第35話「大喧嘩」

琅惺ろうせいさん、何だって?」

 舞台がはねて、茗凛めいりん珂惟かいとともに胡楊樹の下にいた。立てた両膝に隠すようにして珂惟が開いた手絹ハンカチには、判を押したかのように形の揃った文字が、定規をあてたかのようにまっすぐに並んでいる。

「俺が『寺に不穏な動きあり』って書いて送ったら『同意だ』だってさ。やっぱりな」

「で?」

「明日、上座はいないらしいぞ」

「え?」

「だから宿で寝てろってさ」

「は?」

「じゃあ今日は帰るとするかな。具合悪いって事で」

「ちょっと、意味が分からないんだけど」

 たまらず抗議する茗凛に、珂惟は軽く畳んだ手絹を手渡すと、おもむろに立ち上がった。

「『――直接会って話したい。上座は今晩から明後日まで不在だから、明日、講義帰りに宿に寄る。おとなしく寝て待ってろ』だってさ」

 茗凛もつられるように立ち上がり、

「なるほど。それなた今から具合悪くしといた方が説得力あるもんね。――で、なんでこれを私に」

「宿に持っていって下手に見られたらヤバイだろ。これ洗っておいて。――じゃ、挨拶して帰るから、ちょい心配げについて来いよ」

 ――なんてヤツ! という声は呑み込んでおいた。

 頭を押さえながらよろよろと歩き出した彼の横に並び、いちおう「大丈夫?」などと言いながら天幕に向かう。情の篤いおかみはやっぱり大騒ぎで、「今日のお昼が悪かったかしら」(頭押さえてるんですけど)、「やっぱり長安とは違うから、身体がついてこないのかしら」(もうすぐ来てから三ヶ月目に入るんですけど)とオロオロしたあげく、「医者を呼ぶ」などと言い出すものだから、慌てた。

 しかし珂惟が神妙な顔で、

「昨夜、経典を遅くまで読みすぎたせいだと思いますので、今日は帰って寝ます」

 などと言うものだから、「さすが長安から来た方は違いますわ」おかみは妙に感心、かつ納得? した。

 おかみは三兄さんにいに珂惟を宿まで送るよう命じ、細かい指示を出しながら連れ立って天幕の中に入っていく。その隙に、珂惟は隣に寄り添う形の茗凛に、

「じゃあまた明日。宿で待ってるから」

 小声でそう言うと、何やら包みを手に再び外に出てきた三兄に「悪いな」と弱弱しく声をかけると、心配する三兄に背中を押されながら、見送るおかみたちに会釈を残して帰っていった。まったく、悪党なんだから――思っていた茗凛に、おかみが近づき、

「おまえ、気づかなかったのかい?」

 やや咎めるように訊いてきた。

 気づくわけないじゃん、だって仮病だし! という声は呑み込み、

「そういえば、昼夜の温度差がキツイって言ってたわ。――もうすぐ九月。最近、夜寒くなってきたもんね。秋が来たら一気に冬だし、急激な気候の変化に身体がついていかないのかも。心配」

 我ながら棒読み……と思いながら茗凛は、とりあえず笑わないように必死に自制した。

「まあ一晩休んで、治ればよし。そうでないなら、なんとかしてさしあげないと。だいたい、あの宿が悪いんだよ。今にも倒れそうなオンボロ。いるだけで具合が悪くなりそうだ」

「本当ですわ。明日の朝、お寺に窺うときに様子を見てまいります。あんまり良くないようでしたら、私の方からお寺の方に申し上げますわ」

「そうしとくれ」

 おかみと霞祥かしょうの話が話すのを見ながら、茗凛はそっとその場を離れた。珂惟に言われたとおり、手絹を洗ってしまおうと思ったからだ。

 天幕の裏手に向かいながら、懐から手絹を取り出した。それを広げ、「『書は人なり』って聞いたことあるけど、ホントだなあ」などと言いながら歩いていたら、ドンッ! 何かにぶつかり、茗凛はしりもちをつく。

