さいごのプロローグ

「博士!博士!朝ですよ。もうすぐ会議のお時間です。早く朝食を……」

「……分かっているから博士などと呼ぶな」

 俺は、いつも通りの朝を迎えた。


 10月16日。俺の誕生日だ。

 体が重い。昨晩も調べ物をしているうちに眠ってしまったようだ。もう何日も横になって眠れていない。少し頭が痛むが、まあ、それはいつものことだから気にしないでおこう。

「博士!早くされませんと……」

「……だから、そう呼ぶなと言っている」

 五月蝿い部下は焦らせておけばいい。どうせこいつも、陰では俺のことを馬鹿にしているのだろう。伸びすぎた前髪が鬱陶しいが、好奇に満ちた視線を遮ることには少しばかり役立っている気がする。

 俺は最年少の特別研究員スペータ・フェローとして、王立の研究所に所属している。此処には友人も家族もいない。信頼できる者も、もういない。


 7歳の時、学校の授業の課題で製作した物が研究所の研究員の目に留まったらしく、入所を勧められた。俺の住む場所では、王立研究所への入所はこの上なく名誉なことだと考えられている。選ばれた者しか入ることのできない、謎に包まれた施設。大変厳しい守秘義務を負う代わりに、安定した豊かな暮らしが本人とその家族にまで約束される。俺の両親が喜んで食いつかないはずがなかった。俺の意思などが尊重されるはずもなかった。

『お前は若くして、社会のために働けるんだ。誇りに思え』

 何が名誉だ。何が誇りだ。俺はそんなこと、どうだってよかったんだ。俺はいつもみたいに、今までみたいに、これからもずっと変わらないこの場所で過ごしていきたかっただけなのに。

『寂しくなるわねえ……でも、喜ばなくちゃいけないわよね。素晴らしいことなんだもの』

 寂しい?だったら、涙の一筋でも見せてみろよ。引き止めてみろよ。俺の意見を聞けよ。どうせ自分たちの安定した生活と名誉のことしか考えていないんだろう。お前たちはいつもそうだった。俺のためと言いながら、結局すべては自分たちのためなんだ。俺は許さない、絶対に許せない。


 それ以来、両親や友人とは一度も会っていない。勿論、手紙なども届かない。あの日からもう何年になるだろう。人との繋がりなんて、こんなものだ。


「博士……お願いですから……」

 その声にはもう応えず、俺は机の上に散らばっているメモを掻き集めた。部下に見られてはまずい。いつか来る日のために毎晩文献を読み漁って、やっと見つけた情報たちだ。


 もうひとつの世界。


 その存在を初めて知ったのは、数年前の誕生日。研究所附属図書館で偶然手に取った文献に記述があった。正直、目を疑った。過度の疲労によって精神に異常を来してしまったのかとも思った。しかし、図書館に入り浸り、新たな情報を手に入れる度に、その世界の存在は確信へと変わっていった。そして俺はいつしか、そこへ行く方法を調べるようになっていた。下らない伝説だとか、非現実的な話だとか、そんなことを考えている余裕などなかった。魔法使いによって創られたと言われているこの世界だ。研究所で研究されているものにも、明らかに科学的に説明できそうにないものや怪しいものは沢山ある。もう一つの世界の存在や、そこへ辿り着く方法くらいあったっていい筈だ。俺は、ただここから出たいという強い思いに突き動かされ、与えられた仕事の合間に文献を貪り読んだ。それなのに、導き出したい答えに少しも近付けていない気がする。一刻も早くこの生活から抜け出したいのに。焦りと苛立ちばかりが募る。過去に、俺の住む世界からもう一つの世界へと移動した例は幾つかあるようだ。人が突然消えたという話もあった。俺は何をすればいいのだろう。何が必要なのだろう。何が足りないのだろう……


