── 地下の住民




 カンカンカンと音をたてて、鉄の階段を下りていく。灰色の薄汚い建物からは溝のような湿った匂いがした。ただただ下へ続いていく階段を見下ろして、チュナシは自慢の禿げ頭を撫でながらひくひくと鼻を動かす。

 まるでネズミ。

 都人が見たらまず目を背ける風体で、彼はニヤリと口角を上げた。

 クレハの前で来ていた軍服は、今は異臭のするぼろ布に変わっていた。上宮で生きているような雅な人間には拷問かもしれないが、生まれたときから掃きだめの中で生きていたチュナシにとってはこの格好が一番落ち着く。


「臭いが変わってるな。新入りが増えたか」


 市の後は他の地域からきた人間が地下街に流れ込む。そのまま上手く居つく奴もいれば、結局馴染むこともできずまた他のところへ流れていく者もいる。どちらにせよ、命があれば儲けもので、都の地下街に流れてきたよそ者の多くが些細なことで命を落とす。

 風が吹かず、空気も澱む地下街では、人の出入りで匂いが変わる。新しいものが多く出入りするこの時期は、いつもよりも少し外の臭いがするものだ。


 階段が終わった。


 灯りもない地下は墨で塗り潰したように暗い。足を一歩踏み出して、闇に向かって手をかざす。冷たい壁の感触。チュナシはそのまま慣れた手つきで壁を触りながら、あるところを指でたたいた。独特の拍子に強弱をつけて、何度かそれを繰り返す。一瞬の間を置いて、むわっとした熱気が顔面をなめた。そこにあったはずの壁は、気配ごと掻き消えている。


「あー、良い臭いだ」


 ネオンと喧騒と食べ物の臭いに包まれて、思い切り息をする。

 c3‐O区。

 地下街の中でも比較的治安が安定していて、地上からの出入りも多い繁華街。地下街出身が多く、日雇い労働者と彼ら相手の安い出店で賑わっている町だ。地上はまだ昼間だが、日の指さない地下街では昼夜関係なく飲みたいものは飲み、死にたいものは死ぬ。


 久しぶりの空気。据えた泥水のようなくさい臭気。


「いけねえいけねえ。ただの里帰りじゃねえんだ。仕事をしないとな」


 思わずにやつく頬を押さえて、チュナシは喧騒の中に滑り込んだ。


 うまそうな出店の臭いや、しなを作り客引きをする湯女たちにそそられそうになるが、そこはぐっとこらえて道を行く。一度寄り道がバレて大変な目に合ったことがある。あの時の将軍の怖いこと怖いこと。般若と化した将軍の顔を思い出して浮き足立つ自分の心を引き締めた。何度目かの湯女の誘いを断った頃、ようやく目当ての裏路地を見つけだ。


 喧騒が賑やかな大通りから裏路地に入り込むと、空気が一段冷えた感覚がする。

 表の活気も変わらないが、裏の湿っぽさもまた変わらない。

 チュナシは黙々と足をすすめた。




 宿木のように、表舞台に一切上がってこない人間はただの暗がりでは潜みきれない。地下街出身の人間でも容易に踏み込まないような、危ないところにいるのは間違いない。


 問題はそこをどう炙りだすか。


 ヘドロが流れ出る細い路地をすべるように歩きながら、チュナシはここに来るまでのことを思い出して顔をしかめた。

 結局、地下街に潜ったのはチュナシ一人だった。

 他に何人か若いのを連れていこうとしたがどれも駄目だ。全員育ちの良さがにじみ出て、とてもじゃないが使えない。地下街に降りようものなら、一瞬でカモられるのが落ちだろう。


(人手が欲しいような、欲しくないような、微妙な気分だな。まったく)


 都の地下街は地上の繁華街よりも広く深い。一人よりも二人の方が、二人よりも三人の方がいいのは間違いない。とはいえ、足を引っ張るような人間なら居ない方が百倍増し。


(いつまでもおいらが動けるわけでもねえ……こりゃちょっと、本気で考えてもらわねーとなんねえな)


