(3)

「じゃあな」

「まったねー」


 放課後のお遊戯バスケでいい汗をかく日々が日常となり、楓と接する機会が増えた。そして、肝試しをきっかけにオカルトというもう一つの繋がりが更にお互いの時間を増やした。

 中学という多感な時期。そんな二人をからかう存在もあった。だが当の二人にそんな気持ちはまるでなかった。恋など付け入る隙もない。互いの興味はどれだけ恐怖心を掻き立てる話に巡り合えるかに重きを置いていたからだ。

 二人の時間はバスケとオカルトにどっぷりと浸かっていた。

 充実していた。

 その時間が奪われるなんて、微塵も思っていなかった。




「ねえねえ、今度さ、映画観に行かない?」


 バスケ終わりの帰り道、そう声をかけてきた楓の誘いはもちろんデートなんかではない。手にした映画のチラシは、アングラだがかなり怖いと噂の映画だった。


「それ気になってたんだよな。いいよ」

「ま、断っても連れてくけどね」

「あれ、もしかして一人で見る勇気ないとか?」

「へへーん。そんな下手な挑発乗らないわよ」

「この程度でビビるたまじゃないよな」

「じゃあ、今週の土曜ね」


 さっさと段取りをつけた楓は、そのまま自分の帰路へと先に行ってしまった。


 当日。

 映画館の前で悟は楓を待っていた。

 上映30分前。楓はまだ来ていなかった。

 珍しいなと思った。楓は決してルーズな性格ではない。事前に決めた集合時間に遅れる事などまずありえない。正直今日、自分が先に着いているという事実に悟は少々驚いていた。

 それから、5分、10分。楓はまだ現れない。

 さすがにおかしいと思った悟は楓の携帯に電話を入れた。

 出ない。コール音が延々と続き、やがて機械音声に変わった。


 ――何かあったのか?


 嫌な予感がした。電話にも出ないなんておかしい。悟は自転車に乗り走り出していた。最悪なイメージが頭を駆け抜ける。

 事故。事件。救急車やパトカーを見る度に、そこに楓が関わっているんじゃないかと気が気じゃなかった。息を切らしペダルを漕ぎ、楓の家の前に到着した。

 もう一度楓の携帯を鳴らした。やはり出ない。悟はインターフォンに指を伸ばした。その時。


 ガゴン!


 楓の家の中から、強烈な物音がした。何かと何かが激しくぶつかった音。

 伸ばした指を引っ込め、悟は楓の家の扉を勢いよく開けた。


「このガキィイイイイイイイイイイ!」


 甲高い怒声と共に、何かが割れる音が聞こえた。

 何か普通ではない状況である事は、もはや間違いなかった。


「楓!」


 靴も脱がずに玄関を上がり、目の前の扉を開いた。


 ――なんだよ、これ。


 扉の先のリビングは、まるでそこだけが竜巻に巻き込まれたかのように悲惨な有様だった。

 イスやテーブルは倒れ、食器類が割れてちらばり、家族団欒を楽しむ環境とは程遠い暖かみの欠片もない、完膚なきまでに蹂躙された空間。その部屋の隅に、楓がいた。そして、彼女を追いつめるように悪魔がそこに立っていた。


「楓……」


 呼びかけたつもりの声は全く声にならなかった。

 恐怖。自然と全身が小刻みに震えていた。視界の中での楓も同じだった。いや、それ以上だ。


「やめて、お母さん! もうやめてよ!」


 目の前の悪魔を見上げ、首を横に振りながら楓は泣き叫んでいた。

 悪魔は楓の母親だった。悟からは後姿しか見えない為、彼女が今どんな恐ろしい形相で楓を見ているのかは分からない。ただ、右手にだらりと握られている真っ赤に濡れた包丁が、すでに悲劇をつくり、そして新たな悲劇を起こそうとしている事は確かだった。

 自分が想像していた悲劇よりも酷い現実が起きようとしている。

 途端に、楓の笑顔が脳裏をよぎった。

 機敏にドリブルで相手をくぐり抜け、シュートを決めた時の得意気な笑顔。

 渾身のオカルト話で悟を怖がらせた時の満足気な笑顔。

 まるで走馬灯のように流れる映像。まるでもう会えなくなる存在を惜しむかのように映し出された笑顔。

 違う。終わらせない。


「やめろー!」


 腹から全力で出した声が体に気力を呼び起こした。

 動ける。怖くなんてない。楓を失う事に比べれば。

 駆け出した足は、真っ直ぐ楓の母親に突き進み、勢いそのままに全身をぶつけた。

 突然訪れた凄まじい衝撃にか細い母親の体は軽々と吹き飛び、壁に強く激突し床に倒れ込んだ。


「うっ……」


 小さな呻き声を母親が漏らした。だが、すぐに立ち上がる様子はなかった。


「楓!」

「悟……」


 余程の恐怖だったのだろう。悟が楓の前に屈みこむと、楓は悟に抱きついた。


「大丈夫か?」

「私は……でもお兄ちゃんが……」

「……マジかよ」


 悟は歯を食いしばった。あの包丁についていた血は、楓の兄のものか。

 もっと早く来ていれば。だが、後ろからごそりと音が聞こえ、楓の母親がすでに中腰まで立ち上がっているのを見て、後悔を飲み込む。まだ悲劇を完全に止めたわけではない。


「なに、あんた」


 恐怖が一気に押し寄せてきた。

 ぼさぼさの髪の毛。こけた頬。そしてぎょろりと今にも零れ落ちそうな眼球が悟を捉えていた。人間の目ではない。殺意に満ちた獰猛な猛禽類のような、常軌を逸した視線。楓が怯えるのも無理はない。

 包丁の切っ先が悟に真っ直ぐ向けられる。


「邪魔よ」


 次の瞬間、母親の体がぐっとこちらに動き出した。

 振り上げられた腕の先に光る包丁が、悟の命を奪おうとしていた。


「いやー!」


 楓の悲鳴。そして世界が一気に時を緩めたように、全てがスローモーションに変わった。


「うわああああああああ!」


 無意識に叫んだ声。悟の意識は、喉がちぎれんばかりに叫んだ自分の声を最後に途絶えた。

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