(5)

「ねえ、落ち着いて。ね? 話そうよ」


 真っ暗な意識の中で、誰かの声が響いた。


「ね、お願いだから、ね」


 瞼が開いていく。だが、それでも暗がりが視界を覆っていた。


 ――ここは、どこだ?


 先程まで学校の屋上にいたはずだった。真っ赤な空に紳士風の山羊。

 自分は死んでいて、全ては自分の為に用意された地獄だと宣告された。

 突きつけられた真実を真実と信じる間もなく、強烈な頭痛に襲われ、気付けばここにいた。


 ――今度は何だ? 一体何が始まる?


「やめて、やめてよ」


 また声が聞こえた。幼い少女の声。

 夜の闇、頼りない街灯の中に、その少女はいた。少女は何かに怯えている様子だった。

 悟はゆっくりと少女に近付く。近付きながら、悟は妙な感覚を覚えていた。


 懐かしい。


 少女に歩み寄りながら、悟は今一度周りを見渡す。

 公園だ。この公園を、自分は知っている。そして、少女の声にも何故か聞き覚えがある。

 不思議な感覚だった。まるで想い出の中にそのまま入り込んだような感覚だった。


「きみ、大丈夫?」


 少女に声をかけてみるが、彼女は悟の方に見向きもしない。気付いていないというか、悟がそこにいるという事すら認識していない様子だった。


 ――見えてないのか?


 それでも何度か呼びかけてみたが、反応はない。

 やはり見えていないのだ。

 少女はどんどん後ずさり、壁際にまで追いつめられていく。しかし何に追いつめられているのかは分からない。彼女がどんな脅威に詰め寄られているのか、まるで分からない。


「ぼく、ぼく」


 その時、後ろの方でもう一つの声が聞こえた。

 今度は女の子ではなく、低くくぐもった男の声だ。悟は声のする方に顔を向けた。


 ――何だ、こいつ……。


 思わず悟の顔は引き攣った。

 背丈は普通の高校生ほどだが、その恰好はTシャツに膝丈のカーゴパンツとひどくその体格に不釣り合いなものだった。そして何より悟が不気味に感じたのはその顔だった。

 あべこべにつけられたバランスの悪い左右の目。半開きの口元から覗く無数の歯。

 醜い。

 単純にそう思った。恐怖を感じさせるほどの醜さ。そう思ってから、悟は思い出した。


 ――そうだ、こいつは。


 パズルの最終面で対面したあの禍々しい顔。そして、悟の悪夢にも現れた顔。という事は即ち、もう一つの答えに結びつく。


「ノーム」


 そうだ。こいつはノームだ。

 幾度となく別の世界で目にした存在だった。間違いない。悟は確信した。

 ノームの手には、錐のように先端の尖った何かが握られていた。


「駄目だ、逃げろ!」


 悟はとっさに叫んだ。こいつがノームだとしたら、少女の命が危うい。だが、悟の声は届かない。恐怖に震え、女の子は身動き一つとれないどころか、腰が砕けその場でへたり込んでしまっている。


「くそっ!」


 ノームはのそりのそりと着実に女の子に近付いていく。悟は少女のもとに駆け寄った。


「立つんだ! 殺されるぞ!」


 悟は少女の前に屈み、両手をその肩に伸ばした。

 しかし。


「なっ……!」


 悟の両手が女の子の肩を掴もうとした瞬間、悟の全ての指が少女の肩にめり込んだ。


「うわっ!」


 悟は慌てて腕を振り上げた。驚いて自分の指と少女の肩を交互に見やる。

 指はなんともなく、少女の肩にも何ら変化はない。

 混乱しそうな頭をなんとか鎮めようと努める。今目の前で起きた出来事。

 悟はおそるおそる、今度は少女の顔に指を伸ばした。伸びきった指が、少女の顔に触れる。それでも構わずそのまま指を進める。


「……ざけんなよ」


 進めた指は、少女の顔にずぶずぶと飲み込まれていく。しかし少女の顔が傷つき、血が流れる事もない。指を飲み込み、二の腕まで完全に少女の顔の中へと潜りこんだ所で悟は腕を引きぬいた。

 自分の体は、少女に触れる事は出来ない。全てすり抜けていってしまう。


「やだ、やだ、やだ」


 少女は首を振る。その言葉は悟に向けてのものではない。


「ほし、い」


 すぐ後ろで声がした。

 ああ、やっぱり。悟は思った。

 何度も聴いたセリフだ。


 ホシイ。


 確証が固まる。だが問題はそこじゃない。

 悟に少女を助ける事は出来ない。悟の姿を認識していない事にもようやく納得できた。

 悟はこの世界に存在していないのだ。

 そこにいるのに、いない。

 この世界を眺める事だけ許された存在。だけど何も出来ない。手を出す事も、語りかける事も。ただ、見つめる事しか出来ない存在。

 無力。


「ほしい。ほしい。ほしい」


 ノームと少女に挟まれるように、悟はその真ん中で、少女の怯えきった顔を見ていた。

 この子はきっと殺される。

 とても残酷に。とても残虐に。

 そうと分かっいても、何もできない。


「いやあああああああああああああああああああああああああああ!」


 少女が叫んだ。鼓膜がやぶれてしまいかねない程の叫び。

 そして、それは終わりの合図。


 後ろから勢いよく振り下ろされたノームの腕が、少女の脳天をかち割った。少女の体は

どさりと横に倒れ込んだ。

 目はあらぬ方向を向き。体がびくりびくりと痙攣している。口元からは涎がだらしなく垂れ流れている。

 後ろの気配が前に現れた。ノームは倒れた少女の頭の前に屈み、また腕を振り下ろした。


 ご。ご。ご。ご。ご。ご。ご。ご。ご。ご。ご。ご。ご。


 鈍い打撃音が何度も響く。少女の体はとうに自分の意志で動く事を止め、殴られる度に体を波打たせるだけの姿になっていた。頭に空けられた穴から多量に溢れ出た血液が少女の顔を真っ赤に濡らしている。悟はその様をただ茫然と見届けていた。

 しばらくして、ノームの腕が止まった。持っていた凶器を横に置き、少女の頭の穴に指を突っ込んだ。

 地獄絵図だ。

 あまりにも悍ましく惨い光景だった。


「ほしい」


 ノームは少女の頭の穴に何度も指を入れ、そして何かを摘みだし口へと運んだ。

 それを何度も何度も繰り返した。


「ほしい」


 ノームのくちゃくちゃと口を動かす音が静かな夜の闇で唯一の音だった。

 背筋を無数の虫が這い上るかのように、寒気が折り重なる。

 悟は気付いてしまった。

 全てに。


 懐かしい。


 ここに来て最初に感じた感覚。

 そう。それこそが全ての答えだったのだ。


「ほしい」


 悟の口から、自然と言葉が流れた。


「ほしい、ほしい、ほしい」


 ――そうだ。僕は欲しかったんだ。

 ――彼女が。彼女の脳みそが。


 不意に口の中でぐにりと柔らかい感触が現れた。

 悟はそれを歯で何度も押し潰した。


 ――ああ、この味だ。


 脳みその食感を悟は楽しんだ。

 これが欲しくて、僕は続けたんだ。

 近付きたくて。ただひたすら近付きたくて。


 ノームは食事を終え、最後に横に置いた錐を手にし、自分の左手の甲に這わせた。

 すーっと赤い線が浮かび、だらだらと血が流れた。


「い、いたい」


 ノームが悲しげに言った。

 その言葉を最後に、口の中に広がる記憶の味を噛み締めながら、悟の意識は再び遠のいていった。

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