「……ロー、スペータ・フェロー!郵便ですよ」

 部下を完全に無視して考えに耽っていた時、郵便係の耳障りな声が飛び込んできた。どうせまた、何かの依頼書だろう。郵便係の手には、束になった封筒が握られている。面倒に思いながらも郵便を受け取り、確認する。シュナウデル造船所、アポロイラ社、フロックス旅行社……いつもの依頼者たちだ。後で返事を書こう。そう思って、最早本来の役割を果たしていないベッドの上に束を放った。すると封筒の隙間から、何枚かの紙切れがばらばらと落ちてきた。依頼書とは雰囲気の異なる紙切れだ。随分古びている。どこかから紛れ込んできたのだろうか。何となく興味が湧いたので手にとってみると、そこには手紙のような文章が書かれていた。それぞれ書き手が違うのだろう、文体も字もさまざまだった。……が、どの手紙にも似た内容が記されていた。


『とりあえず今は、ここから抜け出したい気がしています』

『こんな僕を連れ出してくれる〝誰か〟はいるのだろうかと、時々考えてしまう』

『もう、この場所から出たい。逃げ出したい』


 俺と同じだと思った。何処に住んでいるのかも何歳なのかも分からない人々だというのに、何故か一瞬、心の深い部分で繋がったような気がした。そして今まで胸に秘め、口にしたことがなかった思いが、自然と口を衝いて出た。



「ここから抜け出したい」




 そう呟いた次の瞬間、何の前触れもなく現れた眩い光に包まれ、俺は思わず目を閉じた。自分で作った暗闇の中で絶えることなく光が点滅していた。それから柔らかな花の匂いと強い風と身が焦げるような熱と、心地よい歌と、兎に角あらゆるものが俺の周りを過ぎ去っていったように感じた。随分と長い時間そうしていたような気がするが、もしかしたらそれは一瞬だったのかもしれない。恐る恐る瞼を押し上げた時、そこには、いつもの研究室とは異なる殺風景さを持った空間が広がっていた。一度も来たことがない筈なのに、どこか懐かしいと感じる空間だった。その空間には、大きな大きな扉があった。扉は俺に問うた。


『お前には、ドゥシュドを開き、進む権利が与えられた。さて、通るか?』


 俺には何のことなのか、何が起こっているのかさっぱり解らなかった。そもそも、扉が喋る事自体、非現実的で可笑しな話だ。でも、それは俺の眼前で起こっている。


『どうするかと訊いている。通るのか、通らないのか?』


 俺が暫く悩んでいると、扉は少し苛立ったようにそう言った。

 どうすればいいのだろう。突然訳の分からない場所に移動して、訳の分からない事を訊かれている。これは夢なのだろうか。しかし、夢だとしても、取り敢えず選択をしなければ……


「通ったら、どうなる?通らなかったら?」


 そう訊いてみた。扉は馬鹿にしたように嗤いながら、

『この私を呼んでおきながら、そんな事も知らないとは。笑わせる。しかしまあ、近頃は私の存在すら知らない者も多い。仕方のない事かもしれんな。……通れば、今までとは違う場所へ行ける。通らなければ、今までと同じ場所に戻る。そしてもう二度と、私と会う事はないだろうな。……さあ、どうする?少年よ』と言った。

 今までと同じ場所になんて、あの研究所になんて戻りたい訳がない。そんな選択肢は存在しない。だから、俺は、


「通ります。その先に、どんな世界が待っていようとも。今までよりは、きっとましだ」


『良い答えだ。吉と出るか凶と出るかは分からんがね。私は保証しない……しかしよく言った。さあ、通れ、少年。気をつけて行くんだぞ』そう言って、ドゥシュドは重い音を立てながらゆっくりと開いた。俺は、少しの不安を振り切るように、勇んで進んだ。

 

 一歩目を、扉の外へ。

 

 

 それから俺は、

 

 一歩一歩進むごとに、

 

 意識をゆっくりと失っていった。


 これから先のことなど、もうどうでもよかった。



 このぼんやりとした心地よい感覚にいつまでも身を委ねていたいと、ただ、そう思いながら、俺の意識は消えた。

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