第55話「白い流星が落ちる日」

 阿室玲奈アムロレイナが放った打球は、コースこそ甘く素直な真っ直ぐだったが……恐るべきスピードと重さで楞川翔子カドカワショウコに迫った。

 ラケットでどうにか受け止めた翔子が、全身を濡らす汗をはじけさせる。

 苦悶くもんの表情で彼女が握るラケットの、その網目へとボールは食い込んでいった。

 まさしく、超高校生級とでも言うべき玲奈の身体能力……テニスを超えた、これはもはやテニヌだ。王子様がゾーンとかいうので恐竜絶滅や隕石衝突を再現させるアレだ。

 だが、翔子はひび割れ始めたラケットを決して手放さない。

 周囲は気付けば、固唾かたずを呑んで成り行きを見守っていた。


「ううー、ふうー……うわあああっ!」


 気勢を叫んだ翔子は、わずか一瞬でラケットに左手を添えて両手持ちに切り替える。そのまま彼女は、力任せに振り切り、打球を打ち返した。

 しかも、ただ打ち返したのではない。

 既に身構えていた玲奈の、油断した素振りも見せない顔面へと返球したのだ。

 普段の玲奈ならば、苦もなく処理したであろうストレート。だが、咄嗟に彼女はラケットで防ぐことしかできなかった。やはり、今日の玲奈は少し変だ。

 長らく彼女を見て、ずっと見詰めてきた日陽ヒヨウいづるだからわかる。

 あのVの字アホ毛が閉じた彼女は、明らかに精彩を欠いていた。

 防御するしか反応できなかった玲奈のラケットに跳ね返り、ボールは……玲奈の足元に落ちる。

 予想外の展開に、誰もが一瞬目を疑った。


『ああっと! 先にポイントを奪取したのは……楞川翔子っ! どうした、どうしたんだ、なにがあったんだーっ! 萬代ばんだいの白い流星、まさかまさかの先制を奪われるーっ!』


 思い出したように校内放送のスピーカーが叫びだして、周囲がざわめきに顔を合わせ始めた。そして誰もが、無言でボールを拾う玲奈へと視線を殺到させる。

 無敵のヒロイン、萬代のエース、阿室玲奈。

 いったい彼女になにが?

 無言の疑問符を投げつけられながら、玲奈は静かに身構える。

 そんな姿とは対照的に、肩を上下させて呼吸を貪る翔子の目はすわわっていた。ギラつく視線で玲奈をめつけつつ、翔子は手にした半壊状態のラケットを投げ捨てる。

 ガラン! とヒビ割れ網目のへこんだラケットが転がると同時に、彼女は叫んだ。


富尾トミオ先輩! ラケット! ポカリ!」


 騒然とする中、黙って富尾真也トミオシンヤが新しいラケットを、いでスポーツドリンクのボトルを投げ入れる。

 翔子はその二つを受け取り、喉を鳴らして水分を一気におのれへと注ぎ込んだ。

 そしてそのまま、空になったボトルを地面に叩きつけるや、ラケットを身構える。

 鬼気迫ききせまるとはこのことだ……豹変ひょうへんしてしまった幼馴染おさななじみを前に、いづるは声を失う。

 先ほど、いづるにはこの死闘、私闘が無意味な決闘デュエルにも思えていた。まるで古代ローマのコロッセオだと。その認識は今、見守る全ての人へと伝わり戦慄を伝搬させている。