 赤髪の大将の横顔を思い浮かべながら、苦々しくため息をつく。


 しばらく細路地が続いた後、チュナシがひとつ路地をぬけると開けた場所が現れた。豪快な男衆の笑い声が煩く響く。

 その中に見知った顔を見つけてチュナシは声をあげた。


「ジーダ!久しぶりだな!」

「おう、シシドじゃねえか。戻って来たのか」

「おうよ、今回は上手くいくと思ったんだけどなあ。まあた出戻っちまった」


 チュナシよりも十ほど若い強面の男が驚いたように立ちあがる。

 その男の周りにいた奴らも、チュナシの顔を見て懐かしそうに声をあげた。


「なんだー!生きてたのかシシド!」

「まったく、いい年してまだ夢見てんのか。一度地下落ちした人間が地上で成功できるわけねエッてのによ」

「そーだそーだ!凝りねえ野郎だぜ」

「まあ皆さんそう嫉妬しなさんなって。みっともねえから」

「馬鹿野郎!誰がおめえなんかに嫉妬するんだ」

「全くだっ!」


 はっはっはと威勢のいい笑い声が辺りに響く。


 ジーダというこの男はこの辺りに住む日雇い労働者の兄貴分だ。ちゃんとした仕事を持たない彼らは強い力こそ持たないが、下手な情報屋よりも確実で、鮮度のいい情報を握っている。生き抜くために同業同士で繋がりあい、この街の情勢を誰よりも冷静に把握しているのだ。義理人情に厚くよそ者に冷たい分、一度仲間として認めてもらえれば滅多なことでは追い出されやしない。

 チュナシとしては最高の情報源だ。


「それで、今回は何やらかしたんだ?」

「別にやらかしてないさ。ただちょっと店の雲行きが怪しかったもんでな、有り金持って、下手な目見ないうちに逃げてきたのさ」

「ははっ、相変わらず逃げ足だけは早いこった!」

「そんなことしてねえでここで雇われてりゃ楽なのによお」


 顔見知りの男どもに揉まれながらあることないこと話し倒す。


 彼らの中ではチュナシは地下落ちという設定になっている。元は地上の商家の生まれだが、子供の頃に家業がとん挫し地下に落ちてきた可哀想な男。五十を過ぎても日雇いでまとまった金がたまるとすぐ地上に行って、一発成功してやろうと夢を見ているろくでなしだ。そしてすぐに失敗して、地下の日雇いとして戻ってくる。


「それで?久しぶりに戻ってきたら、あんたら随分豪勢じゃねえか」


 彼らが集まる机の上には何皿もつまみや料理が並べられていた。いくら路地裏のしがない店の料理だとしても、日雇いの彼らからしてみればごちそうとしか言えない量だ。酒もずいぶん飲んでいるのか、空いたグラスがこれまた乱雑に机の上を占領している。


