四日目(2) 死にたがりの娘
呼ぶと、川の向こう岸で母が手を振り返してくれた。
片手で籠を抱えていて、そこからは赤い木の実が零れ落ちそうになっている。柘榴だろうか。
そっちに行くから、と叫ぶとまた手を振られた。
見れば、母は眉尻を下げ、目の端に滴を浮かべている。それは、ぽたりぽたりと落ちて、砂利の上に染みを作っていた。
待ってて、と叫ぶ。すると今度は首を振られる。
「そっちに行くから!」
袴の裾――村では一度も目にしたことのない、光沢を放つ薄い布の服――をからげ、一歩踏み出そうとして、川の水の色がおかしいと気が付いた。
透き通った、魚の鱗や蟹の甲羅の柄まで見分けられるいつものそれではなく。黒く渦巻いて中が覗けないもの。
瞬いて、顔を上げる。
向こう岸の母の傍にはいつの間にか父もいた。
つい最近、背丈が自分と並んだ弟も、よちよち歩きの弟も、その手を引いた妹も。
隣に住んでた酒好きの
どろり、と皆の服が溶ける。皮膚が真っ黒に煤けていく。ぼこり、と眼窩が窪む。
急に川が真っ赤に染まった。
叫ぶ。
跳ね起きた。
背中を、腹を、汗が流れていく。顎からも滴が伝わり落ちる。
心臓が煩い。
短い呼吸を繰り返しながら見回して、自分がいるのは大きな寝台の上で、ここが部屋の中だと知った。窓の外には糸のような月。寝台に窓際の円卓と椅子、棚の装飾は手の込んだ彫りで、自分の育った家とは間違いようがない。
知らなかった土地、入ったことのない城。そして。
寝台の足元側には顔を二度合わせた青年――
そうだった、と息を吐く。
また捕まって、比陽は別の部屋に連れて行かれた。こちらは湯を使わせてもらえて、食事も与えられたが、その後はどうなるのか。
喉を鳴らして身を引くと、笑われた。彼の眼帯が見た目どおりの繊細な音を立てる。
「生きながら、焼かれたか。おまえの家族と、同じ村に住まっていた者たちは」
「どうして、知っているの?」
「おまえの夢を覗かせてもらった。その上で少し占ってもいるがな。……おまえしか残っていないらしい」
「そうなのね」
やはり、皆あの炎の中にいたのか。
「……偶然?」
「そんなわけなかろう」
桂雅が首を振る。
「あれが――比陽が村の外に居るのを知っていたうえで焼いたのだ。鍵を持ち逃げされて、振り回された腹いせに。もっとも、そこからさえおまえたちは逃げ出して、更に振り回すことに成功したのだから、笑い話だな」
彼は右手を突き出してきた。掴まれて揺らされているのは『鍵』。金で作られている以外は何の変哲もない、親指ほどの大きさしかないそれ。
「比陽が大事にしていたの」
「あれは父から授かったのだろう。もしもの、保険に」
「もしもの?」
眉を寄せる。青年も一瞬だけ同じ表情になり。
「この戦いの理由を知っているか?」
と返してきた。それには首を振る。
「誰が王様になるか、ということ」
「端的にはな」
は、と彼は息を吐いた。
「誰が王になれば己にとって得か――そんなことを考えている連中もいるのだよ」
「……そう」
比陽が厭がっていた相手だ、と唇を噛む。
「あなたも、そうなの?」
問うと、彼はゆるりと首を傾げた。
「考えたな。比陽を王にするか、
「どうして」
「見えた未来を確実に呼びたかった」
彼は笑む。
「遥か先に、新しい王が立つ。彼は愛されて育ち、それが故に民を慈しむことができるだろう。その王が無事に立つ道を私が用意したい」
真っすぐに凜の顔を見て。
「おまえがその母となればいい。子を愛し、育てる母に」
「わたしが?」
今度は凜が首を傾げる。
「母親?」
何事もなく村で暮らしていたら、いずれはそうだったのだろう。
縁談を用意され、同じような境遇で育ってくるだろう男と結ばれ、子を成して。血を未来へと繋げようとしたに違いないけれど。
「もう、なれないのじゃないかしら」
「何故そう思う?」
「だって……」
村が亡くなったから。
それ以外にない。
「みんな死んでしまったのよ。さっきあなたが言ったんじゃない。炎に生きながら焼かれたんだって」
不意に、ぼろり、と目の端から雫が落ちた。
「きっと、熱かったに、苦しかったに、助けてもらいたいって願っていたに違いないわ」
「それは」
「違いないじゃない。苦しくて苦しくて仕方なくて、早く解放してくれって……! いっそ一思いに殺してくれって!」
ぼたぼたぼた、と涙を落としてから。
「そうよ。死んでいたら楽だったかもしれないのに! あなたに操まで奪われたわ!」
叫び続ける。
「死んでいたら、何も痛くないし、怒ることも悲しむことも何もしなくて済むのに!」
俯いて、肩で大きく息を吸う。
そっと顔を上げると、青年の眸が見えた。
深い、深い水の色――丘の向こうで広がる海そのものの色の眸が。
がち、と奥歯が鳴る。
相手は片方しか表に出ていない眸をまっすぐにぶつけてくる。
長い指が、喉に添えられる。ゆっくりと食い込んでくる。
息が吸えない。
顎を上げて、唇を開いて、そろりと両手を持ち上げて、首を掴む腕に触れる。
「死にたいのだろう?」
朗らかな声だ。瞼を持ち上げると、青年の顔が見えた。
その赤い唇が弧を描き、静かに近寄ってくる。
肺に空気をれていない唇を塞がれる。口腔に捻じ込まれてきたのは、温かく勝手に動くもの。それに喉を塞がれてさらに目を見開く。体を捩ったら、首の後ろも掴まれた。
僅かに、両手の爪を立てる。
それでようやく首から手が離れた。
口の端から唾が流れ、肩から寝台に倒れ込む。
滑らかな敷き布に頬を寄せて、深く息を吸いこんだ。
「そうまでして、まだ死にたいと言うか?」
「……分からない」
目を閉じて首を振る。目尻がじわりと熱い。
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