三章 脳無

(1)

 パズルを完成させてからも、とりあえずは平和な日常が続いていた。悪夢を見る事もなくなり、それ以外に特にこれといった怪異に見舞われる事もなかった。

 つまらない授業に、くだらない雑談。そんな日常に刺激が欲しくて怪異を求めた。そして、自分の身には降りかからない遠くの恐怖を絶対的に安全な位置から眺めて楽しむ。悟が求めていたのは、そんな娯楽の恐怖、怪異、オカルトだった。


「妙な話を聞いてな」


 だが操の深刻そうな表情は既に娯楽を超えた恐怖が、現実を蝕み始めている事を感じさせた。


「ノームって、知っとるか?」


 操が話始めたのはよくあるオカルト。不気味で嘘か本当か、いや、普段なら99%嘘だと思いながらも、僅かな1%の可能性を楽しみながら耳を傾けてきた話。

 だが、悟にとっては嘘でも何でもない、確かな恐怖だった。




 夜道を歩く一人の男。

 降り積もった業務をなんとかこなした時には既に日付が変わっていた。いつも通りのため息をつき、男は今日も真夜中の帰路に足を落としていた。

 ただただ早く眠りたい。その衝動に任せて動かしていた足は何気なく視界に映った”何か”によって止まった。

 いつもは何も気にせず通り過ぎる公園。その公園の砂場にうずくまって動いている影に、この日に限って気付いてしまった事が男にとって何よりの不幸であり、そしてその不幸に興味を抱き影に近付いた事が最大の悲劇になろう事を、その時男は知る由もなかった。


 砂場でうずくまる影。その影に近付けば近付く程、鼻腔に容赦のない悪臭がねじ込まれていき、不快と不穏が脳を支配していった。

 一体そこに何があるのか。それでも男は足を止めなかった。恐怖があるにも関わらず、好奇心がそれを押し留める。人の理性として間違った判断を下している事に気づかぬまま、とうとう男は影の動作をはっきりと視認出来る程の距離にまで近づいた。

 もはや酸素がちゃんと吸い込めているかどうかも怪しいほどに強烈な悪臭に男は鼻をつまんだ。しかし次なる不穏が、今度は鼓膜を弄りはじめた。

 ぐちゃりくちゃりとマナーの悪い咀嚼音が聞こえるが、影の前に食事は見当たらない。だとすれば、こいつは何を喰っている?

 男は更に目を凝らす。そして凝らした目が捉えた事実を深く疑ぐりながらも、一気に恐怖に汚染されていくのを男は感じた。


 ――そんな、まさか……。


 頼りない街灯の下、影の前に横たわっているのは、人間のようなものだった。精巧なマネキンに思えるほどに、生きていたとは思えない肌色。影の背が隠していた為全体は見えなかったが、放り投げられた足先と頭部から、かろうじてそれが人間である事を認識出来た。だが頭部は完全に首元からちぎりとられ、額から上は齧り取られたようになくなっていた。

 齧り取られるように。

 男はそこで、そいつの食事のメニューに気付いた。

 人間だ。こいつは今、殺した人間の体を喰っている。

 目の前の惨劇に男が恐れる中、尚も影は人肉をくちゃくちゃぴちゃぴちゃと喰らい続けていた。

 好奇心は消え失せ、恐怖で一色に染まった男の感情は、ようやくそこから逃げなければと気付き、慌ててその場から走り去った。


 後日、男の通報のもと警察が調べた所、砂場に残されていたのはやはり死体だったが、その体は酷く損壊していた。特にひどかったのが頭部で顔面は鈍器のような硬質な何かで何度も何度も叩き潰されて、更には額から上の部分はまるで果実を齧りつくしたように消失していた。頭蓋骨、脳味噌がそっくりそのままなくなっており、警察は困惑しながらもそれは持ち去られたのではなく、その場で犯人が喰らいつくしたと断定した。


 しかし、これだけ凄惨で荒々しい犯行にも関わらず犯人とおぼしき痕跡は何もなく、証拠も何一つ残っていないという信じがたい結果が現れた。

 その後も、目的も分からないこの脳を喰らう殺人鬼の犯行は続いた。

 無残に殺人を繰り返し、必ず脳を食するこの殺人鬼はいつしかネットでも話題となり、「脳無」と名付けられ恐れられた。

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