── 灰色の朝
風・二三 朝
上宮から南に少し行くとそこには猥雑とした繁華街が広がっている。月に一度の市が立つのがこの繁華街で、街の至る所で商人たちが品物を売っている。そうでなくてもこの街は多くの人が行き交い、休むことを知らない。
皇国の都・ヤツーシカは芸術や学問、文化の都として知られている。
高尚な貴族文化が上宮を中心とした都の北部で発達し、猥雑な商人や庶民の芸術は繁華街を中心とした南部で栄えている。
そうはいっても明確な境界線があるわけではない。ここには文化と呼べるものがいくつも存在している。いくつもの文化と文化がゆっくりと混ざり合い影響しあい、また新しい文化が生まれ、ヤツーシカという一つの都を作り出していた。
ヤツーシカに住む多くの都人が言うだろう。
〝神の末席に連なる者〟と尊ばれる現皇でさえ、この都の一部であると。
そしてだからこそ、自分たちは皇族を尊び、上宮を尊び、国が繁栄していくのだと。その考えは都から皇国全土に広がり、建国から今に至るまでの皇国の発展に貢献している。
上宮も繁華街も、建物の多くは細長く、天に高く飛びえている。繁華街には様々な地区があり、各地区に特色がある。その中には遊郭や賭場が集まっている地区もあるし、劇場が集まっている通りもある。新進気鋭の服飾店が軒を連ねている通りもあれば、昔ながらの伝統的な街並みを残している地区もあり、食べ物の種類も猥雑として一口で説明することは出来ない。
ただ、この二つの地域をみただけでこの都のことを語ることは出来ない。この都は古くから、本質的に三層構造になっているからだ。
今、朝方特有のすがすがしい空気の中、一人の痩せた男が繁華街の一角を歩いていた。
馬鹿騒ぎをする祭日の翌日は、さすがの都人も活動するのが遅くなる。いつもより人気の少ない道を慣れた様子で歩きながら大通りを抜け路地裏へと入っていった。
男が歩いている第三区は繁華街の中でも羽振りの良いものが住む高級住宅地で、ハイファと呼ばれる場所だ。
そこを歩く男の姿は確かに町の風格と合うような質のいいコートを着ている。
黒い帽子を目深に被り、同じく黒いコートの襟を立てて足早に歩いていく。履いている靴も高級そうなものだが、男の足音はなめらかで、こういった靴を履く人種にありがちな神経質な足音ではない。
帽子からわずかに見える男の髪は曇り空のような灰色で、素早く辺りを見回す両の目も灰色がかった水色をしている。
男は静寂な朝の雰囲気を壊さないよう静かに路地裏を抜けると、灰色の小さなビルの中に入った。
そこは丁度三区と四区の間ぐらいだった。
中はがらんとしていて、明かりもほとんどない。質の悪い曇りガラスから入ってくる光が不健康そうに中を照らしていた。入ってすぐのところに階段がある。十階建てのビルでは、階段は上へと続いている。男は迷うことなく階段へ向かうと、そしてそこを降りていた。
普通の人が居合せたら、男が一人壁の中に消えていってしまったと思うかもしれない。もしくは、あまりに自然な動作で男が消えたことすら意識に上らないかもしれない。
それでも確かに男は階段を降りて、降りて、降りて、降りて、そして喧騒とネオンの光が煩い雑多な通りへと出ていった。
「ハチ、遅かったね」
降りてきた男を迎えたのは一人の少女だった。
「ああ。昨日は稼ぎ時だったからな。物忌み前の市はいつもよりずっと儲かる」
「景気は良さそう?」
「現皇様バンザイって感じだな」
少女は男の隣に並ぶと、そのまま二人して通りを歩いていく。
地上の静けさはどこに行ったのか、祭日の夜のような喧騒がそこには生きている。狭い道を多くの人が行き交っている。売り込みや呼び込みをしている商人の声や、露店でものを食べている人の声。ざわざわとした足音。道端で笛や太鼓を演奏する者もいて、音の渦が渦巻いているようだ。
「お二方には何もないか」
「あの人たちはいつも通りだよ。ハチが帰ってきたと知ったらきっと喜ぶ」
「忘れられてるだろうな」
