第50話「悪意の手」
「どうした?」
そこでばったり出くわしたのは、当の
驚いた表情を見せる彼はいたって元気そうで、思わず、とばかりに
「
「なんだ聞いちゃったのか。別にたいしたことはないんだけど。――まあ、あの様子を見たら、驚いてしまうのも無理はないか」
言いながら背後を振り返った琅惺に二人は近づき、揃ってその目の先を追う。ぱらぱらと見える人影。その間から胡楊樹の大木が倒れているのが見えた。中が空洞とはいえ、下敷きになったらとても無事ではいられそうにない太さだ。
「私は転んだときに腕に擦り傷を負ったくらいだよ。
「
「思按さまも大丈夫だよ。樹皮で手や顔を少し切られていたけど。――そんなことより、いくらなんでもまずいだろ」
言いながら琅惺が目を落とした。彼が見ているのは、茗凛の手首をつかんだままの珂惟の手。
「あ」二人が同時に声を上げたとき、
「おまえたち……」
背後から、殺気立った声がする。振り返るまでもなく正体が知れた。
パッと手を放した珂惟が背後を振り返り、「すみません! 琅惺が怪我をしたって聞いて、慌ててたものですから」一気に言うと、深々と頭を下げた。それはきっぱりと、潔く。思わず茗凛もそれに倣った。
思按はそんな二人を見て苦々しい顔で息を吐く。茗凛が顔を上げると、思按の顔や首筋に細かな傷が走っているのが見えた。「やだ大兄、大丈夫!」茗凛が声をあげたその時。
「珂惟じゃないか! おまえ、ナンだってこんなところにいるんだよ!」
ベタついた大きな声は、いつも琅惺のお供をしている沙弥だった。
彼はおおげさに辺りを見回し、
「然流のヤツ何やってんだよ。まったく、ホント使えないヤツだな。珂惟、おまえは
沙弥は言いながら、「しっしっ」と、まるで野良犬に対峙しているように何度も手を振った。
「よさないか」
声と同じく冷ややかな視線を沙弥に向けたのは思按である。
沙弥は不服そうに口を尖らせ、
「――ですが、上座のお言いつけですし……」
「私が説明するゆえ、そなたが気に病むことではない。もう行くといい」
誰が聞いても明らかに怒りと侮蔑の滲んだ声に、沙弥はきまり悪そうにそそくさと、その場を去っていった。
「こわ」呟いた珂惟に、思按が鋭い一瞥を投げる。そして、
「ついて来い」
そう言うと、思按は倒木の方へ歩いていく。
倒木は講堂の向こうにある。珂惟が入ってはならないと厳命されている区域だ。なので珂惟が思わず「いいんですか?」と先を行く思按に問うと、思按は足を止めて振り返り、「私が構わないと言っている」
再び大股で歩き出した思按の後を、三人は慌てて追いかけた。
倒木を囲んでいた沙弥や行者たちが、思按に気づいて空間を上げる。そうして彼の背後に琅惺と茗凛だけでなく珂惟がいることに「いいのか」といった驚きの声を上げるが、思按は意にも介さぬように、
「このままでは危険だから始末しよう。人手がいる。おまえたちは人を呼んで来い、おまえたちは鉈を。おまえたちは荷車を」
次々と指示を飛ばすと、それに応じて人々が散り散りに去っていった。
あっという間に四人以外、誰も居なくなる。それを見計らったように、「こちらへ」思按は折れた木の根元に手招きした。
歩き出した珂惟と琅惺に従おうとした茗凛だったが、
「おまえは辺りを見ていろ」
と思按に命じられてムッとしたけれど、どうにか収め、仕方なくその場にとどまる。
「ここを見ろ」
背後から思按の声。続いて「あ!」「これは……」二人が息を呑む気配がする。茗凛が思わず振り返ると、三人は身をかがめて折れた根元を凝視している。
「――てっきり木が腐って倒れたんだと思ってたけど……。この断面、自然にじゃない。誰かが、意図的に切り込みを入れてる」
「そうだ。実は私は先ほど、境内に見慣れぬ者を見た。辺りを気にする様子があったので不信に思いひそかに後をつけていたら、この胡楊樹に姿を隠した。そこに琅惺が姿を現した。するとその者が、木の幹を押して――」
「それでダァン! と言うわけか。中は空洞だから、切り込みが入ってさえいれば、倒すのはそう難しい話じゃない」
言いながら珂惟が手を倒して見せる。それに対し思按は無言で頷いた。
そして今度は琅惺に向き直ると、いささか厳しい声で、
「おまえは何をしていた? あの時間は講義に行っているはずだが」
「はい。確かに然流さんとともに講義には行ったのですが、講師の方が体調不良ということで、急遽休講になったのです。それで急ぎ帰り――」
「何をしていた?」
「あの建物を見ておりました」
琅惺が指さしたのは、倒木の少し先にある、件の建物だ。
思按はしばしその建物を凝視していたが、「なるほど」と言うなり、何かを考え込んでいる風だった。
ゆっくり正面に向き直った茗凛が、驚いたように目を見開く。
慌てて振り返り、「大兄!」
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