「ああそうなんだ!おめえもまた馬鹿なことしたよなあ!地上で一発当てようとなんかしなけりゃ、条件のいい仕事にありつけたって言うのに」


 上機嫌のジーダに合わせて、周りの男たちもそーだそーだと声を張る。


「条件のいい仕事?」


 ピンと勘が働く。これはなかなか、良い当たりだ。


「なあに、簡単な仕事さ。俺らお得意の力仕事。ところがどっこい、もらえる額は普段の二倍、いや三倍ぐらいはあったっけか」

「金が三倍?なんでまた」

「さあな。でも別に楽な仕事だったわけじゃねえ。誰も寄り付かねえようなひっでえゴミ溜めの掃除さ。二日でやれって言われたときは、ふざけるなと思ったけどな」

「ああ。でもあんだけの額、普通の仕事じゃもらえねえよ。それこそ人殺すぐらいしねえとなあ」

「それをただのゴミ掃除でもらえるんだ!俺たちゃツイてたぜ」

「へええ!そんな珍しいこともあんだな。それを知ってたらもっと早く地下に戻ってきてたんだけどなあ!」

「地上に浮気なんかすっからそんな目に合うのさ」

「そーだそーだ!」

「うるせえ!おい、誰だ!おれの服に酒こぼした奴は!」

「ははは、どうせきったねえ服なんだから構わねえだろ!」

「確かに!そりゃそうだ!」

「構うわ馬鹿野郎!つめてえだろうがっ」


 酔い倒れた男たちに絡まれて騒ぎながら、チュナシはずっとジーダの様子を盗み見ていた。


「でもよくそんなうまい話が転がってたな。おらあ小心者だから、うまい話が転がってるとすぐ裏があるんじゃねえかと疑っちまうけど」

「いや、そりゃ大丈夫だ」

「ああ。俺たちだって馬鹿じゃねえ。きなくせえ話には乗らねえよ」

「これはちゃんとした筋からきた、ちゃんとした依頼よお」

「へええ!だとしたらなおさら羨ましいわ!やっぱりさっさと地下に降りてりゃ良かったなあ」

「はっはっは!そうやって浮気ばっかしてるから、おめえはいつまでも損を見るんだよ!」

「違ェねえ!」


 彼らが言う確かな筋というのは、昔馴染みの元締めか他の地域の同業者からの斡旋だ。


(だがなあ。だとしても話がうますぎるんじゃねえか)


 うまい話には裏がある。薄汚れたこの街であればなおさら。

 なのになぜ、ジーダはその仕事を引き受けたのか。


(よし。今回はこっから色々探ってみるか)


 チュナシはにっこりとした表情で、片付けにきた店の女に追加の酒を注文すると、そのままジーダたちの酒宴に紛れ込んだ。















《ええ!?戻って来いって、勘弁してくださいよ、旦那ァ》


 男たちにまぎれてしこたま酒を飲んだ夜更け。

 指すような痛みがして跳ね起きてみれば、見慣れた式がチュナシの耳たぶを啄んでいた。


《地下に戻ったら、そんなすぐには地上に戻れないのはわかってるはずですよね!?》


 クレハ将軍の式だ。

 隠密活動中の部下と連絡を取る際に用いられる。傍から見ればただの鳥にしか見えないが、あらかじめ決められた者が、決められた手順で開封すれば、鳥は一枚の紙になる。そしてそこに書きこんだ文字は遠く離れた場所にいる本体にも浮かび上がる。逆もまた然りで、定時報告などの際によく使う方法だ。


 とはいえ、今日潜ったばかりのチュナシに飛ばす理由も飛ばされる理由もなかった。


 周囲の男たちが寝静まっているのを確認し、鳥の中身を確認する。

 そして、そこに書いてあったのが、明日戻って来いと言うクレハ将軍からの命令だったわけだ。

 慌ててチュナシは懐からペンを取り出して、式の紙に書きなぐった。冗談じゃない。折角好調な出だしを決めているというのに、将軍の気まぐれで呼び戻されていてはたまったもんじゃない。


《お前、結局一人で地下に潜っただろう》


 すぐに将軍からの返事が浮かび上がって来た。


《そろそろお前の後任も用意しないといけないんだから、ちゃんと若いの連れていけ》

《そりゃ連れていこうとしましたよ!だけどありゃ駄目だ。使えねえ。将軍、あんたの部下全員育ちが良すぎるんだ!》

《知るか。二人ほど見繕ってやったから明日迎えに行け。上宮まで来いとは言わない。繁華街までは行かせるから、都合がいい場所を教えろ》


「はあああああああ」


 思わず大きなため息が出る。

 隣で散々飲み明かした男共が、いびきをかいて眠りこけている。

 こいつらと接触する前ならまだしも、散々話をした後で実は二人連れがいるんだなんて、ごまかすことは出来るかもしれないがどうしたって妙だ。何か訳アリだと思われたら相手に警戒されてしまう。


《へえへえ。そしたら花街の外れにある〝畑〟に来てくだせえ》

《時刻は》

《宵口で》

《わかった》


 将軍の短い返事が浮かび上がるのを確認してチュナシはすぐに式を燃やした。口の中で囁くように唱えた呪文と呼応して、チュナシの中の神力が熱を持つ。音もなく式は燃え上り、一瞬の後に灰へと変わった。それすらもチュナシのひと吹きであっという間に散っていってしまう。


「あーめんどくせえっ」


 約束の時間は宵。

 将軍が見繕った若造がどんな奴かはわからないが、地上の花街に明かりがともるにはまだ時間が掛かる。それまでチュナシは惰眠をむさぼることにして、ジーダをはじめとした男衆への言訳は起きた後に考えることにした。


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