第31話「いつか居なくなる人」

「おはようございます」

 箒の手を止めた珂惟かいが、こちらを向き、にこやかに声を上げた。

「おはようございます珂惟さん」

「おはよう」

「……。おはよう、ございます……」

 三人三様の挨拶を受けると、珂惟は一礼し、あっさりと背を向けた。そして再び箒を動かし始める。そっと隣の彩花さいかを見ると、声と同じく表情が暗い。最近ずっとこんな顔だ。どうしたんだろう、恋に悩んでるにしても、いつもとはちょっと様子が違う気がする。

「彩花、ひょっとして具合が悪かったりする?」

 何だか心配になって、茗凛めいりんはそう聞いた。だが、

「別に」

 彩花はそっけなく言うと、足早に境内へと入っていく。

 ――あれ? もしかして私に怒ってる?

 そう思うと、にわかに心が沸き立つ。そう言えば、昨日から満足に話をしてない。

 まさか、珂惟が言ってたように私が琅惺ろうせいさんと話してたから(しかも楽しげに)? でもだって、そんなんじゃないし! というか、彩花は強引過ぎるから琅惺さんは引いちゃってるだけなのに。そんなの、誰が見たって分かることなのに! ――もっとフツーにしなよって言ってあげようかな。でもそれじゃ、うまくいかせようとしてるみたいじゃない。そんなの、どだい無理な話だっていうのに。どうせ琅惺さんもいつかはいなくなる人だし、長安にいい人もいるならなおさらだよね……。

 そう思うと、わいていた怒りが静まっていく。いつか居なくなるんだ――あの二人は。


 いつもどおりに三人で参拝を終え、茗凛は本堂の階段を下りながら、「兄さんを探さなくっちゃ」と自分に言い聞かせていた。

 すると、

「あら、おはようございます思按しあんさま」

 先を歩く霞祥かしょうの声に目を上げると、そこに目当ての思按が居た。「おはようございます」

 思按は硬い表情で霞祥に会釈をすると、茗凛に目を向け、

「ちょっと来なさい」

 目と声が怖い。これは確実に叱る気だ――逃げたいけど、今は好都合だ、と思いたい。

ねえさんたち、先に帰ってて」と言い残し、茗凛はおとなしく思按の後に続いた。

 連れて行かれたのは、昨日琅惺と話をした胡楊樹の下である。

「昨日も話したことだが」

「――はい」

 とりあえずしおらしく聞くことにする。思按は大きく息を吸い込むと、

「いいか、今回彼が敦煌とんこうに来たのは、対立のあった道教側に『彼を罰した』と見せかけてほとぼりを冷まさせるためであって、つまりは彼の将来を守るための一時的な処遇だということだ。手段は感心しないが、彼が高僧二人の命を救ったのは事実。おまけに優秀だとも聞く。彼は将来有望な青年であり、いつかは長安に戻る身だ。分かっているだろうが」

 そこで思按は、茗凛の反応を促すように言葉を切った。

 しかし茗凛は、声を出すことができない。耳で何度も兄の声が渦巻く。――分かっているだろうが。分かってるよ。分かってるってそんなこと、最初から。

 思按は茗凛が何も言わないのを見て取ると、軽く咳払いをして続ける。

「彼にはしっかりこの地で勉学を積んでもらい、次の試験こそ優秀な成績で合格してもらわなければならないのだ。それでいてこそ、この寺で彼を預かった意味があるというもの。だから、おまえの無分別な行動で、彼の未来に傷をつけるようなことがあってはならない。敦煌観光だなどと遊びに連れ回す行為は、以後控えるように」

 一気に言うと、今度は茗凛の返事を待たず思按は踵を返した。

 だが。

「――勝手なこと言わないでよっ!」

 気づいたら、茗凛はそう声を張り上げていた。

 兄、とは言え、一緒に暮らしたことはない。兄が居ると知ったときには、思按はすでに出家者だった。突然の妹の出現に戸惑いはあったはずだが、元々情の篤い人だったのだろう思按は、できる限りで茗凛を気づかってくれた。そのくせ「出家した身だから家族などいない」となどとやたらに口にするのは、照れ隠しだと理解している。というのも茗凛に朝の参拝を薦めてきたのは、誰あろう思按だからだ。毎日言葉を交わすわけではないが、「ここに兄がいる」と思うと、それだけで心強さを感じる。逆に、彼が「近くに用があったから」と沙州賓館を訪ねることもままあった。そんな兄の気遣いに、茗凛は本当に感謝しているのだ。  

 そのうえ思按は茗凛よりずっと賢い。言うことはいつも正論で、いちいちもっともだ。だから兄に対して反論など、滅多にすることはなかった。まして声を大にしてなど――。

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