第2話 後悔、或いは
其処は、一言で言えば、とても奇妙な空間だった。
奇妙。それ以外の言葉が思い浮かばない。少なくとも俺には。
その空間には何も存在しないのに、すべてが存在しているように思えた。しかし、生きているものは自分しか居ないようだ。そのような現象を体験したことなど今までに一度もないのだが、まるで自分の周りだけ
目を閉じながらそんなことを考えていたら、上着のポケットの中で何かがかさかさと音を立てた。何か入れていただろうか。ポケットを探ってみる。……少し古びた紙の感触。数枚。
「あ……」
思い出した。俺がこんな奇妙な空間に来ることになった切っ掛けとも言えるであろう、あの数枚の手紙だ。この手紙の送り主は今、何処で何をしているのだろう。自分以外の人間とは関わりたくない、人間など信用しない俺があの時、手紙を読んだ瞬間に感じたものは、きっと……
「あ~っ!腹立つ!何なのよ!この変な空間は!」
突然、甲高い少女のような声がして、俺の思考は遮られた。思わず目を開けそうになったが、何とか堪える。あの吐き気はもう嫌だ。自分以外には誰も存在しない筈なのに、何故だろう。自分でも気付かぬ内に途轍もない不安を感じていて、幻聴でも起こったのだろうか?……そんな考えを打ち消すように、更に少女の声は響く。
「全く、きーきょはいないし出口も入口も無いし、どうすればいいのよ!」
きーきょ……?きーきょって誰だ……?聞いたこともない名前だ。それにしても、此処には出入口も無いのか。ゆっくり全体を見回すことなど出来なかったから、知らなかった。
「あ、、、ねえ、ちょっと、そこのあなた!真っ白な鳥を見ていませんか?このくらいの……結構大きいんだけど」
ん?さらにもう1人居るのだろうか。今の言葉、俺ではない別の誰かに訊いたような感じだった。
「あ……あの……私、見ていないです。すみません……」
やはりもう1人居たようだ。先程までとは違う、か細い少女の声が答えた。
「はぁ、どうしていないんだろう?うーん……あ!そこの人!」
「そこの人」は俺ではない。直ぐに判った。何となくだけれど。すると「そこの人」は静かに答えた。
「ごめんね、僕も見ていないよ」
とても落ち着いた青年の声だ。一体、此処には何人の人が居るのだろう。目覚めた時、確かに自分しかいないと感じた筈なのに。
「それより、此処は何処だか分かる?気付いたら此処に居たのだけれど」
あれ?今の青年の言葉、俺に向けられたような気がする。いや、そんなこともないか。研究所の俺には「天才」とか「特別研究員」とか、下らない
「ねえ、そこの目を閉じてる君だよ、聴こえてるよね?」
「えっ」
思わず目を開いてしまった。すると目の前には、俺よりも随分と背の高い青年が立っていた。
「やっと目を開けたね。君は何処から来たの?」灰の髪と瞳をもった青年は問う。眼光はとても鋭いようだが、終始微笑んでいるのでよく分からない。
「…………」
俺が黙っていると、青年の後方から少女が2人近付いてきた。先程までの声の主たちだろう。一人は身長が低く、こげ茶色の長い髪に若葉色の瞳だ。研究所の製作部の人間が着ていたような作業着を身につけている。強気そうな表情から、恐らく「きーきょ」を探していた
「どうやらこのへんてこな空間にいるのは、あたしたち4人だけみたいね」
暫く続いていた沈黙を破るように、作業着の少女がそんな言葉を発した。確かにこれ以上人の気配は無いようだ。
「出入口も無いようだし、困ったね、どうしようか」
困った、などと言いながら、青年は全く困っているようには見えなかった。落ち着き払って、絶えず微笑んでいる。……こういう人間は好きではない。研究所のあいつもそうだった。物腰柔らかで丁寧、親しみやすく、いつも微笑んでいた。そうやってこちらが心を許すのを待って、いいように利用するんだ。多分あいつらにとっては、人を裏切ることなんて容易いのだろう。きっと何とも思わない。何も感じない。けれど、俺はもう昔とは違う。誰も信用などしない。だからもう二度と裏切られることなんて…………
「……み、……ねえ、……君、大丈夫?少し顔色が悪いよ?」
どうやら再び青年が俺に話し掛けていたようだ。どうせこれも偽善だ。適当に受け流しておこう。
「大丈夫です、顔色が悪いのは元からですから」
実際、外に出ることが殆ど無く、連日睡眠不足の俺の顔はいつも青白い。
「そうか、それなら良かった。それより、やっと話してくれたね。……君の名前は?」
「……見知らぬ人に突然名前を訊かれても答えられません、信用できませんから」