「いったー」

 言いながら立ち上がろうとした茗凛は、目を疑った。

 目の前で彩花さいかが、手絹を広げようとしていたからだ。「ちょっと、やめて!」茗凛は彩花に飛びかかり、手絹を掴む。しかし、彩花はそれを頑なに放そうとしない。せめて読ませないようにしないと、と茗凛は手絹を両手で握り締める。その手を解こうとする彩花。

 「放しなさいよ!」「放さない!」女二人でしばらく押し問答をしていたが、深窓の令嬢と毎日営業する踊り子である。地力の違いは明らかだった。

 茗凛が遠慮を捨てて本気で手絹を奪いに行ったことで勝負あった。今度は彩花が地面に転がされるだった。

 その時には、手絹は二人の汗やら砂ぼこりやらですっかり滲んでいて、もはや判読不可能な状態だった。

 茗凛はほっとして、それを荒く畳んで懐に入れながら目を伏せると、しりもちをついている彩花が目を真っ赤にして、茗凛を睨みつけていた。

「何でいつもそうなの? 色んな男に媚を売りまくって、いやらしいったら」

 一瞬、何を言われているかが分からなかった。

 「色んな男」「媚」「売りまくって」「いやらしい」その聞きなれない単語が全て、自分に浴びせかけられた暴言だと気づいたとたん、茗凛は怒鳴り返していた。

「言いがかりもいいところよ! あんたが盛り上がりすぎちゃうから、相手の男が引いちゃってるの分からないの? 私はフツーに話してるだけ。ヘンな勘ぐりはやめて!」

「嘘! この間の隊商の人も、その前の旅人も、私の気持ち知ってて、目の前で仲良くしてたじゃん。――今だって、普段は珂惟さんとイチャイチャしてるくせに、琅惺さんにまで。私の邪魔をするのが、そんなに楽しいの?」

「私はフツーに話してるだけだっていってるじゃん! だから、『好き好き』って空気全開で押しまくるから、相手は引いちゃうんだってば! なんでそんなことも分からないの? まして琅惺さんはお坊さまなんだから、受け入れられるわけないじゃん。もう、いい加減やめなよ。ここからいなくなる人にばっかり熱を上げるの。琅惺さんだっていつかは帰るんだから」

「私がついていけば、何の問題もない!」

 キッパリした台詞に、茗凛は驚かされる。

 好きな男のために敦煌とんこうを離れるなんて――そんなのありえない。まして彩花は一人娘なんだし、いくら娘に甘い親でもそんなこと許すわけないのに。

 本当に考えが甘いお嬢様なんだから! じわりと怒りが湧き上がった。

「だから、琅惺さんはお坊さまなんだから無理って言ってるでしょ! それに、長安には待ってる人もいるんだから、付いて行ったって、泣いて帰ってくるのがオチよ」

 彩花の顔色がサッと変わる。

 しまった! 私ってば――怒りに任せて余計なこと……。

「何を騒いでるんだい」

 振り返ると、おかみと霞祥が立っていた。「あ……」茗凛は言いかける。と、脇をダッと彩花が走り抜けていった。「ちょっとお待ち!」おかみの叫びにも彼女は振り返らなかった。

 結局彩花はそのまま戻らず、次の朝も姿を見せなかった。

「珍しいわね、喧嘩?」

「……まあ……」 

 霞祥に聞かれたが、茗凛は口ごもることしかできない。言い過ぎてしまった、謝らなければと思う。だけどそれと同じくらいに――投げつけられた言葉を思い出すと悔しくて、許せない。

 あそこまで言うなんて酷い。言いがかりもいいとこよ。向こうが謝ってくるまで、こっちだって謝ることなんてない! という思いもまたある。 茗凛の心は乱れていた。いつもなら「おはよう」と声をかけてくる珂惟の姿が門前にないから尚更だ。

「今日は珂惟さんいないわね。よっぽど悪いのかしら……。寺の方に言っておかないと」

 きっと重病を装うだろうと思っていたから予想していたことではあったが、今、無性に会いたかったからなんだか切なくて、茗凛は泣きたい気持ちになった。



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