第34話「まとわりつく視線」

「あら、また会っちゃったわね」

 笑顔の茗凛めいりん

 その背後で珂惟かいは当惑、正面では琅惺ろうせいが驚愕、その前に慌てて立ちはだかった沙弥しゃみが迷惑そうな顔をしている。

「今日も暑いわねー。あら、琅惺さんたらすごい汗。これ使って」

 言うなり、茗凛は沙弥を押しのけてずかずかと琅惺に近づき、ただただ驚いている琅惺に、懐から出した手絹ハンカチを押し付ける。そしてすぐさま身を返し、

「あらあなたも。日差しが強いんだから、もっとちゃんと笠を被らないと」

 琅惺を振り返ろうとした沙弥に手を伸ばし、「えいっ」と笠を目深に下げた。

 「ちょっと!」と抗議の声を上げる沙弥に、「ごめんなさい。力が入りすぎちゃった」と茗凛は笑う。目の端に映る琅惺が、さりげなく沙弥に背を向け、手絹を広げているのが見えた。抗議する沙弥を「まあまあ」と珂惟がなだめている。

 手絹をすばやく折りたたんだ琅惺はゆっくりと向き直り、

「――私もそう思っていた」

 茗凛に向かって笑顔を見せると、

「ありがとうございます。これは洗って、明朝お返しします。では参りましょう」

 珂惟を一顧だにすることなく、琅惺は身を返した。その素早さに、沙弥は「はあ」と間抜けな声を上げると、とってつけたように茗凛と珂惟を睨みつけ、慌てて琅惺の後を追った。

「大成功ね!」

 両手を胸元で固く組み、片足まで上げて浮かれる茗凛の隣で、

「いやもう……何が何だか」

 何もさせてもらえなかった珂惟は、往来をアゼンと眺めていたが、「まあいっか」と独り言のように呟くと、踵を返した。

そういえば、彼は何も訊いてこない。ただ私の言うがまま動いてくれている。そんなさりげない優しさが、今は泣きたいくらいにありがたかった。。


 翌朝、いつもどおりに三人で報恩寺へ参拝に向かった。相変わらず珂惟は門前で掃除をしている。「どうにかする」と思按あには言っていたけれど――茗凛はふと思う。

 だけど珂惟が今までの留学生と同じ扱いをされるようになれば、ずっと寺で修行や講義の毎日だ。もう一座に遊びに来ることもなければ、一緒に昼食を食べることも、城市まちを歩くこともできなくなるだろう。そう思うと、なんだか切ない。

 自分で言い出したことなのに。きちんとした扱いをされた方が、珂惟にはいいに決まってるのに。

 ふと横を見ると、霞祥かしょうの向こうを行く彩花さいかは相変わらず暗い顔をしている。ずっと目を伏せたままで、茗凛には目を合わせようとはしない。だけど時々視線を感じる。それがねっとりと絡みつくようで、身体が重い。

「おはよう」

 珂惟の声に答える。ホラまた、背中に痛い視線。振り切るように茗凛は、大急ぎで境内に入った。何だろう、何が気に入らないんだろう。あれから彩花の前で琅惺さんと話をしてはいないのに――。

 いつもどおりに本堂に上がり、観世音菩薩に手を合わせる。なんだか色々ともやもやする。いつもならもっとすっきりと菩薩様に向かい合えるのに……。

 気もそぞろにお参りを追え、茗凛は先を行く二人の後に従い、本堂の階段を下りる。

 琅惺ろうせいさん、手絹ハンカチを返すって言ってたけど、どこにいるんだろう。どこにも姿が……。

「茗凛、行くわよ」

 キョロキョロ歩いていたら、前のほうから霞祥の声がした。見れば二人は、今まさに門から出ようとしている。茗凛は慌てて、「あ、ごめんなさい今――」言いながら足を早めた。とたん。

「ギャン!」

 裾を思いっきり踏みつけてしまい、思いっきりコケた。境内には参拝者の姿がちらほら。その視線が自分に集中していることはハッキリと分かる。ありえない、いい年してこんな――顔が赤くなるのを感じながら茗凛が起き上がると、

「大丈夫?」

 そう覗き込んできたのは、どこから現れたのか琅惺だった。茗凛は慌てて立ち上がり、

「だ、大丈夫!」

 つい今しがたまで探していた人物が目の前にいることをすっかり忘れて、大慌てで裙子スカートを払った。琅惺はさっと懐に手を差し込み、「これを」

 差し出したのは件の手絹。小さな黒文字が浮かぶそれを茗凛は大慌てで受け取り、一言。

「あ、ありがとう」

 無事に会えた安堵感と恥ずかしさが入り混じり、笑みが照れてしまう。琅惺は小さく頷くと、「気をつけて」と声をかけ、その場から立ち去った。

 「茗凛、大丈夫?」慌てて寄ってきた霞祥が声を上げているのを背後に聞きながら、茗凛は手絹でパタパタと上衣と裙子を叩いた。よかった、服が破れてなくて。

「ごめん、もう大丈夫だから」

 そう言って振り返ると、そこにあったのは突き刺さるような彩花の視線。思わず、動けなくなる。

「もう茗凛たら、気をつけなさい。怪我なんかしたら、商売上がったりなんだから私たちは。あら、こっちも汚れてる」

 言いながら霞祥が背後に回り、肩を叩くのに、茗凛はされるがままだ。そこでハッと気づく。彩花の目が、手にした手絹に注がれていることに。しまった。

 ――見られた?

 茗凛は慌ててそれを懐に入れる。

「ありがとねえさん」

 茗凛は肩越し振り返り霞祥に声をかけると、努めて明るい声を出しながら、

「ごめん、お待たせ。さあ帰ろ」

 彩花の視線など全く気づいていないかのように、軽やかにその脇を通り過ぎた。

 だけど騒がしい心音。彩花って確か読み書きができるのよね……。

 でも――大丈夫! 何が書いてあるかなんてあの距離じゃ見えっこないし。ただの汚れにしか見えてないハズ。転んだ参拝者に手を貸し、手絹を貸してくれる――優しいお坊さんなら、別に不自然じゃないわよ、誰にだってすること。それにわざと転んだわけじゃないし。私が妙に抜けてるのはみんな知ってることだし。それに、彩花の目の前で琅惺さんと話をするよりはずっとマシだし。だから無問題! 

 あとはこれを、珂惟に渡さなくっちゃ――そんなことを考えながら、茗凛は絡みつくものを振り払うように、帰路を急いだ。


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