「でも大丈夫。すぐ思い出すから。忘れてるんだか覚えてるんだか分からない人たちだもの」
「そういう人だから仕方ない。本当は思い出そうと思えばいくらでも思い出せるのさ」
「ふふふ。あたし、だから好きよ。髪の毛もふわふわしてて可愛いし。妹みたい」
「ノギ、一応お前の雇主だぞ」
呆れたように男、ハチが注意するが少女は笑みを深くするだけだった。ノギと呼ばれた少女にはふさふさとした尻尾が生えている。彼女は、獣人だった。
この地下街、都全体に蟻の巣のように広がっているこの地下街が、ヤツーシカの持つもう一つの側面だった。
この、もう一つの繁華街に住むのは無論アウトロー。
事情があって上の世界から流れ込んできたものや、親に捨てられた孤児、その他にも地下に生まれ育ち地下で生きる生粋の者もいる。
ここはもう一つの都といっても過言ではない。
ハチとノギが通ると、たいていの人は道を開けた。その中には親しげに手を振ってくるものもいたし、頭を下げる者もいる。ハチはそういった人たちにそれぞれ反応を返しながら、さらに地下街の奥深くへと進んでいった。
「また新しい奴らが入ってきたな」
「市が終わった後だからね。色んな地域からいろんな人が流れ込んでるよ。でも今のところ何もないから、いちいちあたしたちが顔を出す必要はない」
「そうか。ならいい」
「ハチ、ここまでくればもう大丈夫でしょ。あたしはお使いも頼まれてるから、行くね」
「今の流行はなんだ?」
「ノインケのティラミスパンケーキ!」
「…またそんな、奇怪なものを。ティラミスなのかパンケーキなのかわからないじゃないか」
「しょうがないじゃない。彼女たちのご所望だもの」
そういうと軽やかに身をひるがえして、少女は横道に消えていった。久しぶりに地下街に帰ってきたハチのために迎えに来てくれたのだ。ノギの細やかな気遣いを有難く思いながら男は先を急いだ。
地下街は変化の激しい場所だ。
ここで生まれここで育ったハチでさえ、半年も離れていれば一瞬にして土地勘を失う。慣れればそんなことないのかもしれないが、生憎半年もの長期間地上に出ていたのは初めてだったのでノギが迎えに来たのは正解だった。
ハチがいくつかの角を曲がり、また階段を降りて、先へ進んでいくと、道はどんどん狭くなっていった。横道も増え、いかにも蟻の巣といった言葉が似合う。薄暗いのは地下街の常識でもあるが、それにしても道はだんだんと薄暗くなっていく。
ここら辺になると地下街に住む命知らずでさえ滅多に入り込んでこない。この街の最深部といってもいいかもしれなかった。
「ハチさんお帰りなさい」
ハチがたどり着いたのは袋小路だった。若い男が一人立っている。気だるげにタバコを吸いながら軽く手を挙げてハチを迎えた。
「チーシャか。お前ちゃんと働いてるか」
「働いてますよ。ハチさんが上に行って一番被害を被ったのは俺ですからね。二人とも容赦なしなんですもん」
若い男は吸っていた煙草を地面に落として踏み潰す。
ひょうひょうとした態度は相変わらずだ。
「コード変わってるんで外で待ってたんですよ。ノギは買い物行っちゃったでしょう?」
「ああ。よくわからないものを買ってくるって言っていた」
「あれ意外とうまいっすよ」
壁に書かれた落書きをチーシャがなぞる。
「いやあこれで俺も肩の荷が下りたってもんですよ。よくこの半年間首が飛ばなかったもんだって思います」
「思ってたよりも才能があったみたいだな」
「やだなあ。ハチさんが俺を指名したんじゃないですか」
「なら俺の後を継ぐか?」
「あと三〇年は譲る気なんかない癖に。よく言いますよ。俺には違う役職あてがってください」
落書きの部分をなぞり終えると、ふっと目の前の壁が消えた。
「それは俺が決めることじゃない」
「じゃあ最後にお二人に胡麻すっとくかなあ」
その先には小さな扉があった。
まるで喫茶店の入り口のような洒落た扉だ。
二人はその扉を開けて中へと入っていった。
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