第9話「兄と妹」
驚いたように琅惺を宥めかけた珂惟の鋭い声が、こちらに飛んできた。
その視線を、他の三人が揃って追いかけてくる。
これは、どう考えても逃げられない。無様に逃げそびれるよりは……。
そう心を決めた
驚愕に目を見開いた
「こんなところで何をしている。ここはおまえのような者が立ち入るところではない!」
「――私は、そこのお坊さまたちに用があって。あの、落し物を、お渡ししたくて」
「落し物? では私が預かろう」
思按が厳しい目を向けたまま立ち上がり、茗凛の方へと向かってくる。
無論、落し物など嘘だ。それを知る
「おまえ何言ってるんだよ。いいからさっさと帰れって」
茗凛に身を寄せてささやいた。そこへ鋭い声が飛ぶ。
「無礼者! 妹に何をする!」
「うわ、よりによってあれがあんたの兄ちゃんかよ」
珂惟は口中に呟きながら、逆らいませんとばかりに両手を上げ、慌てて茗凛から離れた。茗凛は、琅惺を従える形で庭に下りてきた思按に向かい、
「無礼者なんかじゃないわ。この二人は、私たちの命の恩人なんだから」
「命の恩人とは、どういうことじゃ」
よっこらせと言って立ち上がった上座は、よたよたと庭に近づいてきて、こちらを見下ろしながら尋ねる。もちろん柱に寄りかかって、だ。
「はい、上座さま。この方々は、私たちの一座に因縁をつけて来て、大金をせしめようと暴れた無頼漢を取り押さえてくださったのです」
「何と! すでに騒ぎを起こしておったとは」
思按の声に、「うわあ」と頭を抱える珂惟のささやきが被る。しまった、とは思ったけど、もう後にはひけない。茗凛はキッと兄を睨みつけると、
「それはつまり、この方々は私たちを見殺しにした方がよかったってこと? お金をとられて、楽器を壊されて、私と
その言葉に、思按は衝撃の余り声が出せない様子。そこへ茗凛は畳み掛けるように、
「ウソだと思うなら、門前の誰にでも聞いてみるといいでしょ。この方々のおかげで、私たちは助かったんだから」
「お主の腕はそういうことなのだな。人助けであるならば、責めるわけにもいくまい」
上座は、扇子の先でよたよたと琅惺の右腕を指し示すと、くるりと背を向け、
「では思按、琅惺殿を僧坊にご案内し、今後のことを説明しておくように。珂惟とやらは、誰ぞに寺人宿へ連れて行かせよ。――実は今、訳あって寺の僧坊に空きがない。行者や寺人らは、寺外で借り受けた宿で起居し、こちらに通ってきておる。珂惟とやら、お主は他の行者らと明朝こちらに来るとよい」
言い捨てると難儀そうに巨体を揺らしながら、上座は奥へと引っ込んでいった。
その後姿を思い思いに見送った四人は、やがて、なんとなく向き合う形となる。 そこで思按が小さく咳払い。そして正面に立つ琅惺を見据えると、
「では僧坊に案内しよう。私はこの珂惟を宿に案内してから戻るゆえ、それまで体を休めているとよい」
「寺人宿なら知ってるわ。私が連れて行ってあげるから大丈夫よ、兄さん」
「ダメだ。この時期は
「あー、あの噂。でもあれって胡人(西域人)のことだし……」
「それに何より! 嫁入り前の娘が、行者とはいえ男と二人で歩くなど、とんでもない話だ。寺人宿に行ったのち私が一座まで送ろう」
「まだ明るいし、一人で帰れるわよ。それに男と二人でっていうけど、一座にも未婚男がいること知ってるでしょ。買出とか留守番とかで二人になるなんてしょっちゅうよ」
「おまえ、なんと無防備な……」
「兄さんってば、いったいいつの時代の話をしてるのよ」
呆れた、とばかりに大きな溜息をつく茗凛に対し、思按が叱責口調で言うには、
「だから兄と呼ぶなと申しておるだろう! 私は家を出た身だ。家族などおらぬ」
「うわ、すっげえ矛盾」
兄妹のやりとりに、のんびりとした声を上げたのは珂惟である。袖を引っ張りながら「君はどうして」と小声で咎める琅惺に対し、「え、だってそうだろ?」と意に介さない。つられるように琅惺は「そりゃそうだけど……」と言いかけ、慌てて口をつぐむ始末だ。
そんな目の前の二人に目線を流すと、再び思按は一つ咳払いをし、
「急ごう」
そういって身を返した。
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