この青年がどうもあいつと被って気に食わないので、目も合わせずに冷たい声色で言い放ってしまった。我ながら子供染みている。それなのに青年は先程までと変わらない穏やかな口調で言った。
「ごめんね、先ず僕が名乗るべきだった。僕は
「俺は――「あなたは野乃刃っていうのね、あたしは
こいつ……!俺が話そうとしているのに自分の話を被せてくるとは、何て腹立たしい女だ。絶対俺よりも年下なのに、やたら態度が大きい気がする。恨めしげに彼女の方を見ていると、
「何よ!あなた、さっきから態度悪いわよ?名前訊かれても答えないし、そもそもあたしがきーきょを探してるってのに目すら開けようとしなかったし!何様のつもり?」そんな風に突っかかってきた。
何て奴だ。こっちは初対面のいけ好かない奴にすんなり名前を教えるほど素直な性格じゃないんだ!素直さなんてとうの昔に捨て去っている。そもそも、俺が名前を言おうとしている時に被せてきたのはそっちじゃないか。言い掛かりもいいところだ。目を開けなかったのだって……だって…………あれ?そういえば、あの気持ち悪さは何処へ行ったのだろう。俺の視界は今はもうしっかりと澄み渡っていて、最早時間のズレのようなものは感じられなかった。
よかった、やっといつも通りの感覚が戻ってきた…………そんな風に安堵したのも束の間、
「ちょっと!無視してんじゃないわよ!どこまでも腹立たしい奴ね!」また奴の言い掛かりだ。それはこっちの台詞だ!ああ、本当に憎たらしい。俺のことなんか放っておいて欲しい。
「そうやって黙ってかっこつけてるつもりなのかもしれないけど、全然かっこよくなんてないわ!気取ってんじゃないわよ、この真っ黒根暗男!」
――気取ってる?俺が?
さっきから受け流していたが、本当に、余りにも言い掛かりが酷すぎる。そろそろ我慢の限界だ。
「……ああもう分かったよ!名乗ればいいんだろう?お前なんかに名乗りたくはなかったが、面倒だから仕方ないな。俺の名前はク――――」
「――なんと!?失敗してしまったようじゃ!ここはどこなのじゃ!?」
名乗ろうとした瞬間、再び俺の言葉は遮られた。……なんて日だ。今日の俺は色々と遮られすぎだ!……というより何より、
「お前は誰だ!?」
「おお!先客がおったか!おぬしらもあちらの世界へ
「いやあ、
「ねえ、あなた、もしかしてここのことについて何か知っているの?知っていたら教えて?」煩い女が訊く。何だよ、丁度俺が思っていたことじゃないか。単なる偶然だと解っていても、無性に腹が立つ。
「いやはや、われもこのような試みは初めてだった故、あまり状況を把握しきれておらんのじゃ。
「え……と、つまり……」煩い女は顔を
「つまり、君もこの場所について何も知らないということでいいのかな」言葉を引き継ぐように、さらりと野乃刃が纏めた。少女は嬉しそうに、
「そう、そう、大体はそういうことじゃ。しかし、何も知らないというのは少々語弊があるな。ほんの少しだけならば、役立つ知識も持っているかもしれぬ」
「と、いうと?」
「実はな、われが以前読んだ書物の中に、このような記述があったのじゃ。
『大いなる扉、動かざる扉。其の扉が開かれしとき、
——とな」書の内容を一息で告げると、少女は満足気に微笑んだ。
「じゃあ君の読んだ書物によると、僕たちが元々居た場所とは隔たった所に在る此処には『異世への道標』が存在しているっていう認識で間違ってないかな?そもそも僕は何も知らない状態で気付いたら此処に居たから、突然異世だとか言われても理解が追い付かないというか、
「おうおう、そうじゃそうじゃ。理解が早くて助かるのう!おお、まだ名前を訊いておらんかった。われさまの名は、何と言う?われは、術者の
「功、のいさんか。よろしくね。僕は
「おお!われのことも呼び捨てで構わんぞ、野乃刃とやら。ところでその背中の物は何じゃ?随分と大きいのう」のいは野乃刃が背負っている、大きく、長い物体——とても目立っているというのに、俺はその存在に今更気付いた——を興味深そうに眺めながら訊いた。
「ああ、これはね、母みたいな人の形見なんだ。大剣なんだけどね。……大丈夫、この剣で君たちを傷つけたり、誰かを
「そうかそうか。形見ならば、それはきっと大切なものじゃな。われは————」
「ちょっと、あなたたち、のんびり話してる場合じゃないわよ!あたしたち、今、どこかも解らない場所にいるのよ?早く何とかしてここから脱出しなくちゃいけないじゃない!」のいの のんびりとした話を遮るように、煩い女が捲し立てる。確かに、それについては俺も同意見だ。一刻も早く此処から出る方法を考えなくては。
「そ……そうじゃな。えーーっと……われさまは……」
「ビレア!
