第33話「知られたくない思い」

 それから。

 茗凛めいりんは天幕に戻るまでにどうにか涙を収め、何度も顔を洗った。こんな顔で舞台に上がるわけにはいかない――と思っていたら霞祥かしょうが、

「ちょっと具合が悪いみたい。舞台前まで少し休ませましょう」

 と、うまくごまかしてくれたおかげで、茗凛は風通しのよい天幕の陰で横になることを許された。霞祥が水に濡らした珂惟かい手絹ハンカチを持ってきて、「これで目を冷やしておきなさい」と言って、腫れた瞼にそれを置いてくれた。ひんやりとして、とても気持ちがよかった。

  珂惟が来るまでには起き上がり、いつもどおりに舞台の準備をした。

 天幕に入るなり三兄弟とふざけている茗凛に出くわした珂惟は少し戸惑ったようだが、すぐにその輪に入ってきた。いつもどおりだ。

 舞台も無難にこなした。

 両手を上げて観客の声援に応えると、知った顔や知らない旅人たちに混じる珂惟が、いつも以上に拍手をしてくれているのが見えた。やはり心配してくれているのだ。それはありがたくもあり、申し訳なくもあり、そして気恥ずかしかった。

 きっと「どうしたんだろう」と思っているんだろうな。自分が声をかけたらいきなり泣き出しちゃったんだもん。そりゃ気になるよね。自分のせいかと思っちゃうよね。全然そうじゃないって言いたい。

 でも、どう説明したらいいのか分からない。そもそも――言いたくない。

「お疲れさま」

 天幕に向かうと、入れ違いで出てきた霞祥がそう言ってにっこりと微笑みかけてきた。茗凛も笑顔で返し、中に入る。

 そこへ彩花がいつものように手巾タオルを差し出してきたが、自分に目を合わせないようにしているのは明らかだった。

 表情が固い。チクリと刺さるものを感じるが、茗凛は「ありがと」普段どおり軽やかに礼を言ってそれを受け取りながら、反対の手で頭上の小皿を取った。水の入った杯子コップを手にしたおかみが心配げに近づいてきて、

「少し休むかい?」

 茗凛はゆるく首を振りながら杯子を受け取り、すぐ口にすることで無言を保った。今、何かを話すのはヤバいと自分でも思うからだ。

 汗を拭き、水を飲み、着替えながら茗凛は心で反芻する。「ねえ珂惟、思ったんだけど」

 よし、これで行く。これで押し切る。きっと彼はこちらを伺いながら、じっと外で私を待ってる。

「少し出かけてくるね」

 中にいる女二人の反応を待たず、茗凛は天幕を出る。手にした珂惟の手絹を握り締めながら、「大丈夫」と何度も自分に言い聞かせる。

「お疲れ」

 人ごみをすでに抜け出していた珂惟は、茗凛の姿を認めると笑顔でそう言ってきた。茗凛は大股で珂惟に近づくと、「ねえ珂惟、私思ったんだけど」

 珂惟が「な、なんだよ」とたじろぐほどの勢いで身を乗り出し、手絹を突き出すと、

「これに書いてもらえないかしら。琅惺さんへの伝言を」

「は?」

「ほらあの、兄がうるさいから! ああいう時だけ兄貴面して参っちゃう。この間、琅惺ろうせいさんと話してるのやっぱり見てたみたいで、出家者と寺内で話すのはあーだこーだって。そんなんじゃないって言ってるのに、全然聞いてもらえないから悔しくって」

 自分ながら無理やりな言い訳だと思うが、白々しすぎて逆に勘繰られそうだけど、珂惟のことで兄に言われたのだとは絶対に知られたくない。でも何も言わなければ珂惟が気にするだろう――そう思い悩んだ茗凛が出した結論が、コレだったのだ。

「だから琅惺さんと話すの、難しそうなんだよね。でも手絹を渡すくらいなら、なんとかできそうだから。ほら私、字が書けないし。だから珂惟が書いて」

「わ、分かったよ」

 二人は人の輪から外れた胡楊樹の下に移動し、そろって座ると、珂惟が懐から細めの竹筒を取り出した。中から抜き出した筆を、広げた手絹にさらさらと動かす。 あっという間に書き終えたそれを受け取った茗凛は立ち上がり、風に当てて乾かしながらしげしげと眺めた。全く読めないが、流れるような字体は美しく女性の手蹟のよう――なんでもできるんだな、茗凛は改めて珂惟に感心する。

「よーし乾いた。じゃあ行こう!」

「どこへ?」

 筆をしまいながら珂惟が、困惑も露に茗凛を見上げる。茗凛は手早く手絹を畳むと、

「琅惺さんに会いに行くのよ」


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