 誰もが恐怖した。

 楞川翔子というあわれな剣闘士グラディエイターが、百獣の王へと挑む闘いではない。

 これは、逆だ。

 阿室玲奈という最強の騎士が直面する、手負いで血に飢えた危険な餓狼がろう

 追い詰められているのはむしろ、玲奈の方だった。

 気圧される周囲の生徒たちから、次々と不安と期待の声が広がる。


「お、おい……なんか、押されてね? あの、萬代の白い流星が」

「ああ……どうなっちまうんだ、この対決」

「それより、なんか……ちょっち怖いけどよ」

「あの一年、楞川翔子だっけ? けっこーかわいいじゃんかよ」


 場の空気は今、明らかに変わりつつあった。

 集まった誰もが期待していたのは、華麗なる玲奈の圧倒的な王者の威厳だ。真也を常々跳ね除けてきたように、今日も挑戦者を持ち前の技量で封じ込める。

 相手の100%フルパワーを出させて受け止め、その上で勝つのが玲奈だ。

 だが、今は違う……誰の目にも異変は明らかだ。

 今の玲奈からは、いつものりんとした覇気が感じられない。

 技はかげり、力は半分も出ていないように思えた。

 いづるだからそう感じた、そしてそれは確信だ。

 それでも周囲は無責任に、新たなヒロインの登場に盛り上がる。無邪気な夏のはしゃいだ気持ちが、玲奈にとってアウェーの空気になって陽炎かげろうに揺れた。


「翔子ちゃーん! がんばれ、君ならできるっ!」

「よく見りゃナイスバディ、ボインちゃんじゃないの!」

「あのむっちり感、たまんねぇ……次は翔子ちゃんの時代だっ」


 翔子コールが巻き起こる中、息を荒げて翔子は玲奈だけを見ていた。

 まるで、牙を剥き出しにうなる野生の獣だ。

 そして、その視線から玲奈が逃げることはない。

 たとえ後ろ向きの気持ちに、心が折れかけていても……玲奈に逃げるという選択肢はない。彼女が逃げることを許すものは、この世に誰一人として存在しないのだ。

 思わずいづるは身を乗り出して叫んだ。


「翔子! よせ、阿室さんはっ!」


 大熱狂、大興奮の歓声に飲み込まれてゆくいづるの声。

 そして、絶叫も虚しく悪夢の決闘は終局へと加速していった。

 表情の失せた玲奈は、それでも見事なフォームで試合再開のボールを翔子へと打ち出す。


『さあ、翔子ちゃんの先制点で試合が動くっ! 第二ラウンド、レディィィィィィィィッ、ゴォォォォォォーッツ!!!』


 互いを切り刻むようなラリーが再び始まった。

 相変わらず玲奈は、精密機械のように正確な動作で、的確に翔子へとボールを打ち続けている。それを周囲はエースの余裕とたたえていたが、いづるには違って見えた。

 今の玲奈に、いつもの躍動感溢れる、見る者を興奮と感動に突き動かすエレガントさはない。いづるだからわかる、本当の玲奈がスポーツに打ち込む姿、それは美しいものだ。

 まるで抜け殻のように、マシーンとなって玲奈は翔子へとボールを叩き込み続けた。そして、その軌道は徐々に、素人の翔子が持て余すような厳しく鋭いものへと変化してゆく。常に相手に有利な球を向けて、その上で真っ向からの勝負で圧倒してみせるのがいつもの玲奈だが……有無を言わさぬ際どい攻めは、彼女に余裕がないことの現れだった。

 そして、時につまずき転げまわって、いつくばるようにしながら翔子がボールを拾う。

 物狂ものぐるいという言葉が、いづるの脳裏に走った。

 歓呼の声を叫ぶギャラリーの熱狂に、二人の会話が入り交じる。


「くっ、倒せない……倒れない!? 翔子さん、貴女あなたって人は!」

「わたし、負けない! 負けるもんか……負けてなんか、やらないもん!」

「それでも……それでも! 私、もう……もう、誰にも――私は、去るしか」

「逃さないって、言ってるでしょオオオォォォ!!!」


 既にもう、翔子はフラフラで足元がおぼつかない。

 それでも食らいつくようにラリーを続けて、玲奈へと危険なボールを幾度いくどとなく返す。

 玲奈もまた、すでになりふり構わぬ攻撃を続けていた。

 二人の間を行き来するボールの奏でるテンポが、どんどん際限なく加速してゆく。まるでそう……危険なビートを刻んで、ギャラリーを狂騒きょうそうに歌わせるメトロノーム。そのリズムが高まるほどに、二人は限界へと哀しいチキンレースでアクセルを踏み込む。


「翔子さん、これ以上は。私は! だって、だって……」

「そういうのっ! いづちゃんに言って、言ってあげてくださいっ!」

「だって、もう……私、もう」

「もう、なんだっていうんですか! もう飽きた? もう好きじゃない? もう、嫌い? そういうのっ、ちゃんとぉ! いづちゃんにぃぃぃぃぃ!」

「……それこそ、迷惑をかけてしまうわ。だって、私、本当は……本当に、いづる君が」


 ルーズなボールが、ネット上の空へと軽くゆっくり舞い上がった。

 感極まった玲奈が、翔子の問い詰めに素直になり始めていた矢先だった。

 だが、もう既に翔子に彼女の声は届いていない。

 なにが翔子をそこまで闘いに駆り立てるのか?