「おお、では、ビレアとやら。……と、えーと……」
のいは困ったように俺と、紅茶髪の少女の方を見る。多分、名前が分からないのだろう。紅茶髪の少女は、のいよりも数倍困ったような表情で俯いている。人見知り、なのだろうか。ここは俺が先に名乗るべきか。
「……俺は、…………リンソウ・ハワード。……そう、リンソウ……ハワード、だ。好きなように呼んでくれ」
「ちょっと、あなた、さっき『ク』とか言いかけてなかった?……ふーん?リンソウ?変な名前ね。聞いたことない言葉だわ。発音しづらいから、リンソウ……そうね、リンスって呼ぶわ。いいでしょ?」人のことを何も気にしないような、雑そうな人間に見えるのに、こいつ、細かいところをよく覚えている。そう、そうだ。「リンソウ」なんて名前の人間は、きっとこの世界に二人として存在しないだろう。だってそれは、俺がつけた、今つけた名前だから。最近読んだ図鑑に載っていた言葉。今は消えてしまった、遠い遠い昔に栄えたという街の言語で綴られたそれの意味は、今の自分にとても似合っている気がした。そうだ。俺は、リンソウ。今この時から、俺はリンソウ・ハワードだ。
「リンソウ……さん。私は、何だか、その響き、好きです」
いつ隣に来ていたのか、紅茶髪の少女が遠慮がちに言った。声は小さく、すこしだけ震えていた。
「…………」
少女が俺に話し掛けてきたことと——事実、話し掛けるというよりは、呟いたといった風ではあったが——その内容に驚いて、俺は、何も言葉を返せなかった。そんな俺を責める訳でもなく、ただ純粋な瞳で一瞥して、
「私は、
「「「!!?」」」
突然、物凄い音がした。
それから、空間が崩壊を始めた。きっとこれは、崩壊。状況を整理し切れない頭の中で、俺はこの現象にそういう名前をつけるほか無かった。それは本当に突然で、俺たちには最早為す術が無かった。被膜が剥がれていくように、ぼろぼろぼろぼろと「崩壊」は進んでいくようだった。空間の欠片は俺たちの上へと、今にも降り注ごうとしている。地面は立っていられないほど揺れ、あらゆるところに亀裂が入っていた。
「あっ……」
ビレアの鋭い声が聴こえた。何だろう。声のした方を見てみる————
「花子!」
もう一度ビレアの叫び声が聴こえた時、既に大粒の欠片が花子——そう呼ばれたのは、紅茶髪の少女だった——を捉えていた。少女は大きな揺れに立ち上がることもできず、ただ、恐怖に竦みながらその時を待っているだけだった。
「…………!」
俺はやはり、何もできない。こんな時でも、何の言葉も掛けられない。体は動かない。あの子は俺のことを、俺の名前を、初対面の俺に向かって——————
「大丈夫?間に合ってよかった」
この状況の中では不自然なほどに落ち着いた声が響いた。————野乃刃。あいつは、あの子を、助けたんだ。
「…………ありがとうございます……野乃刃さん……」
野乃刃は背中にあった大剣を手にし、あの子を庇っていた。欠片の雨は野乃刃によって残らず斬られていく。……見事だった。俺には、絶対にできないことだった。
野乃刃に守られた少女は、幾分か安心したような表情を浮かべている。あの瞳に映った感情は、そう、多分、気遣いと信頼だ。俺には一生向けられることのない瞳だ。誰からも。
どうして。俺は、いつも。
きっと何も救えないまま、守れないまま、終わっていくのだろう。散々人を馬鹿にしておきながら何もできない俺には、優しさを向けられる資格なんて絶対に無い。
この感情は、何だろう。あの子はこんな俺に優しさをくれようとしたのに。震える声で、何かを伝えようとしていたのに。
「リンス!頭上注意!」
ビレアの声が鳴る。高い声。今や空間は、完全に「崩壊」しようとしていた。
そんな中で、のいが言った。
「今、思い出した。あの書にはもう一つ、書いてあったのじゃ。そこには此のようにあった。
『汝は、異世への鍵を手に入れる。其の鍵は、降り注ぐ困難の先に在る』
と————」
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