第10話「留学の理由」
「それで、大丈夫だったのか」
三人並んで寺を出たとたん、真ん中を歩く
「うん。私たちは大丈夫。座長が吹っ飛ばされて軽い怪我をして、楽器が何個か壊されたけど、その程度で済んでよかったわよ。あの上座と同じくらいの大男だったけど、
すると思按は、今度は左隣を歩く珂惟に目を向けた。その視線を避けるように珂惟は目を伏せ、
「――俺は別に。相手の力を、ちょっと逸らしただけで」
「確かにそうだったわね。でもその後、軽く叩いただけであの男倒れたじゃない。あれってどうやるの。ねえ教えて、私にもできるかな?」
茗凛が、間に立つ思按を避けるように身を乗り出して珂惟を見ると、彼も同じく身を乗り出してきて、右手で頭をかきながら「いやあれは、たまたま当たっただけだから。偶然だよ」と言った後に、「余計なことを言うな」と口だけを動かしてきた。
そこで茗凛は気づいた。彼が上げた腕で口元を隠していることに。
そうか。確かに暴力沙汰はまずいわね、修行者なんだから。
ここは話を変えよう、そう思った茗凛は慌てて、
「そう言えば、長安で何かあったの? 琅惺さんは、道教側から珂惟が身を呈して上座を守ったって言ってたけど」
頭をかくふりをして口元を隠しながら、「だからそういう話は……」と珂惟が茗凛に向かって口を動かした時、
「長安で道教側と何かあったのか?」
冷えた声でそう言って、思按が珂惟を見下ろした。
あーあ、会ったばかりなのにそんなにじっと見ちゃって。珂惟も目が逸らせないじゃないよ。こういうところが威圧的なんだよなあ。
珂惟は向けられる視線を受け止めながら、しばし口をつぐんでいたが、ふと視線を外し、「ドウソウカク」と一言漏らした。
「ドウソウカク?」
茗凛は彼の言葉をそのまま返したが、さっぱり意味は分からない。だが、
「……なるほど、『道僧格』か。では
末尾を濁す思按の言葉に、「ええ」短く答える珂惟。ただそれだけで二人は通じ合ったようだ。それ以上は何も言わず、二人は前を見て、黙って歩を進める。
茗凛は思わず口を尖らせた。
何よそれ、何なのよと問い詰めてやりたい。
だがそれ以上彼らが口にしないのは、自分に意地悪をしているからではないのは分かった。言う必要がない。もしくは、言うべきことではない、ということなんだろう。
ま、多分聞いても分かんないしね。そう結論付けると、茗凛は口元を解いた。
この時代、中国古来の宗教である道教と、西から伝来した仏教が勢力を二分しており、両者とも数多の信者を持っていた。故に両者は政治利用されることもままあって、当然のように仲が悪い。そのうえ王朝が唐に変わってからは、道教の始祖と唐王朝が同じ李姓であるという理由で、いかなる儀式においても「道前仏後」という道教を上とする政策がとられたため、仏教関係者は何とか国内第一の地位を取り戻そうと日夜頭を悩ませ、道教関係者はその地位を守ろうと必死なのである。
そして「道僧格」とは、乱れた寺院・道観を正すという名目で、唐王朝が数年後の頒布の目指していた法のことを言う。これまである程度の自治が認められていた宗教界を政治の支配下に置くことが目的であったが、当然起こるだろう強い反発を避けるため、あくまで主導は寺院・道観とする形をとり、選ばれた何人かの僧、道士が作成に意見を求められていたのである。その過程で道教、仏教側が揉め、問題が起きた――ということを珂惟は言った。思按は、寺での琅惺の話も含め、道教側が力ずくで仏教側を排除しようとしたことを理解した。その過程で二人の上座にも道教側の手が及んだのだと。公布前の法の話であったため、二人は多くを語らなかったのだ。
主要大路の一本西にある大路沿いに立つ法恩寺を北上したあと右折し、主要大路を通り抜けて左街に入る。
敦煌城内の北東角に法恩寺の行者や寺人たちが起居する宿はあった。夕日を受けるその建物は随分と古く、しかも宿が廃業して随分経ったものだから、かなりのオンボロぶりだ。入り口脇に置かれた乾ききった長椅子には、埃を被った籠や桶などが無造作に積まれていた。
門前を掃き清めていた行者が、三人の姿を認めると慌ててその場に箒を置き、合掌する。
「こ、これは思按さま。それに――茗凛さんも」
「
「珂惟と申します。どうぞよろしくお願いいたします」
「私は然流です。こちらこそよろしくお願いします。あ、どうぞお荷物を」
そうして然流に連れられて、珂惟は中へと入っていった。気が弱い、もとい、気の優しい然流が珂惟の世話役ならば、悪いようにはしないだろう。
そう思って茗凛はほっと息をつく。だが。
「さて」
振り返った思按の目と声に茗凛はびくりとする。
こういう時の兄は、言いたいことが山ほどあるのだ。確かに――今日は色々やり過ぎた。今頃おかみも、てぐすねを引いて待っていることだろう。これ以上は、もう勘弁だわ。
「さあ急いで帰らなくっちゃ。みんな心配してるわ」
慌てて回れ右をした茗凛は、歌うように声を張り上げ、足早に来た道を戻るのだった。
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