 いづるにはまだ、そのことに気付けない……幼馴染で、家族で、大好きな人のために戦う少女の気持ちがわからない。人は皆、常にそこにある事実を、真実として受け止め再認識するのが難しいものだ。

 恋して愛する前に消えた、生まれる前から変わっていた……永遠の初恋が、一撃に宿る。

 迷わず翔子は、ネット際へ詰め寄るように走り出す。

 同時に玲奈もまた、それに応えるように地を蹴った。

 二人はネットを挟んで、激突もさぬ勢いで互いへ突っ込む。

 そして、同時に跳躍……天を奪い合うように、太陽の逆光に二人が吸い込まれた。


「あなたはわたしがつの! 今日、ここで! ……萬代の白い流星なんて、やめちゃってぇぇぇ! いづちゃんの玲奈に、戻ってっ!」

! 私は本当に……心から! いづる君が好きだから! だから! 負けられない……いづる君には甘えられないの。それは、駄目ッ!」


 夏の日差しが照りつける光の中で、二人の想いが交錯こうさくした。

 激しい衝撃音と共に、ボールを求める二人のラケットが接触、そして激突。そのまま砕けてバラバラになる。舞い散る木片のシャワーの中で、玲奈と翔子は……ふと、笑った。

 端微塵ぱみじんになったラケットの木屑かけらの中で、着地する二人。

 そして、ボールがポトリと落ちた。


『……決着! 決着です! 萬代の白い流星、まさかまさかのストレート負けぇぇぇっ! 大変なことが起こりました! 全校生徒諸君、聞こえるか! 萬代の白い流星の戦いの記録……記録願います! ……願いますっ!』


 ボールは、玲奈の後ろに転がっていた。

 そして、いづるは見た……ネットを挟んで玲奈と翔子が、ようやくいつもの二人に戻るのを。だが、それも一瞬のことで玲奈は言葉こそ翔子をたたえていたが、声は弱々しく冷たい。

 一本角になってしまった玲奈の前髪は、いよいよ力なくグンニャリとれていた。


「お見事よ、翔子さん。玲奈って、呼んでくれたのね」

「……ごめんなさい、阿室先輩っ! わたし、わたし……いづちゃんのこと、悔しくて」

「いいの、いいのよ。さ、笑って? 貴女、勝者なんですもの。そして、私は敗者……そう、これが敗北なのね。なら、いいわ……私は敗者になりたい」

「……グスッ、阿室先輩。わたしが玲奈って呼ぶのは、友達だから。また、今度はそう、ガールズトーク……もっと、こう、楽しく。阿室先輩? ね、いづちゃんに――」


 泣き始めた翔子を、ネット越しにそっと玲奈はでた。汗に濡れたその髪を優しく撫でて、それから……首を巡らせいづるへと視線を投じてくる。

 そこには、今にも泣き出しそうな玲奈の顔があった。

 それが、今日初めて表情を映した彼女の弱々しい微笑みだった。清々すがすがしささえ見せる寂寥に満ちた笑みは、その頬に一筋の光を走らせる。

 気付けば真也に背を押されて、いづるは一歩前へと踏み出した。


「阿室さん……あの、なにが。なにがあったんですか? 僕、気になります。僕で力になれないですか? 僕は、僕は……阿室さん、貴女を支えたい!」

「いづる君。……ありがとう。私、実は――」


 その時、放送部の実況を叫ぶ興奮の声が突然トーンダウンする。

 

『え? なに、読めって? なんの原稿! こ、これは……え、えーと、生徒会副会長、阿室玲奈さん。至急、校長室まで来てください! 繰り返します、ってこれ、出頭命令じゃない!』


 なにかを言いかけた玲奈は、言葉を飲み込む。そしていづるに背を向けた。


「――さよなら、いづる君」


 サヨナラ、その四文字がいづるの頭の中で反響する。

 ギャラリーたちが客席を飛び出すや、雪崩となって勝者の翔子に、新しい萬代学園のヒロインに殺到する。その人波の中に玲奈は消えていった。

 こうして、いづるの夏が終わりを迎えようとしていた。

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