第32話「報われない思い」

 思按しあんが足を止め、振り返る。隠せない驚きがそこにはあった。

「そうは言うけどさ、だって珂惟かいはこの寺に満足にいられないじゃない! 彼の行動を監視する人はいても教えを授ける人なんていないのに、『預かった意味』って何? ここの寺のどこが、珂惟の合格を後押ししてるっていうの? ――兄さんは、いいと思ってるの? 長安から来た仲間との接触も許されず、寺にも満足に入れてもらえず、知らない土地で一人ほおっておかれてるような、彼の扱いが」

「……よくは、ないと思う」

 目を伏せた思按は、そう口ごもった。やはり嘘がつけない兄なのだ、茗凛は思いながら、

「ほら、やっぱり。じゃあどうしてそれを止めさせないのよ。留学名目で敦煌とんこうに来ているんだから、せめて他の行者たちと一緒に学ばせるべきだと思うし、今までの人たちはみんなそうだったじゃん。何で彼だけ、『特別扱い』なのよ」

「それは何度も上座かみざに申し上げた。しかし……きっと何かお考えがあってのことなのだ」

「お考え? そんなの……」

「もういい、それ以上は言うな」

 ここぞとばかり大嫌いな上座の悪口を言わんとする茗凛の言葉を思按は遮ると、彼はずいっと茗凛に近づく。すいぶんと怖い顔をして。

 茗凛が思わず後ずさると、胡楊樹にドンと当たった。背中がチクリとし、パラパラと樹皮が足元に散った。

 「何?」茗凛は動揺を隠すように兄を見上げる。すると兄は少し顔を曇らせ、

「彼のことは、私が必ずどうにかしよう。約束する。だから――おまえはもう、彼には近づかないほうがいい」

 低く、早口に紡がれた言葉。だけど茗凛の耳にはハッキリと届いた。

「どうして!」

「言っただろう。彼は長安に戻る身なんだと。これ以上深入りしたら、おまえは後で辛い思いをする。これは絶対だ。だから」

「――そんなこと」

「言われなくたって分かってるわよねえ、茗凛」

 声に、兄妹が揃って振り向く。

 そこには霞祥かしょうがいた。霞祥は柔らかな笑みを浮かべたまま思按の傍らをするりと抜け、茗凛の横に立つ。その両肩に手を置くと、

「私、昨日も申し上げましたでしょう? 思按さまがご心配なさるようなことはないって」

 霞祥は口元に微笑みをたたえたまま、毅然と言う。

 対する思按は目を伏せ、何事かを考えるようにしばし無言だったが、やがて気を取り直したように顔を上げると、

「苦悩の道に近づく者を止めることを、間違いだと私は思わない。まして――茗凛は私の妹なのです」

「――報われないことは、全て無駄だと?」

「そうではない。そうは言っていない。とはいえ、不必要に自らを痛める必要はない。報われないと自分で分かっているなら、なおのことです」

「それは、思按さまのご心配なさることではございません」

「――報いてやれぬ者はどうなる。目の前で不幸になる者を、ただ見ていろと」

「他人の幸不幸を察することができるとお思いになっているなら、それは傲慢な勘違いですわ。幸不幸は自分で決めます。――厳しい砂漠に咲く紅柳タマリスクの紅色をまとって踊っているんですよ、私たちは。楽しいことも辛いことも全て吸い上げて、見事に咲いてみせますわ」

 そう言い切って、霞祥は茗凛の身体を引き寄せた。そして「ね」と笑いかける。

 霞祥は再び思按に向き直ると、

「私は九の歳に一座に身を寄せました。以来十年、茗凛とは起居を共にしております。私にとっても茗凛は大切な妹です。同じ立場の者として、これからも、ともに妹を見守りましょう」

 思按はしばらくの間、黙って霞祥を見ていた。

 が、やがて深々と頭を下げる。ゆっくり頭を上げると、踵を返し、その場を去っていった。

「さあ、私たちも帰りましょう」

 ことさらに明るい霞祥に背中を押され、茗凛は歩き出す。

 門前で、珂惟が箒を持ったまま、こちらを伺っていた。

「珍しい。あの兄貴と兄妹喧嘩?」

 からかうように珂惟は訊いてきた。そんなのは別に、珍しいことではない。いつものことだ。

 なのに。

「――ちょっと待て。おい、どーしたんだよ」

 珂惟が箒を取り落として驚いている。

「ごめん、俺なんか悪いこと言った?」

 見たこともないくらいに動揺している。珂惟のせいじゃないのに悪いなって少し思ったけど、何か言わなきゃって思ったけど、何も言えなかったし、涙は止められなかった。

「霞祥さん……」

 助けを求めるように、珂惟が自分の横に立つ霞祥に目を向けているのだろう。見えなくても、手に取るようにわかる。そこでずっと肩を抱いていてくれる霞祥にまた、身体を引き寄せられた。

「そう、ちょっとした兄妹喧嘩なの。もう少ししたら落ち着くから、心配しなくても大丈夫。後でまたいらっしゃってね。おかみさんが腕によりをかけてお昼を作っているから」

 「さあ行きましょ」と肩を押され、茗凛は頷いた。すると、目の前に手絹ハンカチが差し出される。見ればそれは珂惟からで、彼は気ぜわしそうな顔をして茗凛を見ている。

 茗凛はそれを受け取り、「ありがと」と言いながら笑顔を作って見せた。するとまた新たな涙が頬を伝っていった。

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