然流は声のほうを振り返り振り返りしながら、
「何だか、難しい話をされてるんですね……。でもお二人、大丈夫そうでよかった」
そう言ってホッと息をつく。珂惟はそんな然流に頷いて見せ、
「かすり傷だったってさ。知らせてくれてありがとな」
そこで珂惟は、背後を歩く茗凛に笑いかけると、
「まっすぐな人だよな、兄さん」
「……そうね。融通利かない人だわね」
茗凛は苦い顔で頷いた。
「だけどブレてない。誠実な方だ。あんないい兄さんがいるなんて、うらやましいな」
一転、真面目な顔で珂惟が言うものだから、茗凛は戸惑ってしまって、「あ、うん」と言いながらうつむいてしまう。
「何照れてんだよ」と珂惟に笑われたが、茗凛はぎこちなく笑うことしかできなかった。
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