巻の五「思惑――思慕と意志」
第36話「昼下がりのお見舞い」
舞台は散々だった。水は零さなかったものの、いくつか振り付けが抜け、楽団の困惑を見てまた焦り、とちってしまった。おかみに
向かった先は城内の北西角、
『お見舞い』を手に、茗凛は一人、住宅街を抜け、内門をくぐり、大路を北に進んだ。左街に入ってすぐ市場も通ったが、いつもなら色々な匂いや呼び声にいちいちひっかかっては足を止めているところを、「おっ、姉ちゃん……」と声をかけて来た馴染みの
「こんにちはー」
しーんと静まり返った長い廊下の向こうに声をかけると、薄暗い宿の奥から出てきたのは、誰あろう珂惟だった。病人らしく白い単衣に袖なしの長い上着である黒の半臂を羽織っているが、いたって元気そうだ。
「なんで、誰もいないの?」
茗凛がびっくりしていると、珂惟はにやりと笑い、
「他の連中は寺で修行中だよ。
――ちょっと待ってつまり、今、私たち二人きりってこと?
さっきまでの色々なもやもやがぶっ飛ぶ展開だ。どうしよう。
――だからなんでこの人この状況でフツーなんだろう。慣れてるの? それってつまり……。などと悶々としていたら、珂惟がそのまま外に出てきて、
「一日中せっまい部屋に閉じこもっててクサクサしてたトコだ。ちょっと外の空気を吸うくらいいいだろ?」
そう言うと、入り口脇の置かれた長椅子に雑多に積み上げられた籠やら箱をどかして座った。隣の空間を何度か手で払うと、
「どうぞ、お嬢さま」
「あ、ありがと。あ、これお見舞い」
よかったような、肩透かしなような……複雑な思いを抱えながら、茗凛はとってつけた言葉と共に包みを珂惟に渡し、その横に座る。珂惟は包みを解くと、「うわこれいいお茶じゃん。おかみさん奮発してくれたんだ。なんか申し訳ないなあ」と言ってたと思ったら、
「あ、おばちゃん。ちょっとお湯沸かしてくんない? お茶淹れて欲しいんだけど」
と、通りかかった初老の女性に気安く声をかけるではないか! まるで親戚のおばちゃんのようだけど、そんなのが
驚いている茗凛の目の前で、その女性は「はいはい」と別段不満な様子も見せず、すんなりと包みを受け取る。そして、珂惟と茗凛とを無遠慮に、交互に眺めると、
「かわいいお嬢さんじゃないか。おまえのコレかい?」
にやにやしながら皺っぽい小指を立ててみせると、女は笑いながら隣の家に姿を消した。動揺激しい茗凛は、女の家をしげしげと眺めた後、
「――随分仲良しなのね」
「お隣で毎日顔を合わせてるんだから、当然だろ」
いやいや、ここに前からいる行者たちがあんなにご近所と打ち解けてるのは見たことないって。比較的人当たりのいい然流だって、ぼそぼそと挨拶をしている程度だったけど、と茗凛は思う。
ホント人馴れしてるよなー、珂惟って。思うだけでなく、そう口にした。すると。
「俺、結構人見知りよ」
珂惟は立てた片膝を抱くようにして茗凛を見ている。茗凛はけげんな顔で、
「は? 珂惟ってば、人見知りの意味分かって……」
そこでふと、
「――何だよ言いかけて。やっと思い出した? 俺の方がおまえよりモノ知りだってこと」
ぐっと来たが、事実なので反論できない。だけどなんだか治まらないので悔し紛れに、
「じゃあ甘え上手だよねー。女の扱いが上手っていうか。特に年上のお姉さま方に」
と、嫌味ったらしく言ってやる。が、珂惟は不快な様子を見せることもなく、
「ああ、確かに。下手な男といるよりは、女といるほうがよっぽど気安いね。女ばっかのとこで育ったせいだろうなあ。お姉さま方の機嫌は死活問題に関わったし」
「女姉妹ばっかりだったの?」
「いや。俺は母一人子一人だったよ。でも俺、寺に入るまでは妓楼で育ったから」
またしても茗凛は言葉を失った。妓楼と言えば、男客に酒をふるまいつつ芸と、春を売る場所のことではないか!
ということはつまり、珂惟のお母さんって……。
「あ、俺の母さん妓女だから」
――やっぱり!
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